逃げられるものならお好きにどうぞ。



「……分かった。もういい」



椿くんの胸元を押して、距離をとる。



「っ、さようなら!」



わざと勢いよく扉を閉めて、部屋を出た。

だけど椿くんは、引き止めてくれなかった。追いかけてくる気配もない。



「っ、ふっ……」



エレベーターに乗り込んだ瞬間、涙が溢れてくる。

椿くんが無事であればいいと、そう願っていた。だけど椿くんの中から、私の記憶が全部消えちゃうなんて……そんな未来、想像もしていなかった。


これからどうしたらいいのか、自分がどうしたいのか、何も分からなくて。

だって私が何を言ったって、きっと今の椿くんには届かない。信じてもらえないだろうって、そんな確信があったから。


口許は弧を描いているのに、ひどく冷え切ったあの瞳に射抜かれた瞬間、私の中でギリギリで繋ぎとめていた虚勢の糸は、プツリと切れてしまったから。



“ずっと一緒にいる”って、そう約束したのに。



(椿くんの、嘘つき……)



だけど、信じてもらえるまで逃げずに彼に向き合う勇気も、彼の手を引っ張って連れ戻す度胸もなかった臆病な私は、ただただ心の中で、大好きな彼の名前を呼び続けることしかできなかった。