藍の手紙、夏の終わりに――阿波おどりの季節、染めかけの青が動き出す

 演舞場に着いたとき、最終日の熱はすでに頂点に近かった。
 観客が道の両側にびっしり並んでいた。提灯の橙色が頭上に連なって、その下を連が流れていく。太鼓の音が腹に響いて、笛が夜空に向かって伸びていく。鉦の金属音が、全部の音を一つに縫い合わせていた。
 実桜は演舞場の端に立って、流れを見ていた。
 綾乃と柚葉は少し前に出て見ていた。陸久が連の裏方として動いているのが、向こうの端に見えた。法被姿で、穏やかに全体を見ている。
 遥人が踊っている連が来た。
 見つけるのは難しくなかった。人波の中でも遥人の動きは分かった。笑っているわけではないのに、踊っているときの顔には、昼間の遥人とは別の光があった。体のどこかに、ここが自分の場所だという確信があって、それが動きに出ていた。
 実桜は遥人の踊りを見ながら、自分の足を感じていた。
 足が動きたがっていた。
 昨日も一昨日も感じていたものが、今夜は昨日より強かった。見ているだけでは分からないものがある、と思っていた。踊る阿呆に見る阿呆、という言葉を人生の選択として考えていた。
 連が通り過ぎた。
 次の連が来るまでの間、実桜は少し後ろに下がった。

 演舞場の端に、にわか連の場所があった。
 にわか連とは、誰でも参加できる輪のことだった。連に所属していない観光客や、一般の人が、その場で加わって踊ることができる。衣装がなくてもいい。踊り方が正確でなくてもいい。ただ、輪に入って、音に合わせて動く。
 実桜はその場所を知っていた。遥人から聞いていた。
 にわか連の輪に、何人かが加わっていた。観光客らしい人も、地元の人らしい人も、子どももいた。揃ってはいないが、そこにも熱があった。
 実桜は輪の外に立って、それを見ていた。
 入ってもいい、と思った。
 入ってもいい、という言葉が、怖さより先に来たのは初めてだった。これまでは、入りたいという気持ちと、でも自分には、という引き止める力が同時にあって、後者が勝っていた。
 今夜は違った。
 入ってもいい、という言葉が、体の中から来た。誰かに言われたのではなく、自分から。
 実桜は輪の外で、少し足を動かした。
 音に合わせて、ほんの少しだけ。
 動いた。
 体が、音を覚えていた。見ているだけだったのに、どこかで吸収していたらしい。足が動いて、腕が自然に上がった。
 実桜は輪の中へ、一歩入った。

 輪の中の熱は、外とは違った。
 音が全方向から来た。太鼓が足元から上がってくるような感じがして、笛が頭の周りを回った。鉦の音が体を通り抜けた。
 実桜は踊った。
 正確ではなかった。形が整っていなかった。でも音に合わせて動くことは、体が自然にやっていた。
 隣の人の動きを見ながら、真似をした。完全には真似できなかったが、大きな動きは分かった。手を上げて、足を踏んで、体を傾けて。
 夏の夜の空気が、体に当たった。
 提灯の橙色が、頭の上で揺れていた。
 実桜は踊りながら、目に入るものの鮮明さに驚いた。外から見ていたときより、全部が近かった。音も、光も、隣の人の体温も。見ていたときに感じていたものが、入ったことで全部が倍になった。
 分からないものがある、と思っていたことの意味が、体で分かった。
 これだった。

 どれくらい踊ったか、時間の感覚がなかった。
 一曲分かもしれないし、もっと長かったかもしれない。輪の中に入ったら、時間が溶けた。
 隣に誰かが来た気配があった。
 見ると、綾乃だった。
 綾乃は浴衣を着ていなかった。普段着のままで、輪の外ぎりぎりのところに立っていた。輪の中にはまだ入っていない。でも、足が動いていた。わずかに、小さく、でも確かに、音に合わせていた。
 実桜は踊りながら、綾乃を見た。
 目が合った。
 綾乃は実桜が輪の中にいることに、少し驚いた顔をしていた。でも、実桜の踊りを見た瞬間、その顔が変わった。
 変わった、というより、何かが緩んだ。
 実桜は綾乃に向かって手を伸ばした。
 おいで、という意味ではなかった。ここにいる、という意味だった。輪の中にいる実桜が、外にいる綾乃に向かって、ただ手を伸ばした。
 綾乃は少しの間、その手を見ていた。
 それから、一歩入った。

 綾乃が輪の中に入った瞬間、体が変わった。
 外では慎重だった動きが、輪の中では違った。音を聞いた瞬間に、体が先に動いていた。四年間眠っていたものが、目を覚ましたような動きだった。
 完璧ではなかった。ぎこちない部分もあった。でも体が覚えていることは、正直に出てきた。
 流水のように、という言葉を実桜は思い出した。あの浴衣の柄を選んだ人が言ったと、綾乃が話していた。綾乃の踊り方は、確かにそういう動きだった。滑らかで、途切れなくて、一つの動きが次の動きへ自然に繋がっていく。
 綾乃は踊っていた。
 四年ぶりに、阿波おどりの夜に、輪の中で踊っていた。

