白紙のノートに、君だけが残した筆圧のメッセージ


 ライングループの一件以来、学校内では大きな事件は起きていない。リンのイヤーカフがわずかに光を発しているから彼女、そうとう警戒して見張っているんだと思う。ドブラックが実体化しているという中野さんの姿も、あの日以来見ていない。学校を休んだまんまだ。

 しかし、魔の手は学校の中ではなく、もっと大きいところに忍び寄っていた。

 この春頃からYouTube、TikTokなどのSNSの配信や投稿がなんかヤバいなあと思っていたけど、だんだんとその予感が確信に変わってきた。どんな風にヤバいかっていうと、投稿者や配信者に対して、明らかに攻撃的な書き込みが増え、例えそれを削除しても、別のSNSで誰かが拡散している。

 書き込まれている内容が事実なのか嘘なのかはわからない。でもそれは炎上を生み、配信者は鍵アカに変更したり、チャンネルの閉鎖に追い込まれている。それがネットのあちこちで起きているので、世の中の雰囲気が悪くなっているような気もするし、テレビのニュースなんかで『中高生にSNSの使用を厳しくすべきだ』という声も強まっている。

 そして、遂に。

 私が推している、女子中学生VTuberのノワールちゃんのチャンネルも炎上してしまった!

 彼女のチャンネルは『シャ・ノワール、屋根の上の世間話』という名前で、シャ・ノワールとはフランス語で黒猫のこと。文字通り、黒猫の猫ミミや尻尾のついた可愛いアバターで、彼女が同世代の女の子と『屋根の上』の仮想空間で交流する、というもの。

 アーカイブの配信を紹介すると『黒猫の嗅覚』というコーナーがあって、女子中学生のファッションや流行りなどをレポートして、甘口辛口、直球でレビューしている。それがなかなか鋭いし、参考になる。
 また、ライブ配信では、『ノワールのゴロゴロナイト』という土曜夜八時からの配信があり、悩みや不平不満の投稿に黒猫らしい癒やし系のキャラでしっかり受け止め、コメントしてくれる。ときどき、『ノワールのダンス・ウィズ・シャドウ』というイベントがあって、『カワイイ・フューチャー・ベース』調の彼女オリジナルのダンス音楽に合わせ、3Dアバターで可愛く、しなやかなダンスを披露してくれる。これがその名の通り、むっちゃ・マジ・カワイイのだ。
 フォロワーは、投稿の内容から想像すると、ほとんど私みたいな中高生の女の子が多いようで、愛されキャラのノワールちゃんを中心とした、この温かいネット空間が私はたまらなく好きだ。

 それなのに、最近コメント欄に流れているフォロワーの投稿ときたら!

💬ノワールちゃんって、ホントに女子中生ですか? 中の人は、事務所のプロの人だって聞いたことがあるんですけど


💬このあいだの『黒猫の嗅覚』のコスメレビュー、あれ、ステマ案件じゃないの? 黒猫っていうより、泥棒猫だね

とか、ほかのSNSでは
💬『ノワールのゴロゴロナイト』で悩みを相談したら、ひどいこと言われた
と書かれたり、

💬ついに化け猫の皮がはがれた!
などのメッセージが明らかにAIで作成した画像や嘘の個人情報と一緒に拡散されたりしていた。

 彼女は大きいVTuberの事務所に所属しているので、誹謗中傷の書き込みの削除依頼などの対応は必死にやっているみたいだけど、なにせ、書き込みの数が多く、情報が広く拡散されているため、全然追いついていない。ノワールちゃんは最初ていねいに返事をしていたけど、それにも攻撃的な返信がついてしまい、きりがない。ライブ配信は当たりさわりのない雑談テーマが選ばれ、発言する彼女の声のトーンは暗い。このままじゃ彼女、潰されてしまう!

