チュンチュン地獄から、連れてこられた先。
そこは、別世界だった。
館の中は、ひんやりと静まり返っている。
薄暗い廊下。
白い柱。
どこからか、ふわりと白檀の香り。
壁のすき間から入る光が、金の砂みたいに揺れていた。
(……え、急にしっとり系?)
さっきまで、犬。
マウント女。
毒疑惑。
左遷。
情報量、多すぎ。
なのに、この館だけ時間が止まっているみたいだった。
「皇子のお母様、宮子さまは……お気の毒なお方です」
となりを歩く女の子が、小さな声で言った。
たしか、この子。
ずっとあたしのそばにいる。
白い衣。
少し心配そうな顔。
名前、まだ聞いてない。
「お気の毒って?」
あたしがたずねると、女の子は声をひそめた。
「宮子さまは、天子様の夫人でございました。けれど、天子様には、深く愛された別のお方がいらしたのです」
「……別の女」
思わず、口から出た。
女の子が、びくっとする。
あ、まずい。
言い方が前世。
「えっと……別のお方ね」
「はい。紀《きぃ》さまという、とてもお美しい方だったそうです。ですが、その方は亡くなられてしまいました」
廊下の奥で、琴の音がした。
ぽろん。
ぽろん。
細い音が、冷たい空気に溶けていく。
「天子様は、宮子さまに、その紀さまによく似た女の子を生んでほしいと望まれました」
「……それで?」
なんとなく、先が読めた。
読めたけど。
聞きたくなかった。
「お生まれになったのは、男の御子でした」
「男の子……」
「はい。その御子が、今の首《おびと》皇子様です」
え。
あの病弱イケメン皇子。
あの人が。
「男の子が生まれるなんて、本来なら大変おめでたいことです。けれど、天子様はお喜びになりませんでした。お見舞いにも来られず、御子にも会われなかったそうです」
胸の奥が、きゅっとした。
それは、きつい。
きつすぎる。
「宮子さまは、夫に喜んでもらえなかった悲しみで心を病まれました。それからずっと、この館におこもりになって、ほとんどお話もなさらないのです」
あたしは、足を止めた。
白檀の香り。
琴の音。
冷たい空気。
ぜんぶが、急に重くなる。
(首皇子って……お母さんにも会えないまま育ったの?)
昨日、あの人は優しく笑った。
でも今日は、県犬養夫人の味方みたいな顔をした。
わけ分かんないって思った。
でも。
あの人も、きっと何かを抱えている。
「……その人の話し相手、あたしでいいの?」
女の子は、やさしく笑った。
「姫さまなら、大丈夫です」
「なんで?」
「宮子さまは、お優しい方です。お言葉を返されなくても、きっと聞いてくださいます」
いや。
そういう問題?
あたし、中身は前世で極道一家の娘なんだけど。
お上品なお話し相手とか、できる?
(落ち着け、あたし)
(言葉で人を斬れって育てられたけど)
(今日は斬っちゃダメな日!)
そう心の中で気合いを入れて、あたしは部屋に入った。
◆◆◆
部屋の中は、外よりもっと静かだった。
まぶしい光は消えて、空気がひんやりしている。
薄い布の帳。
香炉の煙。
そして、その向こう。
一人の女人が、寝台に横たわっていた。
長い髪は、白に近い銀色。
頬も、透き通るほど白い。
まるで、雪でできた人みたいだった。
その唇が、かすかに動く。
「……あなたは……どなた?」
声が、小さい。
消えそう。
あたしは、そっと膝をついた。
「あたし、光明子《こうみょうし》と申します。お話し相手に、と言われまして」
宮子さまは、ゆっくりとこちらを見た。
細い指が、少しだけ持ち上がる。
「こう……みょう……?」
「はい」
「まあ……こんなに……大きく……」
え。
知ってる感じ?
