藍の手紙、夏の終わりに――阿波おどりの季節、染めかけの青が動き出す

 最終日の朝は、穏やかに始まった。
 阿波おどりの最後の日だというのに、工房の朝はいつもと変わらなかった。祖母が早くから甕の前にいて、実桜が顔を洗って作業着に着替えて、朝の仕事を始める。
 でも外の空気は違った。
 最終日の熱が、朝からもう町に漂っていた。阿波おどりの終わりを惜しむような、それでいて最後の夜に全部出し切ろうとするような、独特の空気だった。
 遥人が来たのは午前中だった。
 作業着ではなく、浴衣を着ていた。連の浴衣で、紺地に白の柄が入っている。今日の夕方から踊りに出るのだと言った。
「似合いますね」
 実桜は言う。
「ありがとう。今日は午前中だけ手伝って、昼から準備する」
「十分です。来てくれて助かります」
 遥人は甕の確認をしてから、仕上げの残りを手伝った。三人で動くと、午前中のうちに片づいた。
 片づいた工房の中が、少し広く感じられた。

 綾乃が来たのは昼過ぎだった。
 今日は柚葉といっしょではなかった。一人で来た。
 引き戸を開けて入ってきた綾乃の顔は、実桜が初めて会ったときとは違っていた。穏やかさは変わらないが、その奥にあるものが変わっていた。何かを決めてきた人の顔だった。
「来ました」
「来てくれてよかったです」
 祖母が奥から出てきた。綾乃と目が合って、二人は少しの間、向かい合った。
「京子さん、長い間ありがとうございました」
「来たらよかった」
 謝罪と、受け入れの言葉が、それだけの短さで交わされた。四年分のものを、二人はその短さで済ませた。それが二人の間のちょうどいい距離だった。

 綾乃は棚の前に立った。
 今日は最初から、迷いなくそこへ歩いていった。
 和紙の包みの前に立って、両手でそれを持ち上げた。重さを確かめるように、少しの間そのまま持っていた。
「受け取ります」
 穏やかな声だった。
 実桜は動かなかった。遥人も、祖母も、それぞれの場所で静かにしていた。
「四年、置いておいてもらいました。受け取る準備が、今日できたと思います」
「そうか」
「まだ、着られるかどうかは分からないです。でも、ここに置いておくより、私が持っている方がいいと思いました」
「それでええ」
 綾乃は包みを胸に抱いた。
 それから封筒のことを祖母に確かめた。
「封筒も、いっしょに受け取ってもいいですか」
「持っていきなさい」
 実桜が封筒を棚から取り出して、綾乃に渡した。綾乃は受け取って、浴衣の包みといっしょに抱いた。
 渡せなかった言葉が、書いた人の手に戻った。

 お茶を出してから、四人でしばらく話した。
 今日の夜の演舞のこと、阿波おどりが終わったあとの町のこと、工房の今後のこと。綾乃は柔らかい表情で話していた。何かが解けたあとの、体が軽くなった人の表情だった。
 遥人が「手紙のことは、どうするつもりですか?」と尋ねた。
 遠慮のない聞き方だったが、綾乃は嫌がらなかった。
「届けようと思っています。時間がかかるかもしれないけど、探してみます」
「届くといいな」
「届かなくても、探すことはできると思っています。四年前に諦めたことを、もう一度やってみます」
 綾乃の言葉は、揺れていなかった。
 柚葉が「お姉ちゃんは自分が怖いだけ」と言った言葉が、綾乃の中で何かを動かしたのだと実桜は思った。正確に言われたことが、逃げられない場所に届いた。

 昼過ぎになって、遥人が「そろそろ」と立ち上がった。
 今日の夕方から踊りに出る準備がある。浴衣を着替えて、連の集合場所に行かなければならない。
「頑張ってください」
実桜は応援の言葉を贈った。
「見に来い。今日の最終日は、一番熱いから」
「行きます」
 遥人が帰ってから、綾乃も立ち上がりかけた。
 そのとき、祖母が呼んだ。
「綾乃さん」
「はい」
「浴衣、最後に仕上げをさせてもらえんか」
 綾乃は少し驚いた顔をした。
「仕上げ、というのは」
「染めかけやったから。本当は、もう少し色を入れるはずやった。今日、実桜に手を入れさせたい」
 実桜は祖母を見た。
 私に、と聞き返しそうになって、止まった。
「実桜に」と綾乃が繰り返した。
「この子も、ここで色を重ねてきた。最後の仕上げは、この子がやればええ」
 綾乃は実桜を見た。
「いいですか」
「できるかどうか分かりませんが、やらせてください」

