ことば湯、ひとしずく――道後の小さな宿に、言えなかった想いを置いていく

 十二月の半ば、おばあちゃんが倒れた。
 倒れた、というほどではなかった。帳場で立っていたとき、少しよろめいて、カウンターに手をついた。わたしがちょうど隣にいたので、すぐに支えることができた。顔が白くて、額に汗が滲んでいた。
「大丈夫?」
「めまいがしただけ」
「座って」
 おばあちゃんは抵抗せずに椅子に座った。抵抗しなかったことが、かえって心配だった。
 その日の午後、医者へ連れていった。近所のかかりつけ医で、おばあちゃんとは長い付き合いらしかった。検査をして、点滴を打って、過労と脱水気味だという診断が出た。入院するほどではないが、数日は安静に、と言われた。
 宿に戻る車の中で、おばあちゃんは窓の外を見ていた。
「迷惑かけるね」
「迷惑じゃない」
「今月、予約が入ってるから」
「分かってる。なんとかする」
 おばあちゃんは何も言わなかった。反論もしなかった。それが、今日いちばん心配なことだった。
  
 佐和さんに電話すると、すぐに来てくれた。
「今日は店を早く閉める。しばらく手伝う」
「でも佐和さんの店が」
「年末は常連さんが来てくれるから、少し休んでも大丈夫。それより女将さんの方が大事」
 有無を言わさない言い方だった。佐和さんらしかった。
 湊人さんにも連絡が入ったらしく、翌日の昼過ぎに顔を出してくれた。観光協会の年末の仕事がある中で、時間を作ってくれていた。
「何かできることがあれば」
「夕食の配膳と、チェックアウトの応対が助かります」
「分かりました。夕方来ます」
 二人が来てくれることで、宿は回った。わたしが中心に動いて、佐和さんが厨房を支えて、湊人さんが客との応対を手伝う。おばあちゃんが一人でやってきたことが、三人がかりでなんとか形になった。
 それを実感したとき、この宿がいかに一人の人間によって支えられていたかが、改めて分かった。
  
 三日目の夜、宿泊客が全員温泉へ出かけた時間に、三人で台所に集まった。
 佐和さんが残り物でお茶漬けを作ってくれた。湊人さんが湯飲みを並べた。わたしが漬物を出した。特に打ち合わせたわけではないが、自然にそうなった。
 三人で並んで食べながら、しばらく誰もたいしたことを話さなかった。疲れていたし、話すより先に食べることが必要だった。
 佐和さんが最初に口を開いた。
「女将さん、今日は顔色よかった」
「昨日より落ち着いてました。でも、まだ本調子じゃない」
「無理させないようにしないとね」
「させません」
「由良ちゃんがいてよかったよ、本当に」
 その言葉が、さらりと言われた分、深く届いた。
 由良ちゃんがいてよかった。
 わたしがここにいることの意味が、今夜いちばん具体的な形で見えた気がした。一か月のつもりで来て、八か月以上が経った。その間ずっと、自分がここにいることへの問いを持ち続けてきた。でも今夜、おばあちゃんが倒れて、佐和さんと湊人さんが来てくれて、三人で宿を回した。その一日が終わったとき、ここにいてよかったと思えた。理由や根拠ではなく、ただそう思えた。
「湊人さん、ありがとうございました。お仕事もあるのに」
「いや、これくらい。女将さんには世話になってきたから。俺の方こそ、二宮さんがいてくれて助かった。段取りが分かってる人がいると全然違う」
「段取り、分かってきたんですね、わたし」
「分かってるじゃないですか、十分」
「来たときは何も分からなかったのに」
「人って変わるもんですよ」
湊人さんの言い方は、さらりとしていたが、その中に何かが入っていた。
  
