隣の席の悪魔【旧版】

窓の外で、
風が夏の葉を揺らす。

図書館のカウンター。

返却された本。

静かな空気。

私は貸出カードを整理しながら、
小さく息を吐いた。

社会人二年目の夏。

少しずつ、
仕事にも慣れてきた頃。

高校を卒業した私は、
短大へ進学して、
図書館司書の資格を取った。

昔の私が聞いたら、
きっと驚くと思う。

静かな場所って、
どちらかというと落ち着かなかったから。

それなのに。

図書館で働きたいって、
思うようになったのは。

たぶん――

静かな図書室。

西日。

窓際。

金木犀。

本を読む横顔。

気づけば、
いつも思い出す景色が、
そこだったから。



高校を卒業する頃までは。

何度も思っていた。

また会いたいって。

でも。

卒業すれば。

住む場所も。

出会う人も。

時間の流れも。

全部、
変わっていく。

大人になる。

だから。

ちゃんと前を向こうって思った。

前を見て、
走らないと。

あの人に、
怒られるから。

でも。

二十歳の冬。

成人式のあとには、
同窓会もあった。

もしかしたら。

会えるかもしれないって、
少しだけ期待して。

私は髪を切った。

“星野っぽい”
って言ってくれた、
あの髪型に。

でも。

あの人は来なかった。

「留学中らしいぞ」

「絶対向こうで彼女だろ!」

周りの笑い声を聞きながら。

私は、
小さく笑った。

……何年経ったと思ってるんだろう。

少しでも期待してた自分が、
なんだか恥ずかしかった。

その時。

葛西くんが、
ぽつりと言った。

「紬が来るって分かってたら、
あいつ無理してでも来ただろうな」

私は思わず笑う。

「そんなわけない」

「いや、ある」

葛西くんは、
昔を思い出すみたいに目を細めた。

そのあと。

携帯を少し持ち上げる。

「番号、
教えようか?」

私は、
その画面を少しだけ見る。

懐かしい名前。

ずっと、
見たかった名前。

でも。

私は小さく首を振った。

「……今さらだから」

葛西くんは、
何かを言いかけて。

最後には、
そっとため息をついた。



短大。

就職。

前に進もうとした。

他の人にも、
ちゃんと目を向けようとした。

でも。

夕焼けを見るたび。

雨の匂いを感じるたび。

静かな図書館へ入るたび。

思い出してしまうのは。

あの頃、
隣にいた横顔だった。



「星野さん」

後ろから声がして、
私は振り返る。

先輩司書。

「返却処理お願いできる?」

「あ、はい!」

私は慌てて本を受け取った。

表紙。

バーコード。

閉館時間が近い、
いつもの夕方。

窓の外を見る。

夕方と夜の間みたいな空。

あの日と、
同じ色。

私は小さく息を吐く。

その時。

カラン。

図書館の扉が開く音。

いつものように顔を上げる。

そして。

私は、
動けなくなった。

揺れる黒髪。

伏し目がちな視線。

長いまつ毛。

涼しげな目。

変わらない、
静かな空気。

でも。

前より少しだけ、
大人になった横顔。

心臓が、
一度だけ大きく跳ねる。

懐かしい。

はずなのに。

頭が、
うまく回らない。

過去のことだって、
何度も言い聞かせてきたのに。

今。

あの人が、
目の前にいる。

「……空、くん?」

その瞬間。

その人が、
はっとしたみたいに顔を上げる。

そして。

目を見開いた。

静かな図書館。

夕方の光。

「……星野?」

何年分もの時間が。

一気に、
戻ってきた気がした。



私はやっと、
小さく息をする。

「……空くん」

名前を呼んだ瞬間。

胸の奥で、
何かが一気にほどけた。

空くんは、
まだ少し驚いた顔のまま、
こっちを見ている。

「なんで……」

ぽつり。

その声に、
私は少しだけ笑ってしまった。

低く、
落ち着いた声。

少し大人になった、
空くんの声。

「それ、
私の台詞」

すると。

空くんが、
小さく息を吐く。

少しだけ、
目を細めた。

懐かしい。

そのまま。

ふっと口元を緩める。

「……そのまま」

私はつられて、
小さく笑った。

「空くんこそ」

夕方の図書館。

閉館時間が近い。

静かな空気。

でも。

胸の奥だけは、
昔みたいに、
うるさく音を立てていた。