 工房の奥で、仕上げの作業が始まった。
 祖母が指示を出して、実桜が手を動かした。
 浴衣を和紙から出すと、染まりかけの藍が現れた。写真で見た、棚の端から見えていた、あの色だった。深いが、まだ余白がある。染まりきっていない部分が、布の中に残っていた。
 甕の藍に、浴衣の端を入れた。
 色が入っていく。
 白い余白に、青が重なる。均一ではない、自然な重なり方で、藍が布に染み込んでいく。
 実桜は息を詰めて、布を見ていた。
 これが仕事だと思った。手を動かして、色を重ねて、途中のものを少し先へ進める。それだけのことが、今日は全部の意味を持っていた。
 時間をかけて、布を引き上げた。
 染まった部分と、まだ染まりきっていない部分が、境界のない形で続いていた。完全に染まりきっているわけではなかった。でも、最初よりずっと深い色になっていた。
「ええ色や」
祖母は言った。
 綾乃が布を見て、小さく息を吐いた。
「きれい」
「もう少し入れるか」
祖母が実桜に尋ねた。
 実桜は布を見た。染まりきっていない余白を見た。
「このままでいいと思います」
「なぜ」
「全部染まりきる必要はないと思うので。余白があってもいい」
 祖母は少しの間、実桜を見た。
 それから「そうやな」と言った。
 綾乃は布を受け取った。濡れた布を、両手で丁寧に持った。
「ありがとうございます」
綾乃は実桜に向かって言った。
「私は手を動かしただけです」
「それが大事なことでした」

 夕方近くになって、綾乃が浴衣の包みと封筒を持って帰ろうとした。
 そのとき柚葉が来た。
 引き戸を開けて「お姉ちゃんいた」と言った。待ち合わせをしていなかったが、綾乃が工房に来ると思っていたのかもしれない。
 柚葉の視線は、すぐに綾乃の腕の中の包みに落ちた。
「浴衣、受け取ったの?」
「うん」
 綾乃が答えた。
 柚葉の視線が、綾乃の腕の中の包みに落ちる。
 和紙にくるまれたままの浴衣を見て、柚葉は小さく息を吐いた。
「そっか」
 それだけ言って、靴を脱いで上がってくる。
 足音は軽いのに、工房の空気だけが少し重くなった気がした。
「見てもいい?」
「ええよ」
 綾乃は包みを作業台の上に置いた。柚葉はすぐには触れなかった。指先を伸ばしかけて、ほんの少し引っ込める。それから、やっと和紙の端に触れた。
 壊れものを扱うみたいな手つきだった。
「……ほんまに、ここにあったんやな」
 柚葉の声は小さかった。
 実桜はその言い方に、ずっと知っていた場所へ、ようやく辿り着いた人の響きを聞いた。
「京子さんが置いといてくれたから」
 綾乃が穏やかに言う。
「そっか」
 また同じ言葉を言って、柚葉は口を閉じた。
 その沈黙が、かえって長かった。
 祖母は少し離れたところで、何も言わずに糸を片づけていた。
 実桜も黙ったまま、二人を見ていた。
 最初に崩したのは、柚葉の方だった。
「……もっと早く来ればよかったのに」
 綾乃の肩が、ごくわずかに止まった。
「柚葉」
 呼ぶ声は穏やかだった。たしなめるというより、先を知っているみたいな響きだった。
「だって、そうやろ」
 柚葉は顔を上げた。目が少し赤い。
「四年もやで。四年もここに置いたままにして、自分だけ平気みたいな顔して」
「平気な顔なんかしてない」
「してた」
 柚葉はすぐに言った。
「少なくとも、うちにはそう見えた。仕事して、ごはん食べて、普通にして。踊りの話だけせんようにして。見んようにして。そうやって、ずっと置いたままやった」
 綾乃は何も言わなかった。
 その沈黙に押されるみたいに、柚葉の声がもう一段だけ強くなる。
「怖かったんやろ」
「柚葉さん」
 実桜は思わず口を挟んだ。
 けれど柚葉は止まらなかった。
「浴衣を見るのも、踊ること思い出すのも、全部怖かったんやろ。でも、怖いからって置いたままにされた方は、見てる方もしんどいんよ」
 柚葉の喉がひとつ鳴った。
「お姉ちゃんだけが止まっとるみたいで。ずっと、そこにおるみたいで」
工房がしんと静まった。
 外では、遠くで囃子の練習音が流れていた。笛の高い音が、今は妙に遠く感じられる。
 綾乃は包みの上に置いた手を、そのまま動かさなかった。
 その横顔を見ながら、実桜は止める言葉を探したが、うまく見つからなかった。止めたいわけではないのかもしれない、とも思った。これはたぶん、ずっと言えなかった言葉なのだ。
「……簡単に言わんといて」
 綾乃のその声に、実桜ははっとした。
 この人がこんなふうに声を強くするのを、初めて聞いた気がした。
「逃げたかったわけやない」
 綾乃は包みを見たまま、言葉を続けた。
「受け取ったら、着ることになると思った。着たら、あの年のことが全部、そこに戻ってくる気がした」
「でも」
「でもじゃない」
 今度は、はっきりと柚葉を見た。
 綾乃の目は潤んでいなかった。ただ、長いあいだ押し込めていたものが、ようやく表に出てきた顔をしていた。
「できんかったんよ」
 短い言葉だった。
「一人で着て、一人で踊ることが、あのときの私にはできんかった。見ることも、持つことも、受け取ることも。何かひとつ触ったら、全部崩れる気がして」
 綾乃はそこで息を継いだ。
「怖かっただけやと、そう言われても仕方ない。でも、できんかったことまで、責められたら、私はどうしたらよかったん」
 柚葉が息を呑む音がした。
 言い返そうとしたのかもしれない。
 でも、できなかった。
 代わりに、唇をきゅっと結ぶ。
 目の端が、みるみるうちに赤くなる。
「……責めたいわけやない」
 柚葉の声は、さっきまでよりずっと小さかった。
「ただ、見てるの嫌やった。お姉ちゃんが、何でもないみたいにしてるの」
 そこで言葉が詰まる。
「ほんまは、ずっとしんどそうやったのに」
 綾乃の表情が、少しだけ緩んだ。
 傷ついた顔ではなく、ようやく届いたものを受け取るときの顔だった。
「うん」
 綾乃は言った。
「しんどかった」
 それだけで、柚葉の目から涙が落ちた。
 ぼろぼろ泣くわけではない。こらえきれずに、ひと粒、ふた粒と落ちるだけだった。
 柚葉は慌てたみたいに手の甲で拭って、でもすぐにまたあふれた。
「ごめん」
 柚葉は俯いたまま言った。
「言いすぎた」
「ううん」
「でも、ずっと思っとった」
「知っとる」
 綾乃が、少しだけ笑った。
 泣きそうな顔のままの、穏やかな笑いだった。
「柚葉がそう思うの、当たり前やと思う」
「……当たり前ちゃうし」
「当たり前やよ」
 綾乃はそう言って、包みから片手を離した。
 迷うみたいに一瞬止まってから、柚葉の頭にそっと触れる。
「待たせて、ごめん」
 柚葉は返事をしなかった。
 代わりに、肩を小さく震わせた。
 実桜はそこで、ようやく息を吐いた。
 誰かが泣く場面なのに、不思議と空気は壊れていなかった。むしろ、ずっと張っていた薄い膜が、ようやく破れたような感じがした。
 祖母が、作業台の方へ近づいてきた。
「お茶、淹れようか」
 いつもの声で、いつものように言う。
 その何でもなさに、実桜は少し救われた。
「うちがやる」
 柚葉が、鼻をすすりながら言った。
「顔、ひどいけど」
「ひどいな」
 綾乃が言うと、柚葉は「うるさい」とだけ返した。
 泣いたあとの声は少し掠れていたが、そのやり取りには、前よりちゃんと姉妹の温度が戻っていた。
 柚葉が台所の方へ行ったあと、綾乃は包みを見下ろしたまま、ぽつりと言った。
「怒られると思っとった」
「怒ってましたよ」
 実桜が言うと、綾乃は少しだけ笑った。
「でも、怒ってくれてよかった」
 その言葉は、誰に向けたものか分からないまま、藍の匂いの中に静かに沈んでいった。