 私は、クラスで起きた、ライングループのいじめ事件で書き込まれていた内容と、ノワールちゃんのチャンネルへフォロワーが書き込んだ内容や手口が似ているなあと薄々感づいていた。
 でも、こういう分析は、『シャドウ・エクリプス』としての真実を見極める能力を持つリンに相談するのが一番だ。彼女に『シャ・ノワール、屋根の上の世間話』のリンクをLINEのDMで送り、意見を聞いてみた。

 彼女からすぐには返信がなかった。翌日、土曜の朝に『今日これから会えない?』と返事が帰ってきたので、私は京王線のターミナル駅の近くにあるマックに夕方六時ごろに来て欲しいと頼んだ。その場所を指定したのには理由がある。

「フォロワーやSNSの投稿者のアカウントはバラバラですけど、みんな一つの大きな悪意を共有しています。書き込まれた記事の内容や追い込んでいく手口はそっくりです。ノアちゃんの想像の通り、これは『ドブラックがネットの人々を操作している』と考えて間違いないでしょうね」
 テリヤキバーガーのセットが載ったトレーをテーブルに置いて席に着くやいなや、リンはこう切り出した。ちなみにこの店は私のオゴリだ。

「ありがとう……やっぱそうか」
 私はイチゴのマックシェイクをズズッと吸い込み、リンを見つめる。彼女はすぐに察した。

「この黒猫ちゃんをなんとか助けてあげたいと?」
「……当たり」

「でも、VTuberの事務所の人がなんとかしてくれるのではないかしら?」
「リンも、ドブラックの手強さを知ってるでしょ? とても手に負えないんじゃないかな」
「確かに、それを言うのなら、ワタクシたちにだって……」
「ええ、だって私たちは、あの『エトワとエクリ』だよ?」

 リンはメガネの奥の目を細め、左手の人差し指を横に振った。
「ノアちゃん、そんなに自分たちの力を過信してはいけませんわ」
「いや別に過信も油断もしてるつもりはないんだけど」
「ワタクシ、歌舞伎町で感じましたもの。ドブラック……中野結衣のオーラ。アニメの中で戦って来たときよりもずっと強く、邪悪になっているのを」

「でも、なんとか助けてあげたいの。ノワールちゃんを」
「あら、ずいぶんその子に肩入れしますのね。ほかにも素敵なVTuberって、たくさんいますでしょうに」

「ひょっとして嫉妬してる?」
 彼女は食べていたポテトをのどに詰まられて咳き込んだ。

「嫉妬だなんて! そんなこと思っていませんわ。ただ、ワタクシたちの身の危険もありますし」
「大丈夫、もしものときは、私がリンを守る」
 彼女の頬がうっすらと赤くなった。でも、メガネに光りが反射して、表情は今いち読み取れない。

「ノア……ほんとうにワタクシのこと、守ってくれる?」
 リンはちょっと口をとがらせて、ポソった。
 普段はお姉さんぶっていて、勉強でもなんでも私よりできるくせに、たまーに、こんなリアクションをする。こういうとこ、マジかわいいなと思ってしまう。

「うん、もちろん! 任せて」
「わかりましたわ。やってみましょう……その変わり、お礼は高くつきますわよ?」
「え! 今食べてる、テリヤキバーガーセットがそのお礼のつもりだったんだけど?」
「まあ、先払いのつもりで奢ってくれたの? ずいぶんと姑息ねえ……で、いつ決行するのかしら?」

 私はリンの顔色をうかがう。
「……今から」
「まあ! またずいぶんと急ねえ」
「いや私は前々から今日やろうと決めてたんだけど」
「そんなの前もって言ってくださらないとわかんないでしょ!……ひょっとしてここから、黒猫ちゃんのチャンネルに入り込むの?」
「いや、リアルで入ろうと思ってる」
「え! でも彼女の居場所なんて知らないでしょう? それに私たちリアルの場所だと、半径百メートル以内じゃないと入れないでしょうに」

「実はノワールちゃん、これからライブ配信の時間なんだ。で、配信は自宅の自分の部屋でやってる……彼女がライブ中にそう言ってたし」
「でも、ご自宅の場所なんて知らないでしょ」

