逃げられるものならお好きにどうぞ。



「香月さん、おめでとう」



バーに足を踏み入れて聞こえてきたマスターからの第一声が、これだった。



「あの、おめでとうって何のことですか?」



首を傾げて聞けば、マスターも「おや」と首を傾げながら不思議そうな顔をしている。



「椿と付き合ったんじゃないのかい?」

「つっ……何でマスターが知ってるんですか?」

「椿本人から聞いたんだよ」



まさかマスターが知っているとは思わなかったけど、職場の上司で、私とも関わりがあるのだから、黒瀬くんが伝えていたって何らおかしいことではないか。



「はい。付き合って、ます」

「やっぱりそうなんだね。椿は色々と面倒なところも多いけど、根は良い奴だから。よろしく頼むよ」

「……はい」



マスターは目尻に皺を作って、優しい顔で笑っている。

何だか黒瀬くんのお父さんみたいにも聞こえる発言に、少しだけ微笑ましいような気持ちになる。


黒瀬くんは今奥で、備品の整理をしている最中らしい。

マスターに勧められてカウンター席に腰を下ろした数秒後、私の左隣に誰かが腰掛ける。



「へぇ、やっぱり付き合ったんだ」



視線を向ければ、そこには、このバーで一度だけ飲んだことのある人物――以前ホテルの人に「佐藤様」と呼ばれていた、長髪の男性が座っていた。