隣の席の悪魔【旧版】

空くんが向こうに戻ってからも。

連絡は、
ちゃんと続いた。

……といっても。

『暑い』

とか。

『今月の新刊、
めっちゃ良かった!』

とか。

送るのは、
だいたい私からだったけど。

でも。

空くんはちゃんと返してくれる。

『ちゃんと水飲めよ』

とか。

『読んだ。好きそうだと思った』

とか。

短いけど。

前より少しだけ、
優しい。

それがなんか、
くすぐったかった。



『今度、
十月に帰る』

ある日の夜。

届いたメッセージ。

私はベッドの上で、
思わず飛び起きた。

続けて。

『その日空けといて』

私は思わずスマホを抱きしめる。

なんなの。

その言い方。

ずるい。

でも。

嬉しい。

すごく。

私は慌てて返信を打つ。

『空けとく!!!』

送信。

数秒後。

『うん』

私は枕へ顔を埋めた。

だめ。

楽しい。



十月。

まだ、
夏の空気を残した空。

図書館。

閉館作業。

私は時計を見ながら、
何回も入口を気にしていた。

ガラス越し。

入口の外。

見つけた。

空くん。

壁にもたれて、
携帯を見てる。

呼吸が、
少しだけ浅くなる。



「お待たせ!」

私は鞄を抱えて、
外へ出た。

空くんが、
ゆっくり顔を上げる。

「……お疲れ」

優しい声。

空くんが。

また。

この街にいる。



「コンビニ寄る」

歩き出したところで、
空くんがぽつりと言う。

「え、行く!」

私は思わず笑った。

夜のコンビニ。

白い灯り。

自動ドアの音。

冷房の涼しさ。

また。

昔を思い出す。

私はアイスコーナーの前でしゃがみ込む。

「うわ迷う……」

「子どもか」

「アイス選ぶ時間が一番楽しいの!」

「そうですか」

でも。

空くんも、
私の選ぶアイスを見てる。

私は思わず笑った。

「空くん、
食べないの?」

「これ」

空くんが手に取ったのは、
ブラックの缶コーヒー。

「やっぱり大人ぶってる!」

「もう大人」

「苦いじゃん!」

空くんは、
少しだけ目を細めた。

「お前は甘すぎ」

「アイスは甘いものでしょ!」

私は得意げにチョコアイスを掲げる。

数秒。

空くんが、
小さく笑う。

「変わってないな」

「え?」

「そういうとこ」

その言い方が、
なんか優しくて。

胸の奥が、
じんわり熱くなる。



コンビニを出る。

夜風。

川沿い。

昔みたいに、
並んで座る。

私はアイスを食べながら、
川を眺めた。

静か。

なのに。

落ち着く。

隣に、
空くんがいるから。

ふと、
横顔を見る。

夜風。

街灯。

大人っぽくなった輪郭。

私は小さく笑った。

「大学、
どう?」

「まぁ」

「楽しい?」

空くんは、
少し肩を竦める。

「普通」

私はアイスを見つめたまま、
小さく続ける。

「……空くん、
大学でも人気ありそう」

知らない街。

大学。

サークル。

知らない人。

私の知らない空くん。

もしかしたら、
その隣には――。

私は小さく笑った。

「……知らない時間、
いっぱいあるね」

夜風に溶けるみたいな声。

空くんは、
少しだけ黙った。

そして。

「……彼女のことなら、
いない」

え。

私は一気に顔を上げる。

空くんは、
前を向いたまま。

「……星野は?」

夜風。

川の音。

私は慌てて首を振る。

「い、いないし!!」

空くんが、
小さく息を吐く。

「……そっか」

その声は、
少しだけ柔らかかった。



ふと。

腕時計へ視線を落とす。

……あれ。

秒針。

止まってる。

「あ……」

思わず、
小さく声が漏れる。

空くんが、
こっちを見る。

私は慌てて時計を軽く振った。

でも。

動かない。

「……ついに止まっちゃった」

私は小さく笑う。

「前から、
ちょっとずつズレてたんだけどね」

そう言いながら、
指先で時計を撫でる。

気づいたら。

ずっと、
外せなくなってた。

空くんは、
しばらく黙ったままだった。

そのあと。

「……ちょっと時間ある?」



ショッピングモール。

時計店。

私は値札を見た瞬間、
一歩下がった。

「高っ!!」

空くんは、
私の腕の時計を見る。

止まった針。

少し擦れたベルト。

「貸して」

え。

私はぽかんとしたまま、
時計を外す。

空くんは、
それを受け取ると、
店員さんへ差し出した。

「これ、
直せますか」

「お預かりになりますが」

空くんは、
小さく頷く。

「お願いします」

「えっ!?」

私は思わず空くんを見る。

空くんは、
もう店頭の時計を見ていた。

私はその横で、
並んだ時計をぼんやり眺める。

その中で。

ひとつだけ、
目が止まった。

シャンパンゴールドの文字盤。

細いオレンジのベルト。

夕焼けを閉じ込めたみたいな時計。

その瞬間。

空くんが、
その時計を手に取る。

「これ」

え。

私は瞬きをする。

空くんは、
時計を軽く揺らしながら言った。

「好き?」

「……なんで分かったの」

短く息を吐いて、
空くんが言う。

「星野っぽいから」

私は目を見開く。

空くんは、
時計を見たまま続けた。

「……買う」

「え!?!?」

私は一気に現実へ引き戻される。

「いいよいいよ!!
高いって!!」

慌てて首を振る。

「……好みじゃない?」

「すっごく好きだけど!」

空くんが、
呆れたみたいに小さくため息をつく。

「……じゃあ、交換条件」

「え?」

空くんは、
少し視線を逸らした。

「今度、
学祭来て」

私は一瞬、
言葉を失う。

空くんは、
静かに続ける。

「……見せるから」

数秒。

空くんが、
少しだけ視線を落とす。

そして。

「……知らない時間」

呼吸が、
止まりそうになる。

大学の空くん。

知らない場所。

知らない時間。

私は思わず、
小さく笑った。

「……ずるい」



帰り道。

夜風。

並ぶ影。

空くんが、
ぽつり。

「……また帰るし」

え。

私は顔を上げる。

空くんは前を向いたまま、
続けた。

「その時、
また会えばいいだろ」

その言い方が。

あまりにも自然で。

まるで。

これから先も、
当たり前みたいに続いていくみたいで。

胸の奥が、
ぎゅってなる。

私は小さく笑う。

「……うん」

そのあと。

ふと。

腕時計へ視線が落ちる。

夕焼けを閉じ込めたみたいな、
新しい腕時計。

夜の灯りを映して、
静かに光ってる。

……学祭か。

知らない時間。

大学の空くん。

なんか、
変に緊張する。

「……星野?」

低い声。

気づけば、
空くんがこっちを見ていた。

私はゆっくり顔を上げる。

「……空くん」

「……ん?」

私はぎゅっと時計を握る。

そして。

小さく聞いた。

「……ほんとに、
行ってもいいの?」

空くんは、
少しだけ眉を寄せる。

それから。

前を向いたまま、
ぽつり。

「俺が来てって言った」

呼吸が止まりそうになる。

空くんは、
そのまま歩き続ける。

でも。

耳だけ、
少し赤い。

私は思わず笑った。

「……絶対行く」

夜風が吹く。

隣を歩く歩幅が、
少しだけ近い。

私はもう一度、
新しい腕時計へ触れた。