……いや、なんでだよ。
なんでよりによって「トイレ」――。
自分の語彙力に落胆している内心を悟られないように、「本当にトイレを探している人」の顔を作る。
……ちゃんと表情を管理できていたかは、自信がない。
彼女は一瞬何かを考えるみたいに僕の目を見て、すぐにニコリと微笑んだ。
そして、軽く体の向きをその方向に向けながら、丁寧な英語でトイレまでの行き方を教えてくれた。
電話越しのノイズを全てとっぱらった、英語を話す彼女の声はやっぱりしなやかで上品で。
もうすでに知っているトイレまでの道順を聞きながら、その声に耳を傾けていた。
「ありがとうございます……」
本当はトイレに用はないけど、こうなってしまった以上行くしかない。
彼女の丁寧な説明を聞き終え、ソファから立ち上がると彼女も一拍置いて立ち上がった。
僕の顎先のあたりから彼女が僕を見上げて微笑んだ。
皺ひとつない高級感のある制服を見ながら小さくお辞儀をして、彼女が教えてくれた方へと足を進める。
何歩か歩いた時、彼女の声が背中の方から聞こえた。
「おはようございます。ごゆっくりお過ごしいただけましたか?」
「ええ、――――」
「さようでございますか。それは――――」
彼女の明るく、柔らかい声がやけにはっきり聞こえた。
……聞き取れはしないけど。
徐々に遠ざかっていく、僕に向けられた時とは違う少し砕けた雰囲気の彼女の声に耳を澄ます。
彼女がくすくすと笑っている声が聞こえた。
いいな。
あの声とたくさん会話ができて。
今回も結局、彼女の日本語はあまり聞けなかった。
すぐに英語に切り替えられてしまった。
落ち着いた英語の声も聞き取りやすくて心地いいけれど、やっぱり日本語のやわらかい声が好きだ。
もっとあの声を聞いてみたい。
彼女の言葉で理解したい。
彼女の言葉で話したい。
そのためには――。
僕は用事のないトイレの扉を押した。
綺麗に磨き上げられた鏡の前で立ち止まる。
鏡に映った僕は、思ったよりも楽しそうな顔をしていた。
「……おいおい、まじかよ」