いや、そりゃそうか。
あたし本人は記憶ないけど、この世界の光明子は、たぶん宮子さまに会ったことがある。
たぶん。
たぶんね。
あたしは、何を言えばいいか分からなくなった。
いつもなら、口は勝手に動く。
前世では、親分たちの前でも、若い衆の前でも、言葉で場をまとめてきた。
でも。
この人の前では、変なことを言えなかった。
言葉を間違えたら、割れてしまいそうだった。
ガラスみたいに。
あたしは、ただ黙ってそばに座った。
外では、竹が風に揺れている。
サラサラ。
サラサラ。
(この人が、首皇子のお母様)
(愛されなくて)
(子どもにも会えなくて)
(この部屋で、ずっとひとり)
胸が、ちくっと痛んだ。
スパダリに溺愛されたいとか。
マウント女に勝ちたいとか。
皇子、顔がいいとか。
そういうのも、まあ大事。
大事だけど。
今は、この人が寂しすぎる。
「……宮子さま」
小さく呼ぶと、宮子さまのまつげが、わずかに震えた。
「また、お話しに来てもいいですか?」
宮子さまは、答えなかった。
でも。
ほんの少しだけ、目元がやわらいだ気がした。
◆◆◆
夕方。
館の空気が、少しだけ明るくなった。
料理人が張り切って、白い粥を作ってくれたのだ。
白い粥。
湯気。
蓮の花びら。
香ばしい匂い。
(……朝の犬用粥とは、えらい違い)
うん。
あれは忘れよう。
いや、忘れられないけど。
「宮子さま、お召し上がりくださいませ」
侍女がそっと声をかける。
すると、宮子さまがゆっくり言った。
「ありがとう。でも……光明子さんと、一緒にいただくわ」
その瞬間。
部屋の空気が、ぱっと変わった。
侍女たちが顔を見合わせる。
目に、光が戻っている。
(え。そんなにすごいことなの?)
広間に料理が並べられた。
あたしは、宮子さまと向かい合って座る。
宮子さまは、ほんの少ししか食べなかった。
でも、あたしが粥を食べるのを、うれしそうに見ている。
「おいしいです」
そう言うと、宮子さまの唇が、ほんの少しだけ笑った。
やばい。
かわいい。
守りたい。
この人、絶対守りたい。
「姫さま、もし宮子さまが、お元気になられたなら……」
そばの女の子が、涙ぐみながら言った。
「うん」
「あの県犬養さまも、何も言えなくなるかもしれません」
「ええ。その時は、あのケバい女も黙るでしょうね」
「け、けば……」
女の子が、ぷっと吹き出した。
あ。
笑った。
かわいい。
やっぱり、この館、悪くない。
◆◆◆
けど。
そろそろ限界だった。
何も分からなすぎる。
自分のこと。
皇子のこと。
この館のこと。
あのマウント女のこと。
そして。
あたしの命を狙ってるかもしれない誰かのこと。
知らないままじゃ、戦えない。
あたしは、いつもそばにいる女の子に向き直った。
「あのさ」
「はい、姫さま」
「あたし、頭をぶつけたみたいで、いろいろ思い出せないの。あなたは誰?」
女の子は、やっぱり、という顔をした。
「そうではないかと思っておりました。姫さま、少しご様子が変でしたもの」
ばれてた。
めっちゃばれてた。
「私は、雑仕女《ぞうしめ》のサチと申します」
「サチ」
「はい」
「ここは?」
「藤原不比等《ふじわらのふひと》さまのお屋敷です」
藤原不比等。
出た。
歴史の教科書で見た名前。
たぶん、めちゃくちゃ偉い人。
「じゃあ、あのイケメン皇子は?」
「首皇子《おびとおうじ》様です。姫さまは、幼い頃から、この不比等邸で首皇子様と一緒にお育ちになりました」
「幼なじみ……」
あの顔面国宝皇子と。
幼なじみ。
しかも、結婚予定。
(なにそれ、設定だけなら最高じゃん)
ただし。
病弱。
心が読めない。
マウント女つき。
難易度、高すぎ。
「で、あの派手で偉そうな女は?」
「県犬養《あがたいぬかい》夫人でございます」
「夫人……」
「はい。首皇子様の妻のおひとりです」
妻のひとり。
ひとり。
ひとり!?
(奈良時代、そういう感じ!?)