 輪の外で、柚葉が見ていた。
 柚葉は泣いていた。泣きながら、笑っていた。手で口を覆って、でも目が笑っていた。
 実桜はそれを見て、自分の目にも熱いものが来た。
 泣くつもりはなかったが、来た。
 踊りながら、目から何かが落ちた。夏の夜の汗と混ざって、どこへ行ったか分からなかった。
 でも、それでよかった。

 向こうの端で、陸久が見ていた。
 法被姿のまま、腕を組んで、輪を見ていた。表情はいつもと変わらなかった。でも実桜には、その穏やかな顔の中に何かがあるのが分かった。
 綾乃が輪に入ったことを、陸久は見ていた。
 陸久は視線を前に戻して、また全体を見始めた。それだけだった。でも一瞬だけ、腕の組み方が変わった。少し力が抜けた、という感じだった。
 阿波おどりを守るために浮かれ役を引き受けない人が、今夜だけ少し緩んだ。
 それを見たのは、実桜だけだったかもしれない。

 遥人の連が、もう一度通りかかった。
 にわか連の輪の横を流れていくとき、遥人が実桜を見つけた。
 踊りながら、笑った。
 何も言わなかったが、笑い方が全部を言っていた。来たやんか、という顔だった。
 実桜は踊りながら、遥人の連が過ぎるのを見ていた。
 揃った浴衣が、提灯の橙色を受けて流れていく。音が大きくなって、また遠くなる。
 踊る阿呆に見る阿呆。
 同じ阿呆なら、という言葉の続きを、実桜は今夜初めて体で知った。
 踊る方が、よかった。
 見ているより、ずっとよかった。怖いとか、できるかとか、そういうことより先に、よかった、という感覚だけがあった。

 どれくらい踊っていたのか、実桜には分からなかった。
 やがて、綾乃が輪の外に出た。
 実桜も続いて出た。二人で、少し離れた場所に立った。息が上がっていた。夏の夜に踊ったあとの、いい疲れ方だった。
「踊りました」
「踊りましたね」 
「怖かったですか」
「最初だけ。入ったら、怖さより体が先でした」
「そうです。そういうものです、踊りは」
 綾乃の顔に、実桜が初めて見る表情があった。
 踊り終えたあとの顔だった。ほかの何でもない、踊ったあとの人の顔だった。疲れていて、でも何かが満ちていて、目の奥に熱が残っていた。
「どうでしたか?」
「まだ、うまく言えないです。でも、来年も踊れる気がします」
 その言葉が、静かに夏の夜に落ちた。
 来年も踊れる気がします。
 四年前に止まった人が、来年のことを言った。

 柚葉が駆け寄ってきた。
「見てた。見てたよ、お姉ちゃん」
「見ていたの」
「ずっと。泣いた」
「泣いてどうするの」
「泣くやろ、こんなん」
 綾乃は柚葉の頭に手を置いた。上から押さえるような、姉の手の乗せ方だった。柚葉は頭を押さえられながら、でも嬉しそうだった。
「柚葉も、踊ったら」
「え、いいの?」
「にわか連なら、今からでも入れる」
 柚葉は実桜を見た。
「入ってよかったです。入ったら分かることがありました」
 柚葉は二秒だけ考えて、輪へ向かった。
 あっという間だった。
 輪の中に入った柚葉の動きは、ためらいがなかった。踊ったことがないはずなのに、体が音を受け入れるのが早かった。踊りたかった時間が長かった分、その願いが体に入っていたのかもしれない。
 綾乃はそれを見ていた。
 笑っていた。
 泣きそうになって、でも笑っていた。止まっていた時間と、先へ進む時間が、綾乃の顔の中で同時にあった。

 夜が深くなった。
 最終日の演舞が終わりに向かっていた。連が一つ、また一つと通り過ぎていく。観客の中に、惜しむ空気が広がっていた。
 終わりが来ることを、全員が知っていた。
 でも終わりが来るから、今夜の熱があった。
 実桜は演舞場の端に立って、最後の連が流れていくのを見ていた。
 綾乃が隣に来た。
「浴衣を受け取って、踊りました」
「はい」
「手紙は、まだ届いていない。でも届けようとします」
「届くといいですね」
「届かなくても、探します。それは決めました」
 実桜は綾乃を見た。
 四年前に止まった人が、今夜動き出した。完全に解決したわけではない。手紙はまだ届いていない。あの人の今も分からない。でも綾乃は、止まったままでいることをやめた。
「途中のものには、続きがある」
「そう言ってくれてよかったです」
「私も、続きがあると思えてきました。自分のことも」
「東京のこと?」
「それも含めて、ここに来てからのことも」
「ここで何かが変わりましたか」
「変わりました。何者かになれなかった、と思っていたけど、それは違ったかもしれない。誰かの形に自分を当てはめようとしていただけで、自分の手が何をできるかは、まだ分かっていなかった」
「手が変わりましたか、ここで」
「変わりました。布を洗って、藍に触れて、色を重ねてきた。今日、浴衣に手を入れた。それは全部、自分の手がやったことです」
 綾乃は頷いた。
「それが続きですね」
「そうだと思います」

