逃げられるものならお好きにどうぞ。



「……椿、くん?」



声に出して、その名前を呼ぶ。大好きな彼の名前を。

だけど振り向いた彼は、私のよく知る彼と、どこか違っているようにも思えて。



「お姉さん、誰?」



持っていた折り畳み傘が、手から滑り落ちていく。

大粒の雨が、容赦なく私の身体を濡らしていく。



「誰って……」

「何で俺の名前を知ってるの? お姉さん、どこかで会ったことあったっけ?」



私を見つめる椿くんの顔は、とても冗談を言っているようには見えない。

他人でも見るような、何の感情も含まないまなざしで、その瞳に私を映している。



……もしかして、椿くん……。



「私のこと、忘れちゃったの?」



ザアザアと降り注ぐ雨のせいもあるのかもしれない。

だけど目の前にいる椿くんの反応に、身体だけでなく、私の心までもが、スウッと冷えていくのが分かる。


呆然と突っ立っていれば、近づいてきた椿くんは地面に落ちたままの傘を拾って折り畳みながら、自分の傘の中に私を入れてくれる。