「……調べてある。この店から歩いて二分くらいの住宅街の中」
「え! そんな個人情報、どうやって調べたの?」

「……それは秘密」
「立派なストーカーね。ドブラックは恐いですけど、あなたにも恐怖を感じますわ」
「ハハハ……」

 私たちはハンバーガーのセットとマックシェイクを平らげ、店を出た。



 リンと私はノワールちゃんの家がある住宅街を歩き、ブランコと小さなジャングルジムがあるくらいのこじんまりとした公園を見つけた。夕闇が迫っていて、子供たちもとっくに帰ったあとなのか、公園の中には人の姿は見えない。
 二人並んでベンチに座る。ここなら急に姿を消しても現しても大丈夫だろう。私はスマホにメモった中学生VTuberの自宅住所を頭に叩き込み、ライブ配信から想像できる彼女の部屋をイメージした。

「ねえノア、いきなり部屋に出現したら彼女びっくりするんじゃありませんの?」
「そうだけど、なるべくソッと現れて、すぐに自己紹介して事情を話せばなんとかなるんじゃないかと……」
「……まあ、ぶっつけ本番ということね……普通の神経の女の子なら、悲鳴を上げると思いますけど」

 私たちは、片手でイヤーカフに触れ、もう一方の手をつなぎ、見つめ合う。景色はトンボが舞い、銀色の雫がちらちらと輝く亜空間のビオトープに変わった。

 声をそろえる。

「まだ書きかけの物語を奏でよう! 二人ぼっちの戦士 エトワとエクリ!」

 私たちは亜空間で裸になり――このあいだリンに胸がどうとか言われたから、気になって隠してしまい――それぞれ白基調と黒基調のコスチュームに着替えた。

 空間の真ん中にぽっかりと黒い穴があいた。ここからノワールちゃんの部屋に降りる。私が先に穴に入ろうとしたら。
「念のため武器は用意しておきましょう」
 とリンがヒソヒソ声で言うので、私は背中の帯から『オモイ・エガク・ペンシル』(ネーミング、今いち……)を抜き、リンは『エクリプス・イレーザー』(要は巨大なケシゴム)を片手にだけ持って、順番に穴に入った。

 そっと木のフロアの上に降りる。ちょっとだけ、みしっと音をたててしまった。部屋は十二畳くらいの広さで、暗く殺風景だ。
 隅の方にデスクトップのパソコンや、多分アバターのトラッキング用に使うウェブカメラなどの機器類が載ったデスクがあり、その前のゲーミングチェアに黒いワンピースを着た女の子が座っていた。本人の姿はネットで配信されないはずだけど、黒いネコ耳つきのヘッドフォンを被っている。

 その子は私たちが部屋にいることに気づいていないみたい。ちょうど今ライブ配信が始まったばかりだ。

 古い一軒家。大きなモニター画面にはそんなウエイティング用の映像が映し出されていた。それがライブ開始を知らせるオープニング映像に変わり、リズミカルな音楽が加わる。いつもスマホで見ているシーンだ。

「みんなこんばんはー
 夕ご飯はもう食べたかニャ?
 いつも入ってくれてありがとうニャン」

 画面には黒猫少女のアバターが現れ、声に合わせて可愛い仕草で動く。いつもの始まり方だ。『ニャ』とか『ニャン』とかを語尾につけるのは、いつもここまでで、このあとは普通に喋るので、私はその方がしつこさやイヤミがなくていいと思う。

「今日はね、とても大切な話があります……みんなもとっくに気づいていると思うけど、今、このチャンネルは大変なことになっています」

 え!?
 私とリンは顔を見合わせる。

「あ、心配してくれる書き込み、励ましの書き込み、ありがとう!……でもね、すべてノワールがいけないんだよね、みんなを怒らせちゃったり、いやな思いをさせちゃってて……」

 彼女の一ファンとして、「いや、あなたはぜんっぜん悪くないよ!」って言ってあげたかったけど、リンは私の肩に手の乗せて引き止めた。

「せっかくみんなが楽しみにしてくれていたのに、本当にごめんなさい。傷つけちゃってごめんなさい……だからね。この『シャ・ノワール、屋根の上の世間話』は今夜の配信を持って閉鎖させていただきます」

 そっ、そんな!? それじゃあ私たち、ここに忍び込んできた意味がないじゃないの!

