嘘つきな君と、声の出ない私

 階段の踊り場には、午後の光が斜めに差し込んでいた。

 窓の外では、文化祭前日のざわめきが続いている。体育館からマイクテストの音が聞こえ、廊下の向こうでは誰かが段ボールを運びながら笑っていた。

 でも、ここだけは静かだった。

 黒瀬くんは手すりに片手をついたまま、顔を伏せている。肩が小さく震えていた。

 私は一歩、近づいた。

 靴音に気づいたのか、黒瀬くんが慌てて顔を上げる。

「……花粉」

 そう言って、彼は袖で目元を乱暴にこすった。

「季節外れの花粉。最近の花粉って空気読まないよな」

 いつもの嘘だった。

 軽くて、くだらなくて、誰かを近づけないための嘘。

 私はスマホを取り出す。

《嘘》

 画面を見せると、黒瀬くんは少しだけ笑った。

「早いな、相棒」

 声がかすれていた。

 私は隣に立った。
 何を言えばいいのかわからない。
 こういうとき、言葉がある人なら、すぐに優しいことを言えるのだろうか。

 大丈夫、とか。
 泣いていいよ、とか。
 ありがとう、とか。

 どれも頭には浮かぶのに、喉まで来ると止まってしまう。

 だから、文字にした。

《私には、嘘つかなくていい》

 黒瀬くんは画面を見たまま、しばらく黙っていた。

 窓の外から、吹奏楽部のチューニングの音が聞こえる。ばらばらだった音が、少しずつひとつにまとまっていく。

「……怖かった」

 黒瀬くんが、ぽつりと言った。

 私は彼を見る。

「また、誰も信じてくれないと思った」

 その声は、とても小さかった。

「三井が認めても、みんなが俺の昔のことを見たのは消えないだろ。ああ、やっぱり黒瀬はそういうやつなんだって、どっかで思われるんじゃないかって」

 彼は手すりを握る。

「さっき藤咲が黒板に書いてるとき、俺、すげえことしてるなって思った。声が出ないのに、逃げないで、ちゃんと本当のことを書いてた」

 私は首を振ろうとした。

 すごくなんかない。
 震えていた。
 何度も逃げたいと思った。

 でも、黒瀬くんは続けた。

「なのに俺は、三井が認めた瞬間、安心したんじゃなくて、怖くなった。これで俺も、本当のこと言わなきゃいけなくなるんだって」

 黒瀬くんは笑おうとして、失敗した。

「ださいよな」

 私は強く首を振った。

 スマホに打つ。

《ださくない》

 それだけでは足りない気がして、続けて打った。

《怖いのに逃げなかった》

 黒瀬くんは画面を見て、目を細めた。

「逃げたよ。教室から」

《でも、私の隣には立ってくれた》

 私が書くと、黒瀬くんは何も言わなくなった。

 私はスマホを握ったまま、喉の奥に意識を向ける。

 言いたい。

 文字ではなく、声で。

 黒瀬くんが、私の声になってくれた。
 だったら今度は、私が彼に届けたい。

 喉が震える。
 胸が苦しい。

 でも、今日は完全には閉じていなかった。

「……わたしは」

 音が出た。

 自分の声なのに、遠くから聞こえたみたいだった。

 黒瀬くんが、はっと顔を上げる。

 私は息を吸う。
 怖い。
 また出なくなるかもしれない。
 途中で止まって、変な顔をされるかもしれない。

 でも、黒瀬くんは待っていた。

 急かさず、笑わず、ただ待っていた。

「……信じた」

 かすれた声だった。
 小さくて、頼りなくて、階段の踊り場の外には届かないくらいの声。

 でも、黒瀬くんには届いた。

 彼の目が大きくなる。

「藤咲……」

 私はもう一度、声を出そうとした。
 でも、今度は出なかった。

 喉がきゅっと縮む。

 それでも、不思議と悔しくはなかった。

 私はスマホに打つ。

《少しだけ出た》

 黒瀬くんは画面を見る前から、もう笑っていた。

「出た。めちゃくちゃ出た」

《めちゃくちゃではない》

「俺基準では、めちゃくちゃ」

 彼の笑顔は、逃げるためのものではなかった。

 泣いたあとで、少し赤くなった目。
 それでも、ちゃんと本当の笑顔だった。

「ありがとう」

 黒瀬くんが言った。

 その言葉に、私は首を横に振る。
 ありがとうは、私の方だ。

 でも、声はまだ出ない。

 だから、スマホに打った。

《私の言葉を待ってくれて、ありがとう》

 黒瀬くんは画面を見て、少し照れたようにそっぽを向く。

「相棒だからな」

 その一言が、胸の奥に静かに残った。

 翌日。

 文化祭当日の朝は、前日の重さが嘘みたいに晴れていた。

 校門には色とりどりのアーチが作られ、廊下にはクラスごとのポスターが貼られている。焼きそばのソースの匂い、チョコバナナの甘い匂い、体育館から聞こえるマイクの音。

 学校全体が、少し浮かれていた。

 二年三組の教室にも、朝早くからみんなが集まっていた。

 航くんは、今日は来ていない。
 先生から、文化祭の表舞台には出ず、後日あらためて話し合いをすることになったと聞いた。

 昨日のことがなかったみたいにはならない。

 疑われたことも、傷つけられたことも、消えない。

 でも、すべてをなかったことにしなくても、前に進むことはできるのかもしれない。

「藤咲さん」