いや、知ってた。
歴史的には知ってた。
でも、実際にやられると、心が追いつかない。
サチは、そっと声をひそめた。
「県犬養さまは、ご気性が少し激しくて……」
「少し?」
「……かなり」
「だよね」
あたしたちは、顔を見合わせた。
そして、少し笑った。
◆◆◆
その夜。
あたしは、宮子さまの館に寝台を運んでもらった。
宮子さまに仕える雑仕女は、アコという。
この館にいるのは、宮子さま。
サチ。
アコ。
料理人。
それから、あたし。
少人数。
だけど、悪くない。
むしろ、変な人が少なくて安心。
あたしは、天井を見上げながら、サチとアコから話を聞いた。
「姫さまは、藤原の姫君でございます」
「ふむ」
「書も詩も、とてもお上手です」
「へえ」
「首皇子様とは、幼い頃から仲がよく……」
「そこ詳しく」
サチとアコが、同時に頬を赤くした。
え。
なにその反応。
「幼い頃の首皇子様は、姫さまの後ろをよくついて歩いておられました」
「……え」
「姫さまが転べば、真っ先に駆け寄って」
「え」
「姫さまが笑えば、皇子様も笑って」
「え、待って。かわいい」
なにそれ。
昨日の優しい顔。
今日の冷たい態度。
どっちが本当なの?
「でも、今日は県犬養夫人の味方みたいだった」
ぽつりと言うと、サチとアコは顔を見合わせた。
「それは……仕方のないことでございます」
「どうして?」
「県犬養さまを怒らせると、しばらく機嫌が直りません」
「子どもか」
「それに、県犬養さまの一族もおります。皇子様は、波風を立てぬようになさったのかと」
なるほど。
つまり。
あの人は、弱いわけじゃない。
守るものが多いのだ。
……たぶん。
「それから、姫さま」
アコが、声をひそめた。
「首皇子様が、いずれ天皇になられた後のことですが」
「うん」
「姫さまが県犬養さまを追い越して、皇后になられたなら……宮子さまは、どれほどお喜びになるでしょう」
皇后。
その言葉に、胸がどきんとした。
けれど、サチがすぐに首を振る。
「でも、そのようなこと、できるはずがございません」
「どうして?」
「皇后になれるのは、皇族のお方だけだからです。光明子さまは、藤原の姫君。貴族ではありますが、皇族ではございません」
「……そういう決まりなのね」
あたしは、布団の中で目を細めた。
皇后になれない。
皇族じゃないから。
決まりだから。
ふうん。
(決まり、ね)
前世で、あたしは知っている。
世の中には、決まりを守らされる人と。
決まりを作る人がいる。
なら。
上に行けばいい。
決まりを変えられるところまで。
あたしは、ぎゅっと布団を握った。
宮子さまが笑うなら。
サチとアコが安心するなら。
首皇子が、本当はひとりで苦しんでいるなら。
(あたしが、この国の一番上まで行ってやる)
……なんて。
ちょっと思った、その時だった。
ふと、朝のことを思い出した。
白い粥。
銀の皿。
黒い犬。
県犬養夫人の笑い声。
そして。
毒を盛った、という言葉。
(……ん?)
(待って)
(あの粥に、本当に毒が入ってたとしたら)
(犬が寝たのって、あたしのチートじゃなくて)
(毒のせい、だったりする?)
背中が、ぞくっと冷えた。
え。
えええ。
つまり。
(あたし、暗殺されかけてたってこと!?)
恋とか。
皇后とか。
顔面国宝皇子とか。
言ってる場合じゃない。
ここ。
普通に命を狙われる世界じゃん。
あたしは、がばっと起き上がった。
「宮子さま」
薄い帳の向こうで、宮子さまがこちらを見る。
白い顔。
やさしい目。
「これから、食事はずっとここでいただいてもよろしいでしょうか」
サチとアコが、きょとんとする。
あたしは、真顔で続けた。
「安全第一で暮らしていきたいのです」
宮子さまは、ゆっくり瞬きをした。
そして。
小さく、うなずいた。
その仕草が、なぜだか少し可愛かった。
――あたし、宮子さまとは、とびきり仲良くやっていけそうです。
でも。
この館の外には、たぶん。
あたしを消したい誰かがいる。
転生三日目。
目標、決定。
まずは、生き残る。
そしていつか。
この国の決まりごとごと、ぜんぶひっくり返してやる。
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◆◆黒猫情報ノート◆◆
黒猫クロエが、大事な情報をお伝えするニャン。
黒い犬を連れていた女人は、県犬養広刀自《あがたいぬかいのひろとじ》さまです。
ちょっとマウントを取るのが好きな、強めの夫人ですニャ。
ちなみに、天皇の妻たちの位は、おおまかに言うと、
皇后
妃
夫人
の順に高いとされます。
光明子さまは藤原氏の姫ですが、皇族ではありません。
つまり、本来なら皇后になるのは、とっても難しい立場なのです。
でも――。
決まりを変えるヒロインほど、物語はおもしろいニャーーン。