 それでも彼女は構わず続ける。
「でも、それだけじゃすまないの。うすうす感じてる子もいるかもだけど……最近、このチャンネルだけじゃなくて、ネット全体が荒れているの、なんとなく気づいているよね? ……これ全部、このわたしのせいなんだ」

 そう言って彼女は手元の機器をいじって画面をビデオカメラに切り替えた。
 え! さすがに顔バレはやばいでしょ?

 画面に、ノワールちゃんの顔が映し出された。
 コメント欄にいっぱい『!』マークが入った書き込みが流れる。

 その顔を見て、反射的に私とリンは一歩後ろに下がり、武器を構えた。

 中野結衣!

 ……どういうこと?

 彼女は私たちを振り返ることなく、配信を続ける。

「信じられないかもだけど、わたしにはある特殊な能力が備わっています。人が発言したり、ネットに書き込んだ内容から、不信、憎悪の感情を読み取り、それを絡め取って、もっと強い言葉にして、拡散する能力。わたしのお友だちはそれを『スパイダー・フェイク・ウェブ、つまり、偽りの蜘蛛の糸』と呼んでいます」

 そう言うと、ノワールちゃん……中野さんは、ゲーミングチェアをぐるりとまわし、私たちに体を向けて微笑んだ。そして、すぐに姿勢を元に戻し、カメラ目線で話を続けた。

 最初っから気づかれていた⁉

「もともとわたしは、まともな人間じゃないの。みんなの負の感情……悲しみ、淋しさ、憎しみ、怒り、嫌悪……そんなものが集まり、実体化したのが、このわたし。だからね、こんなわたしとその能力が消えさえすれば、ぜんぶ元に戻ると思う……今日はね、わたしの友だち、二人の戦う少女がこの部屋に来てくれています。わたしをきれいに消し去るために」

 中学生VTuberは、カメラの配信を切らずに椅子から立ち上がり、私たちに近づいてきた。リンは今すぐにでも彼女の武器、イレイザーを放りそうな気配だ。
「リン、ちょっと待って。ちょっとだけノワール……中野さんと話をさせてくれる?」
「そんな必要はないと思いますけど。彼女も覚悟されているようですし……同情は禁物よ」
「……わかってる」

 私は、一歩前に出て、中野さんに向きあう。
「中野さん、私ね、以前からずっとあなたの配信を見ていたから、今の話を聞いても、あなたがドブラックだなんて思えないの。もしそうだったとしても、きっと誰かに操られているだけ。だから、あなたが消えちゃわなくても、うまくいく方法があるんじゃないかと思う」

 中野さんは、一度だけうなずく。
「ありがとう。でもね、一度経験しているでしょう? あのアニメの中で」
「どういうこと?」
「リンさん……シャドウ・エクリプスさんはね、わたしをきれいに消し去ろうとはしなかった。ひょっとしたらそれが原因で復活するかも知れないってわかっていたのに」

 驚いてわたしのバディの顔を見る。
「よくご存じね、中野さん、じゃなくてノワールさん、じゃなくてドブラック……それは、ワタクシの痛恨のミスでした。一時(いっとき)の感情に押し流されてしまいました……このワタクシとしたことが」

 中野さんはうなずき、再び口を開く。
「でも、エクリプスさんは、保険をかけたんだよね? 万が一わたしが復活してしまっても、テレビを見ている人たちが被害にあわないようにって」

 それを聞いてわたしはリンが言ったことを思い出した。
「その保険って、あなたの力で番組を打ち切らせて、しかも、みんなの記憶から削除したことなの?」

「ほんとうにすごい力よね」中野さんがつぶやく。
「でもやっぱりワタクシは失敗してしまいました。こうやってあなたをリアルの世界にまで引っ張り出してしまったのですから」
 整った顔立ちのリンが、眉間にしわを寄せ口元をゆがませて悔しそうにそう言った。こんな表情、今まで見たことがない。