 片づけが終わって、佐和さんが帰ったあと、湊人さんがもう少し残っていた。
 帳場の前で、わたしが翌日の準備をしていると、湊人さんが小上がりに腰かけていた。
「二宮さん、少し聞いてもいいですか」
「はい」
「この先、どうするつもりですか。女将さんの体のこともあるし、宿のこれからのことも」
 直接な問いだった。でも、責めているわけでも、急かしているわけでもなかった。
「まだ決まってないです。でも、今日一日を通して、ここを続けたいという気持ちがある、ということは分かった」
「続けたい、と、続けると決める、は違いますよね」
「違います」
「その違いを、どうやって超えるつもりですか」
「怖いです」
 湊人さんは黙っていた。
「また間違えるかもしれない。ここを続けることが正解かどうか、分からない。好きだという気持ちだけで続けられるかどうかも分からない。おばあちゃんの帳簿を見たとき、現実の重さも分かった。それでも続けたいという気持ちはある。でも、続けると決めることへの怖さが、まだある」
「白石さんが言ってましたよ。ここで聞いた話ですけど」
「何を?」
「残るって決めるのも、出るって決めるのも、どっちも簡単じゃないって。俺も同じだと思ってます」
「久米さんは、どうやって折り合いをつけてるんですか」
「折り合い」
湊人さんは繰り返した。
「折り合い、か。うまく言えないですけど、決めたから怖くなくなる、んじゃないと思ってます。決めたあとも怖いまま進んでいくことが、決めるってことなんじゃないかな」
 白石さんの言葉と重なった。間違えると分かって選ぶことが、選ぶということです。
「久米さんも、同じことを言いますね、白石さんと」
「そうですか。会ったことほとんどないですけど」
「でも同じことを言う」
「当たり前のことだから、当たり前に思う人は同じことを言うんじゃないですかね」
 当たり前のことが、当たり前に思えない時期があった。怖いまま進んでいくことが決めるということだ、なんて、今のわたしには少しだけ分かる。でも、本当に分かるのは、決めたあとのことを経験してからだろう。
「二宮さんが本当に怖かったのって、何ですか」
 湊人さんは前にも似たことを聞いてきた。電車の中ではなく、今夜は帳場の前で。
「また選ぶことが怖かった。東京で選んで、うまくいかなかった。壊れてしまった。だから、また選ぶことへの怖さがある。選んだ結果が、また失敗だったら、と」
「失敗だったら?」
「また壊れてしまうかもしれない」
「でも、二宮さん、今日壊れてないじゃないですか」
「今日?」
「今日、女将さんが倒れて、てんてこまいで、夜まで動き続けた。壊れなかったでしょ」
「壊れなかった」
「前と何が違いますか」
 考えた。
 東京での最後の頃と、今日は何が違うのか。同じように忙しくて、同じように一日中動いていた。でも今日は、壊れなかった。
「やらされてる感じがなかった」
 自分でも意外な言葉が出てきた。
「東京では、やらなきゃいけないからやってた。でも今日は、やりたいからやってた。その違いが、たぶんある」
「それじゃないですか」
 湊人さんはそれだけ言った。それ以上続けなかった。
 やりたいからやっていた一日は、どんなに疲れても、壊れなかった。それが全てではないかもしれない。でも、大事なことの一つだった。
  
 湊人さんが帰ったあと、わたしは帳場に一人残った。
 おばあちゃんの部屋から、かすかな気配があった。眠っているのだろう。穏やかな静けさが、廊下の向こうから漂ってきていた。
 帳場の灯りが、橙色に帳場を照らしている。外から見ると、この灯りがことの葉亭の灯りとして見える。おばあちゃんが何十年も、この灯りを毎夜ともしてきた。
 今夜は、わたしがともしていた。
 ことば帳を手に取った。
 余白のページを開いた。先日書いた「まだ途中」の書き添えが見えた。
 途中。
 今日一日を経て、途中の場所が少し変わった気がした。同じ途中でも、どちらを向いているかが、少し定まってきた。
 ペンを取った。
 今夜は書ける、という確信があった。残したいものが、今夜はちゃんと形になっていた。
 でも、書こうとした言葉は、最終的なものではなかった。決意表明でも、答えでもなかった。
 ただ、今夜分かったことを、書いた。

 やりたいからやっている日は、どんなに疲れても、壊れなかった。
 
書いてから、読み返した。
 これだ、と思った。
 うまくはない。でも、今日起きたことの中で、いちばん残したかった言葉だった。
 これを書けたということは、次の言葉も、いつか来るかもしれない。
 ことば帳を閉じた。
 帳場の灯りを落とした。廊下が暗くなった。
 六号室へ向かって歩いた。
 冬の宿の廊下は、静かで、少し冷えていた。でも、足の下の板の感触が、体に馴染んでいた。どれだけ歩いたか分からない廊下を、今夜も同じように歩いていた。
 それが、今は好きだった。