隣の席の悪魔【旧版】

夕方。

校庭。

風。

静かな空。

「……走るか」

低い声。

顔を上げる。

空くん。

私は少しだけ笑った。

「うん」

たぶん。

これが最後。

ちゃんと分かってた。

でも。

口にしたくなかった。

私たちは、
いつもみたいに並んで走る。

だけど、
いつもより、
少しゆっくり。

競争でもない。

ただ。

隣を走る。

風も。

空の色も。

全部、
いつも通りなのに。

今日は、
隣が少しだけ遠かった。

「……星野」

「ん?」

空くんは前を見たまま、
つぶやく。

「……うるさかった」

「はぁ!?」

私は思わず吹き出す。

「急になに!?」

空くんは、
少しだけ笑ってる。

「……でも」

風が吹く。

白い息が、
空へ溶けていく。

次の言葉を待った。

でも。

空くんは、
しばらく黙ったままだった。

「……風邪、引くなよ」

ようやく聞こえた言葉に、
私は瞬きをする。

「……最後にそれー?」

眉を寄せる私を見て、
空くんが小さく笑う。

そして。

少しだけ視線を逸らしたまま、
ぽつりと言った。

「……お前が静かだと、
調子狂うから」

心臓が、
どくんと揺れる。

なんでもないことみたいに言うから、
困る。

私は思わず口を尖らせた。

「空くん、
静かなの好きなくせに」

空くんは、
目を逸らして小さく息を吐く。

隣を走る歩幅が、
少しだけ小さくなった気がした。



帰り道。

いつもの別れ道。

立ち止まる。

空くんが言う。

「じゃあな」

いつも通り。

なのに。

今日だけ。

重い。

私は少しだけ迷って。

でも。

結局。

いつもの言葉しか出なかった。

「……また明日」

空くんが、
少しだけ目を細める。

そして。

「……またな」

そう言ったあと、
空くんは歩き出した。



私は、
離れていく背中を見る。

今、
走れば届きそうなのに。

声が、
出なくて。

足が、
動かなくて。

ただ。

見ていることしか、
できなかった。

その時。

空くんが、
一度だけ振り返る。

夕方。

オレンジ色の空。

揺れる前髪。

そして。

少しだけ目を細めて、
言った。

「……泣くなよ」

低い声。

私は涙が滲んだまま、
小さく頷く。

空くんが、
一歩だけこっちへ動く。

でも。

その瞬間。

ぴたりと止まった。

まるで。

何かを堪えるみたいに。

私は思わず、
制服を握りしめる。

その時。

空くんが、
もう一度顔を上げた。

「……星野!」

私は涙を拭くのも忘れて、
はっと顔を上げる。

空くんは、
今度はちゃんと声を張った。

「ちゃんと、
前見て走れよ!!」

その瞬間。

胸の奥へ、
何かが一気に流れ込んでくる。

苦しくて。

寂しくて。

でも。

涙の奥が、
少しだけ熱くなった。

私は涙でぐしゃぐしゃのまま、
叫ぶ。

「わかってるもん!!」

空くんが、
少しだけ目を細める。

そして。

優しく笑って、
小さく頷いた。

今度こそ。

空くんは、
前を向いて歩き出す。

私は、
その背中が見えなくなるまで。

ずっと、
そこに立っていた。



家に着く。

「ただいま」

小さく呟いて、
私はそのまま自分の部屋へ入った。

制服のまま、
ベッドへ座り込む。

膝の上。

卒業アルバム。

開くのが怖かった。

終わりを、
ちゃんと実感してしまいそうで。

私は小さく息を吐く。

そして。

ゆっくり表紙を開いた。



クラスページ。

先生の言葉。

友達のメッセージ。

笑いながら読めるはずなのに。

なんか。

全部ぼやける。

その時。

……見つけた。

見慣れた字。

少しだけ右上がりの、
空くんの字。

私は思わず、
息を止めた。

『また走れたら、
いいなと思います』

胸が、
どくんと大きく鳴る。

その下。

雑に付け足したみたいに。

『気が向いたら』

空くん。

……空くん。

私はアルバムを握りしめたまま、
泣きながら笑う。

最後まで。

ずるい。

その時。

メッセージの端が目に入った。

小さく描かれた、
へたっぴなありんこ。

……あ。

その瞬間。

あの日の夕焼け。

隣を走る足音。

「うるさい」

って笑う声。

その全部が、
胸の奥へ戻ってくる。

どの景色にも。

ちゃんと、
空くんがいた。

ぽた。

涙が落ちる。

もう一滴。

アルバムの文字が、
少しだけ揺れる。

なんで。

気づかなかったんだろう。

……違う。

気づかないふりをしてた。

空くんのこと。

ずっと。

好きだったのに。



窓の外。

夕方と夜の間みたいな空が、
静かに広がっていた。