 しばらく、誰も何も言わなかった。
 工房の外では、遠くで囃子の音が続いていた。さっきまでと同じはずの音なのに、少しだけ近く聞こえた。
 柚葉が淹れた湯のみから、細く湯気が立っていた。
 綾乃はそれを受け取って、一口だけ飲んだ。
「……でも、よかった」
 柚葉は涙の跡の残る顔で、それでも今度はちゃんと笑おうとしていた。

「今夜、いっしょに見に行こう」
 実桜は誘う。
「行きましょう」
「浴衣、着る?」
 柚葉の問いに、綾乃は少し間を置いた。
「今日は、まだ着ない」
「いつか着る?」
「いつか」
「いつかって、いつ」
「柚葉」
「ごめん。でも聞きたかった」
 綾乃は柚葉の顔を見て、実桜を見た。
「いつか、というのは遠い話じゃないかもしれない。今日より先に、なれる気がしています」
 柚葉は「うん」と言って、頷いた。

 三人で工房を出た。
 夕方の光が傾いていた。あと少しで、最終日の夜が始まる。
 遥人はもう連の集合場所に向かっているはずだった。今頃、揃いの浴衣で仲間と並んでいる。
 演舞場に向かいながら、実桜は自分の足の感覚を確かめていた。
 昨日も一昨日も初日も、足が動きたがっていた。見ているだけでは分からないものがあると思っていた。踊る阿呆と見る阿呆の言葉を、人生の選択として考えていた。
 綾乃が浴衣を受け取った。
 封筒を手に持って帰っていく。届けようと思っている。
 実桜は工房で色を重ねた。染まりかけのものに、少し先を加えた。自分の意志で、色を入れた。
 それが今日、ここまでに来たことだった。
 演舞場が見えてきた。
 音が大きくなる。太鼓の低音が体に当たる。笛が高く伸びる。最終日の熱が、空気の中に満ちていた。
 実桜は足を止めた。
 綾乃と柚葉が先へ歩いていく。実桜は一人、少しの間そこに立っていた。
 足が動きたがっていた。
 今夜、その足をどこへ向けるか。
 答えが、体の中で穏やかに決まっていくのが分かった。