「そう。だから、やっぱり『わたしたち』を完全に消し去って……」
 中野さんがそう言いかけたとき、私のイヤーカフが熱くなり、ピキンピキンと大音量で危険を知らせた。
 同時に、この部屋の片隅に、憎悪の気配を感じた。それも、とてつもなく強い憎悪を……殺意と言ってもいい。

「危ない!」

 私はとっさにリンに飛びつき、押し倒しす。直後になにか網状のものが私たちの頭上を通り過ぎ、壁にぶつかってそのまま貼りついた。

 私はリンに手を貸し起き上がらせたけど、そうしている間も彼女は部屋の反対側の暗がりを見つめていた。そして、
「そこに隠れていたのね、出てきてくださる?」

 二、三秒してゆっくりと人影が私たちに近づいて来た。中野さんがその人影のそばに寄る。

 私は呆然としながらその二人を見比べた。

「な、中野さんが二人!?」
 黒いワンピースに黒のミドルロング、あどけない表情は瓜二つだ。違うところと言えば、一人はネコ耳つきヘッドフォンを着けていること、もう一人は、さっき投げつけられたのと同じ網のようなものを手にぶらさげていること。

「惜しかったわね……もう少しでエクリプスさんの負の感情をからめ取って、それを利用することができたのに……ていうか、あなた、少し手を貸してくれてもいいんじゃない?」
『蜘蛛の網』をぶら下げている女の子は、そう言ってネコ耳の中野さんを睨んだ。

 私は次の一撃がまたやってくるのではないかと姿勢を低くして身構えていたが、リンは瓜二つの二人のやりとりを注意深く観察している。彼女なりに分析が終わったのか、二人に一歩近づいた。

「ち、ちょっとリン、大丈夫なの?」
 私は気が気でならなかったが、彼女は冷静に答えた。「そういうことでしたの、まさか分裂していたとは」
「どういうこと?」私にはさっぱりわからない。

「さすが『真実を見極める力』に秀でたエクリプスさんね……じゃあ、わたしはどっちかしら?」
 蜘蛛の網を持つ中野さんが謎の質問を投げかけた。
 リンはこともなげに答える。
「あなたが『憎しみのドブラック』でしょ? この騒動を引き起こしている張本人」
「……その通りよ」

「ねえリン、よくわかんないんだけど?」
 私は二人の中野さんを目の前にして、混乱が収まらない。
「さっきライブ配信しているとき、ネコ耳の中野さんが、悲しみ、淋しさ、憎しみ、怒り、嫌悪、そんなものが集まって実体化したのが私だっていったでしょう? それが大きく二つに別れた、ということだと思うの。一つは、憎しみ、怒り、嫌悪、不信という感情が集まった人格。略して『憎しみのドブラック』、そしてもう一つが、悲しみ、淋しさ、孤独、諦め、そんな感情が集まって生まれた『悲しみのドブラック』」
「……どうして二つの人格なの?」
「恐らくその方が都合がよかったからでしょうね。憎しみのドブラックにとっては。攻撃的な感情を絡め取って、増幅し、『復讐』しようとしている。歌舞伎町で会ったのも学校のライングループであったのも、きっとこの子よ……獰猛なの」

 もっと疑問が湧く。
「ねえリン、復讐って誰への復讐なの?」

 彼女は悲しそうな目でネコ耳の中野さんを見やった。
「それはね、復讐しやすそうな子、復讐したら面白そうな子。例えば、悲しみのドブラック……ノワールちゃんみたいに……可愛そうな子。八つ当たりされているようなものね。前に言った『ルサンチマン』っていう言葉は、そういうことなの」
「え! それじゃあ、ノワールちゃんのチャンネルは、憎しみのドブラックに攻撃されて炎上したってこと!」
「そういうことになりますわね、自分の分身を攻撃するなんて、ずいぶんと見境なく見えますけど、人間の免疫細胞が、その人自身に悪さをするのと少し似てますわ」

