三浦主任の「ん」はずるい

「主任、チェックお願いします」
「ん」

奈緒の影がディスプレイに伸びると顔を一瞬あげ、顎を出す。
決裁待ちの書類が山積みになっている。ペーパーレスが主流の中、紙で提出を要求されていた。

「先日の件、まだ回答を頂いてませんが?」

崩さないよう慎重に置く手つきには、輝く指輪。

「今日中にお願いできますか?」
「ん」

一方、カツンッとエンターを弾くのは輝きのない指先。

「……では、期日を延長できないか聞いてみますね」
「ん」
「あ、それと」
「ん」

奈緒の前へファイルが差し出される。

「ありがとうございます!」
「ん」

来月半ばからの休暇申請が通り、奈緒の顔が綻ぶ。両手で抱え、頭を下げると手入れが行き届いた毛先が流れる。

上司である三浦は、今にも踊り出しそうなパンプスを見送った。



「独身最後の旅行ってやつです? 結婚しちゃうと気軽に行けなくなっちゃいますもんね」

「……そういうわけでもないんだけど」

ファイルの角を擦りつつ、奈緒は首を横に振る。

「意外だなあ。川村さんは仕事を続けるって思ってましたから」

ゆくゆく彼女の仕事を引き継ぐ後輩は『寿退社』を羨ましがる一方、家庭に入る選択に傾げた。

「そう? でも、決めたの。ほら続き、やろうよ」 
「あーやっぱり無理ですー。三浦主任の通訳は川村さんじゃないと」

奈緒の抱える業務は多岐に渡る。こうしてすきま時間を縫い、グチに付き合ったりもする。

「大丈夫、慣れるって」
「いやいや、慣れる気がしません。主任ってば『ん』しか言わないじゃないですか?」

豪快に突っ伏す姿に奈緒の眉が下がった。
奈緒も最初は主任とのコミュニケーションに苦戦し、そうして頭を抱えたものだ。

三浦彰人。会社創立以来のスピードで主任に抜擢される手腕は誰もが納得するものの、寡黙を通り越す無口さに難があり。

「実は主任の『ん』は三十種類の意味があるの」
「うわあ、そんな?」
「分かってくると癖になるかも?」
「なりませんって! 翻訳機ください」

三十種類の意味があるのは冗談として、奈緒は「ん」を訳すのが苦じゃない。

「今から『ん』の意味、詳しく教えてくれませんか? お願いします」

すがりつかれる腕を見下ろし、頷く。
時計の針は定時を回ろうとしていた。