私、朝霧すみれ。
最近、ついついあるお方のことを考えてしまうの。
なぜかしら?
黒い外套を着て帽子をかぶり、手帳とペンを手放さない。
そして、イケメン。
武闘派。
おしゃべり。
いけないまた考えていたわ、小田切さんの事。
今日も大事なお仕事があるの。
このベールを花嫁さんに届けて……。
でも、また会いたいわ。
あのお方に。
――春の霧は、音を奪う。
横浜港の朝は、白く沈黙していた。
汽笛の余韻だけが耳の奥に残り、
海と空の境はゆるやかに溶け合っている。
桟橋も倉庫も、人影さえもぼんやりと滲み、
すべてが輪郭を失っていた。
霧は、この街の秘密を隠す。
そして――ときどき、人も。
私は朝霧すみれ。
大正の横浜で、洋裁師見習いとして働いている。
今朝は、結婚写真用ドレスの最終調整を頼まれ、
山下埠頭近くの洋館へ向かうところだった。
調整を終えた白いベールを丁寧に包み、
霧で湿らぬよう気をつけながら坂道を下る。
革靴の底が、石畳の水気を拾い、
きゅっと小さく鳴った。
……なのに。
胸の奥が、なぜかざわざわする。
嫌な予感。
理由はわからない。
ただ、霧が濃い朝ほど、
横浜では不思議なことが起こる。
港に近づくにつれ、
潮の香りが濃くなる。
その時。
「すみれさん?」
霧の中から、低く落ち着いた声。
振り向くと――。
そこにいたのは、新聞記者の小田切さんだった。
黒い外套の肩に小さな水滴をまとい、
今日もやっぱり、驚くほど整った顔をしている。
少し表情は硬い。
けれど、その目はどこか嬉しそうだった。
「奇遇ですね。こんな朝に」
そう言いながら、
小田切さんは子犬みたいに私のまわりをぐるっと回る。
……この人、絶対うれしいの隠せてない。
「ええ……本当に」
私は少し笑って言った。
「そうそう。新聞の雪女の記事、人気でしたわね。私も拝見しました」
「そうですか」
彼の目がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます。……まあ、桐子夫人逮捕の記事は、上司に握りつぶされたんですけどね」
「まあ」
私は目を丸くした。
「財閥の力って、新聞まで動かせるのですね」
「世の中、お金ですよ」
そう言って肩をすくめる姿が、ちょっと悔しそう。
でも、すぐに彼は真面目な顔になった。
「それで、今朝はどうしてこんなところに?」
「洋館へ。花嫁衣装の最終調整です」
「……そうですか」
一瞬。
彼が言葉を選ぶように目を伏せた。
そして顔を上げる。
その目が、鋭く光った。
「実は、昨夜からこの辺りで少し騒ぎがありまして」
「騒ぎ?」
「若い女性が行方不明になったそうです。警察が屋敷や周辺を調べています」
――え。
胸が、嫌な音を立てた。
まさか。
お客様じゃありませんように。
私は急いで頭を下げる。
「大変。失礼しますわ」
足早に進もうとすると――。
「いやいや、ご一緒しますよ。朝霧すみれさん」
ぴたり。
隣に並ばれた。
「え?」
「あなたひとりで危険な場所に行かせられない」
低い声。
真顔。
……え、ちょっと。
そういうこと急に言う?
「スクープ狙いでしょう?」
私はじろっと見る。
「今回もお金持ち案件。どうせまた握りつぶされますわよ」
「いやいやいや」
彼は笑った。
「半分は仕事です」
「半分?」
すると小田切さんは、
少しだけ口元を上げた。
「もう半分は――」
一歩近づく。
心臓が、どきっとした。
「あなたが心配だからです」
…………。
ずるい。
イケメンって、どうしてこんなこと平気で言うの。
霧のせいか、
少しだけ頬が熱くなる。
最近、ついついあるお方のことを考えてしまうの。
なぜかしら?
黒い外套を着て帽子をかぶり、手帳とペンを手放さない。
そして、イケメン。
武闘派。
おしゃべり。
いけないまた考えていたわ、小田切さんの事。
今日も大事なお仕事があるの。
このベールを花嫁さんに届けて……。
でも、また会いたいわ。
あのお方に。
――春の霧は、音を奪う。
横浜港の朝は、白く沈黙していた。
汽笛の余韻だけが耳の奥に残り、
海と空の境はゆるやかに溶け合っている。
桟橋も倉庫も、人影さえもぼんやりと滲み、
すべてが輪郭を失っていた。
霧は、この街の秘密を隠す。
そして――ときどき、人も。
私は朝霧すみれ。
大正の横浜で、洋裁師見習いとして働いている。
今朝は、結婚写真用ドレスの最終調整を頼まれ、
山下埠頭近くの洋館へ向かうところだった。
調整を終えた白いベールを丁寧に包み、
霧で湿らぬよう気をつけながら坂道を下る。
革靴の底が、石畳の水気を拾い、
きゅっと小さく鳴った。
……なのに。
胸の奥が、なぜかざわざわする。
嫌な予感。
理由はわからない。
ただ、霧が濃い朝ほど、
横浜では不思議なことが起こる。
港に近づくにつれ、
潮の香りが濃くなる。
その時。
「すみれさん?」
霧の中から、低く落ち着いた声。
振り向くと――。
そこにいたのは、新聞記者の小田切さんだった。
黒い外套の肩に小さな水滴をまとい、
今日もやっぱり、驚くほど整った顔をしている。
少し表情は硬い。
けれど、その目はどこか嬉しそうだった。
「奇遇ですね。こんな朝に」
そう言いながら、
小田切さんは子犬みたいに私のまわりをぐるっと回る。
……この人、絶対うれしいの隠せてない。
「ええ……本当に」
私は少し笑って言った。
「そうそう。新聞の雪女の記事、人気でしたわね。私も拝見しました」
「そうですか」
彼の目がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます。……まあ、桐子夫人逮捕の記事は、上司に握りつぶされたんですけどね」
「まあ」
私は目を丸くした。
「財閥の力って、新聞まで動かせるのですね」
「世の中、お金ですよ」
そう言って肩をすくめる姿が、ちょっと悔しそう。
でも、すぐに彼は真面目な顔になった。
「それで、今朝はどうしてこんなところに?」
「洋館へ。花嫁衣装の最終調整です」
「……そうですか」
一瞬。
彼が言葉を選ぶように目を伏せた。
そして顔を上げる。
その目が、鋭く光った。
「実は、昨夜からこの辺りで少し騒ぎがありまして」
「騒ぎ?」
「若い女性が行方不明になったそうです。警察が屋敷や周辺を調べています」
――え。
胸が、嫌な音を立てた。
まさか。
お客様じゃありませんように。
私は急いで頭を下げる。
「大変。失礼しますわ」
足早に進もうとすると――。
「いやいや、ご一緒しますよ。朝霧すみれさん」
ぴたり。
隣に並ばれた。
「え?」
「あなたひとりで危険な場所に行かせられない」
低い声。
真顔。
……え、ちょっと。
そういうこと急に言う?
「スクープ狙いでしょう?」
私はじろっと見る。
「今回もお金持ち案件。どうせまた握りつぶされますわよ」
「いやいやいや」
彼は笑った。
「半分は仕事です」
「半分?」
すると小田切さんは、
少しだけ口元を上げた。
「もう半分は――」
一歩近づく。
心臓が、どきっとした。
「あなたが心配だからです」
…………。
ずるい。
イケメンって、どうしてこんなこと平気で言うの。
霧のせいか、
少しだけ頬が熱くなる。