 ネコ耳をつけた中野さんが手で顔を覆った。
 蜘蛛の網を持った中野さんはじっと目をつぶったままだ。

 それを聞いて私の頭の中にある考えが浮かんだ。
「ということは、『憎しみのドブラックだけ』を消去すれば、この騒動は収まるってことじゃないの?」

 リンは私の肩の上に手を置いた。
「その可能性も無くはないけど、二度と同じ失敗は繰り返したくない……だから、確実に『ドブラックをすべて』消し去ります」
「そんな……それってやってみないとわからないじゃないの? だいたいそのときの失敗って、リンの失敗でしょ? 悲しみのドブラック……ノワールちゃんには関係ないじゃない!」

 私の反論を聞いて、リンの表情が厳しくなった。
「ねえノア、あなた妙に悲しみのドブラック……黒猫さんに肩入れしてません? それが命取りになりますよ」
「はあ? ひょっとしてリン、ヤキモチ焼いてんの?」
「なにをおっしゃいますか! 冷静におなりなさい」
 そう言ってリンは大きな消しゴムで私の顔を殴った!

「いったーい! なんでそんなひどいことするの! 記憶が飛んじゃったらどうするつもりよ!」
「だってこの間、ダークサイドに落ちそうになったら遠慮なくひっぱたいてって言ったのはノアちゃんの方ですよ!」
「もう! 冷静じゃないのはリンの方だよ!」
 私が抗議すると、リンのメガネの奥の瞳が、怒りではなく、今にも泣き出しそうな恐怖に揺れていることに気づく。

「……っ、ノア、あなたはいつもそう! すぐに誰かに感情移入して、自分を犠牲にしようとする! アニメの世界でも、あなたがそうやってアイツに手を差し伸べたから、世界は……!」と言い淀むリン。

 そのとき、急に私のからだから自由が奪われた。体中になにかがベトベトまとわりついている。それが『憎しみのドブラック』が放った蜘蛛の網だと気づいたときは、もう手遅れだった。身動きがとれずにバランスを崩し、横倒しになった。彼女は人の負の感情を増幅させる力がある。しまった……ただじっと目をつぶってたわけじゃなかったのか。私とリンに言い争いをさせて、隙を作ったんだ。

「二人で一つのエトワとエクリが、片割れになってしまったね。これでもう、あなたたちに勝ち目はなくなったわ。あなたがたが言う『憎しみ』と『悲しみ』のドブラックは滅びない」

 憎しみのドブラックはそう言ってニヤリと笑い、片手を上げた。

ビュン!
 リンにも蜘蛛の網が放たれたが、彼女はギリギリのタイミングでそれをかわした。今度は両手にエクリプス・イレイザーを持ち、二人のドブラックにジリジリを歩み寄る。

 そのとき!
『悲しみのドブラック』が私めがけて突進し、身をかがめて私に抱きつくと、蜘蛛の網をビリビリと剥がし始めた。それを自分の腕に巻きつけると、今度は『憎しみのドブラック』目がけて突き進んだ。

「こら、やめるんだ、放せ!」
 憎しみのドブラックは、覆い被さろうとする自分の分身を押しのけて阻止しようとしたけど、悲しみのドブラックは手足を使ってまとわりつき、手に巻いていた蜘蛛の網を二人の体に巻きつけた。

「さあ、エクリプスさん、わたしたちを消して!」

「だめだリン! 消すんじゃない!」
 私は思わず叫んだ。

「さあ、急いで!」
 悲しみのドブラック……ノワールちゃん……中野さんが急かす。

「ごめんなさい、ノワール。ごめんなさい……ノアにも謝ります」
 そう言うと、リンは目をつぶり、大きなケシゴムを二つ頭上高く掲げた。

「ちょっと待って!」
 私は、なんとか声を振り絞った。
「ねえリン……お願い……こうしてくれないかな?」
「なんですの?」

 土曜の夜、さみしがりやの私を癒やしてくれたあの『ゴロゴロナイト』の声。
 目の前で苦しんでいるこの子は、私の大好きなノワールちゃんだ。彼女を完全に消し去って、自分たちだけがヒーローとして笑う未来なんて、そんなの、『私たちの物語』じゃない!

