隣の席の悪魔【旧版】

繋いだ手は、
結局最後までそのままだった。

空くんの手は、
あったかくて。

気づいたら私は、
空くんの肩へ寄りかかったまま、
眠っていた。



バスが地元へ着いた頃。

空はまだ、
夜と朝の間みたいな色をしていた。

薄い青。

白っぽい空。

静かな駅前。

私はぼんやり目を開ける。

その時。

隣から、
小さな声。

「……起きた?」

低い声。

空くんの声。

繋いだままの手に目を向けたあと。

はっとして。

私は一気に飛び起きた。

「ご、ごめん!!」

空くんが、
少しだけ眉を寄せる。

そして。

ぽつり。

「……重」

「ひどいーっ!!」

少し間を置いて。

空くんが、
自分の肩を指差した。

「あと、
よだれ」

「……え?」

私は恐る恐る、
空くんのパーカーを見る。

肩のところに。

うっすら跡。

「っっっ!!?」

私は一気に顔が熱くなる。

「ほ、ほんとごめん!!!」

慌てて鞄からハンカチを取り出す。

最悪。

消えたい。

私は半泣きのまま、
必死に肩を拭いた。

「ごめんってば……!」

空くんが、
小さくため息をつく。

「……バカ」

そう言いながら。

口元は、
少しだけ緩んでいた。

「空くんが手離さないからでしょ!?」

反射で言い返す。

その瞬間。

空くんが、
少しだけ目を細めた。

「……知ってる」

ふっと笑う。

優しい笑い方。

繋いだ手には、
まだ空くんの温もりが残っていた。



駅前のコンビニ。

白い灯り。

早朝の静けさ。

私は温かいカフェオレを両手で包みながら、
小さく息を吐く。

「あったか……」

空くんは隣で、
ブラックコーヒー。

相変わらず。

「苦くないの?」

「全然」

「大人ぶってる」

「まだ言う?」

私は思わず笑った。

空くんも、
少し笑ってる。



コンビニを出る。

朝の空気。

静かな道。

人もまだ少ない。

私たちは並んで歩きながら、
小さく息を吐く。

白い息が、
淡い朝の空へ溶けていく。

その時。

「……紬」

低い声。

私は思わず顔を上げた。

まだ。

慣れない呼び方。

それだけで、
胸の奥が落ち着かなくなる。

空くんは前を向いたまま、
少し間を空ける。

そして。

「就職、
地元にする」

私は思わず、
足を止めそうになる。

「え?」

空くんは、
少しだけ視線を逸らした。

「大学終わったら」

朝の風が、
静かに吹き抜ける。

響くのは、
私と空くんの足音だけ。

私は瞬きをする。

「……なんで?」

空くんが、
ゆっくり立ち止まる。

私もつられて足を止めた。

でも。

空くんは、
前を向いたままだった。

「……紬がいるから」

ああ、また。

胸の奥が、
ぎゅってなる。

苦しい。

嬉しい。

うまく息ができない。

こみあげるものに気づいて。

私は慌てて顔を逸らした。



「……紬」

低い声。

私は小さく返事をする。

「……なに」

空くんが、
少し困ったみたいに呟いた。

「泣くと思わなかった」

「空くんのせいだし……」

声は、
完全に涙声だった。

私だって。

泣くつもりなんて、
なかったのに。

私はマフラーへ顔を埋める。

その時。

空くんが、
静かに言った。

「……俺、
鈍いから」

私は少しだけ顔を上げる。

空くんは前を向いたまま、
ゆっくり言葉を探すみたいに続けた。

「ちゃんと分かったの、
結構あと」

朝の風。

静かな住宅街。

その中で。

空くんの声だけが、
やけに近くに聞こえる。

「ずっと、
楽だったし」

「一緒いるの、
普通だったから」

私は息を止める。

空くんが、
少しだけ目を細めた。

「……だから、
気づくの遅かった」

その瞬間。

駅の向こうから、
朝日が差し込む。

眩しさに、
私は少しだけ目を細めた。

そして。

空くんが、
私を見る。

「……好きだった」

低い声。

静かな朝。

その続きを、
私は息を止めて待った。

空くんは、
少しだけ困ったみたいに笑う。

「……たぶん、
あの頃からずっと」

胸の奥が、
熱くなる。

でも。

空くんは、
そこで終わらなかった。

少しだけ視線を逸らして。

ぽつり。

「……今も、
ちゃんと好き」

風。

朝焼け。

遠くで鳴く鳥の声。

全部。

一瞬止まった気がした。

私は何も言えなかった。

だって。

ずっと。

ずっと聞きたかった言葉だったから。



涙を拭い続ける私を見て、
空くんが、
少しだけ目を細める。

「空くんの……ばか」

「……なんで」

「遅い……」

「……悪かった」

空くんの声が、
あまりに優しくて。

私はもう、
涙を拭くのをやめた。

「私だって……」

声が震える。

でも。

止めたくなかった。

ようやく言えるから。

「ずっと好きだったんだよ……」

涙で、
うまく息ができない。

「会いたかったし……」

「ずっと、
会いたかった……」

空くんは、
何も言わずに聞いていた。

ただ。

小さく、
頷きながら。

「……うん」

「……うん」

その声が、
余計に泣きそうになる。

私はぐしゃぐしゃのまま、
続けた。

「連絡したかったし……」

「会えなくても、
ずっと忘れられなかった……」

言葉が、
うまくまとまらない。

でも。

空くんは、
急かさなかった。

静かに。

ちゃんと聞いてくれていた。

そのあと。

ぽつり。

「……わかってる」

その声に。

私はまた、
泣きそうになる。

空くんは、
少しだけ目を細めて、
ふっと笑った。

そして。

「……顔やば」

「空くんのせい!!」

私は泣きながら叫ぶ。

また笑われるかと思ったけど。

空くんは、
小さくため息をついて。

少し困ったみたいに言った。

「……泣くなよ」

空くんの手が、
私の方へ伸びる。

でも。

それを待たずに。

私は空くんへ、
ぎゅっと抱きついていた。

まるで。

会えなかった時間を埋めるみたいに。

空くんがここにいることを、
確かめるみたいに。

空くんは、
少しだけ驚いたあと。

ふっと息を吐く。

そして。

私の背中へ、
そっと腕を回した。

優しい手。

額に触れる、
熱い耳。

ずっと会いたかった人の体温。

私はぎゅっと目を閉じる。

冬の朝焼けが。

私たちを、
静かに包んでいた。