 最後の連が通り過ぎた。
 囃子の音が、少しずつ遠くなっていく。
 演舞場に、静けさが戻ってきた。観客が動き始めて、人波がゆっくりと散っていく。
 柚葉が輪から出てきた。息を上げて、でも目が光っていた。
「踊った」
「踊りましたね」
実桜は言った。
「すごかった。体に全部入ってくる感じがした」
「そうです。それが踊りです」
 綾乃が言う。
 姉妹が並んで、同じ目をしていた。踊ったあとの、満ちた目だった。
 遥人が法被を着た陸久といっしょに来た。
 陸久は実桜を見て、「踊ったんか」と言った。
「はい」
「にわか連やけどな」
 遥人が言う。
「それでも踊りました」
 陸久は少しの間、実桜を見た。それから短く、「まあ、ええ」と言った。
 陸久にしては、かなり温かい言い方だった。
 遥人は笑っていた。いつもの笑い方より、少しだけ力が抜けた笑いだった。
「来年は、最初から踊るか」
遥人は尋ねた。
「来年のことはまだ分かりません」
「まあ、そうやな」
「でも、踊ったら分かることがあると、今日分かりました」
「それで十分や」

 五人で、町を歩いた。
 実桜は、自分ももう輪の外の人ではない気がした。
 阿波おどりの終わったあとの夜の町は、静かだった。提灯の光が残って、人が少なくなった道を照らしていた。 
 熱が引いていく途中の空気があった。
 でも熱が引くことは、終わることではなかった。今夜の熱は、それぞれの体の中に入っていった。明日になっても、消えるものではなかった。
 工房の近くの路地で、綾乃が立ち止まった。
「実桜さん、一つだけ聞いてもいいですか」
「はい」
「これからどうするつもりですか。東京に戻りますか?」
 実桜は少しの間、考えた。
 一か月の予定で来た。阿波おどりが終わったら、祖母の体調も落ち着く。東京に戻る理由は、ある。でも、戻る理由と、ここにいる理由が、今夜は同じ重さだった。
「まだ決めていません」
 実桜は少し考えてから、続けた。
「でも、決めていないまま流されている感じは、もうしません。今は、自分でここにいたいと思っています」

 綾乃はその言葉を、すぐには返さなかった。
 川の方から、夜の音がかすかに流れてくる。遠い囃子の断片が、風に薄く混じっていた。
「それなら、十分だと思います」
 綾乃は穏やかに言った。
「決めきることより、自分でそこにいると思えることの方が、ずっと大事なときがあります」
 実桜は少しだけ息をついた。
 その言葉に、背中を押されるというより、足元を確かめてもらったような気がした。
「綾乃さんもそう言いますね。祖母と同じことを」
「京子さんから学んだのかもしれません」
 実桜は笑った。
 綾乃も笑った。
 柚葉が「何の話?」と割り込んできた。遥人が「大人の話」と言って、柚葉が「失礼な」と言った。陸久が何も言わずに歩き続けていた。
 路地の角で、五人が分かれた。
 綾乃と柚葉が一方へ。陸久が別の方へ。遥人が「また明日」と言って、手を上げた。
 実桜は工房への路地を歩いた。
 夜の空気が、阿波おどりの後の静けさを持っていた。提灯がまだいくつか灯っていて、路地を橙色に照らしていた。
 足に、踊ったあとの感覚が残っていた。疲れていたが、いい疲れ方だった。
 工房の引き戸を開けると、藍の匂いがした。
 いつもと同じ匂いだった。でも今夜は、その匂いが少し違う意味を持って鼻に入ってきた。
 ここが、自分の戻る場所になっていた。
 一か月の予定で来た場所が、戻る場所になっていた。
 それがどういう意味を持つか、まだ全部は分からなかった。でも分からないまま、ここにいることが、今夜は怖くなかった。
 実桜は工房の中に入った。
 棚を見た。
 和紙の包みはなかった。封筒もなかった。綾乃が持っていった。
 空になった棚の場所に、夜の光が当たっていた。
 そこには今、何もなかった。
 でも何もないことは、空白ではなかった。
 次に何かが来る場所だと、実桜は思った。
 染まりかけのものが、次の色を待っているように。