「……もう、こんな悲しい思いはしたくない。むやみに人を疑ったり怒ったりしたくない……こんな辛い思いをするくらいなら、『戦いの少女』なんか、やりたくない。だから、リンさえよければ、私たちの記憶もすべて消して欲しいんだ……もちろん、今動画配信を見ているフォロワーたちの記憶からも……そして今度はリン、あなたの記憶からも」
 なんとかそう言い終えたら涙が溢れて止まらなかった。

「ノアちゃん、ワタクシの記憶も消してしまうと、二度と戦士には戻れなくなってしまいます……それでもいいの?」
「うん。魔物がいなくなるんだったら、私たち二人の戦士の存在も必要がなくなる……だからいいの。このコスチューム、気に入ってたけどね……エヘヘ」
 そう言って私は涙を拭き、笑ってみせた。

 リンは上げていた手を下ろし、しばらく黙っていた。

 そしてケシゴムを持ったまま私をぎゅっと抱きしめた。

「わかりました。ノアちゃんの願いを尊重します……あなたのそういう優しさ、ほんとはね、嫌いじゃないの……っていうよりむしろ、ノアちゃんのそんなところが、大好きです」
「ち、ちょっ! この場面で、そんなこと言わないでくれる?」
 多分私、顔赤い。

「でも一つだけお願い」

「?」
「ワタクシが『過去』を消去したら、必ずノアちゃんが『未来』を描かねばなりません……未来が見えなかったら、また同じことが起きてしまいます」

「じゃあ、どうすればいいの?」
「ワタクシが消去の動作に入ったら、あなたの武器で『未来の物語』を書いてください」
「……わかった」

 私は、蜘蛛の縄でがんじがらめになっている二人に近づき、涙を流している、文字通り『悲しみのドブラック』に尋ねる。
「ねえ、中野さん……ノワールちゃん。あなたのことは絶対に忘れたくない……心のどこかで。だから、聞かせて、あなたの思いを」

「ありがとう……」

 必死に網から逃れようとする自分の分身を押さえこみながら、ネコ耳の女の子は続ける。
「アニメの中での戦いを通じてよくわかったの。あなたたち二人の信頼関係……『きずな』が。わたしはそれが羨ましかった……その気持ちがどんどん大きくなって、わたし……いえ、わたしたちは『悲しみ』と『憎しみ』になってしまった。だからやっぱり、消えちゃった方がいいんだと思う」

「そんな悲しいこと言わないで」
 私は涙まじりで、そう返すしかなかった。

「友達になりたい……これだけ言えればよかったんだよね」

「うん……もっと早く、それを言って欲しかった」

「ノアちゃん」
 涙を流しながらも、リンは冷静だ。彼女がなにを言いたいのか、わかっているつもりだ。

 ノワールちゃんは涙を微笑みに変え、彼女の思いを伝える。

「どんなにケシゴムできれいに消しても、筆圧が強ければ、うっすらとその跡は残る……『わたしたち』をそういう風に思い出してくれるとうれしいな」

「う、うん……わかった」
 彼女の頬に私の涙が落ち、それに反応して彼女の微笑みは増した。

 私はリンにうなずき、「いいよ」と合図する。
 彼女は再び大きなケシゴムを頭上にかかげた。

 それと同時に私は、『オモイ・エガク・ペンシル』を両手に構える。

「イレイズ」
 リンが厳かに唱える。

 憎しみと悲しみのドブラックはいつの間にか、一人の女の子の姿に戻っていた。
 リンのイレイザーが世界を真っ白に塗りつぶしていく。
 少女の体が光の粒子となって溶けていく。

 消える、全部消える。ノワールちゃんの歌声……リンの髪の匂い……私のこの制服の重みも。だけど、跡は残る。私たちがここにいた証を、いや、絶対に残してみせる!

 私は全身の力を込めて、未来を書き込む。

 私は、ノワールちゃんの言葉を反すうしながら、

「思い出を 未来に 育てよう 一緒に」

 そんなシンプルなメッセージを大きなエンピツの芯先から放った。


 きっとこれが、あのアニメの……私たちがいた世界の……ほんとうの最終回なんだ。