 美月さんに呼ばれ、私は振り返った。

 彼女は少し緊張した顔で、ノートパソコンの画面を見せてきた。

「最後のテロップ、これでいいかな」

 画面には、映像作品のラストカットが表示されていた。
 夕暮れの教室。誰もいない机。窓から入る光。

 その上に、一文が入っている。

《声にならない言葉にも、ちゃんと本当はある。》

 私は目を見開いた。

「昨日、藤咲さんが黒板に書いた言葉、ずっと残ってて」

 美月さんは少し照れたように笑う。

「勝手に入れたらだめかなって思ったんだけど、この作品の最後に必要な気がして。もちろん、嫌なら消す」

 私は首を振った。

 それからスマホに打つ。

《入れてほしい》

 美月さんの顔が明るくなる。

「よかった」

 少し間を置いて、彼女は小さく言った。

「私、言える人が強いんだと思ってた」

 私は画面から顔を上げる。

「思ったことをすぐ口にできる人が、正しいんだって。でも、違った。言えないだけで、何もないわけじゃないんだよね」

 美月さんの声は、昨日までよりずっと柔らかかった。

「ごめんね。何回も、ひどいこと言った」

 私はスマホに打った。

《私も、怖くて何も伝えようとしなかった》

 少し考えて、もう一文。

《でも、昨日は聞いてくれてありがとう》

 美月さんは画面を読んで、目を潤ませた。

「こちらこそ」

 そのとき、教室の後ろから声がした。

「おーい、感動シーン中に悪いけど、俺の出番は?」

 黒瀬くんだった。

 両手に配布用のパンフレットを抱えている。今日はネクタイが少しだけちゃんとしていた。たぶん、誰かに直されたのだと思う。

 美月さんが笑う。

「黒瀬くんは、配布係」

「俺、昨日けっこう活躍したのに?」

「活躍したから、今日も働いて」

「ブラック文化祭だ」

 いつもの軽口。
 でも、教室の空気は昨日までと少し違っていた。

 誰かが笑った。
 その笑いは、彼を馬鹿にするものではなかった。

 黒瀬くんも、それに気づいたのか、一瞬だけ目を丸くした。
 それから、少し照れたように笑う。

 体育館での発表は、無事に始まった。

 暗くなった体育館。
 スクリーンに、二年三組の映像が映し出される。

 教室で撮った場面。
 廊下を歩く生徒たち。
 声にはならないけれど、それぞれが抱えている小さな気持ち。

 私は客席の端で見ていた。

 自分たちの作った映像なのに、昨日までの出来事が重なって、まるで別の物語みたいに見える。

 そして最後。

 夕暮れの教室の映像に、一文が浮かぶ。

《声にならない言葉にも、ちゃんと本当はある。》

 体育館が静かになった。

 拍手が起きるまでの、ほんの一秒。
 私はその静けさが好きだと思った。

 誰かが、言葉を受け取ってくれた気がしたから。

 発表が終わると、大きな拍手が響いた。
 美月さんが泣き笑いの顔で何度も頭を下げている。紗奈さんは先生と一緒に進行を確認しながら、ほっとしたように笑っていた。

 私は後ろの方で、拍手の音を聞いていた。

「大成功じゃん」

 隣に黒瀬くんが来た。

 私はうなずく。

「藤咲の一文、よかった」

 私はスマホを出す。

《みんなの作品だから》

「そういう優等生コメント、委員長っぽい」

《本当》

「出た。声なし探偵の本当判定」

 彼は笑った。

 体育館を出ると、廊下は人でいっぱいだった。
 他のクラスの呼び込み、保護者の話し声、先生たちの注意。色々な音が重なって、いつもなら少し苦しくなる。

 でも、今日は黒瀬くんが隣にいた。

 それだけで、人の声の波が少し遠くなる。

「なあ」

 黒瀬くんが歩きながら言った。

「俺らって結局、何コンビ?」

 私は首を傾げる。

「候補その一。声なし探偵と、天才助手」

 私はすぐにスマホを打った。

《天才?》

「そこ疑う?」

《助手?》

「そこも疑う?」

 私は少し考えた。

《声なし探偵と、元嘘つき助手》

「ちょっと待て。俺、助手なの?」

 黒瀬くんが本気で不満そうな顔をする。

「昨日、けっこう支えたよな? 名台詞も言ったよな? 『声じゃなくていい』とか」

 私は思わず笑った。

 声は出なかったけれど、笑えた。

 黒瀬くんはその笑顔を見て、少し満足そうにする。

「まあ、いいけど。助手でも。相棒の助手なら昇格の可能性あるし」

 相棒。

 その言葉に、胸があたたかくなる。

 私はスマホに打とうとして、やめた。

 廊下の真ん中。
 周りにはたくさんの人。
 ざわめき。視線。音。

 喉は少し怖がっている。

 でも、黒瀬くんは隣で待っている。
 私が言葉を探す時間を、当たり前みたいにくれる。

 私は小さく息を吸った。

「……相棒」

 声は、かすれていた。
 でも、昨日より少しだけはっきりしていた。

 黒瀬くんが立ち止まる。

 そして、顔を赤くした。

「……今のは、反則じゃない?」

 私は首を傾げる。

「急に声で言うの、ずるいだろ」

 スマホに打つ。

《嘘つき助手がうるさいので》

「元、な。元嘘つき」

 黒瀬くんは少しだけ胸を張る。

 その顔がおかしくて、私はまた笑った。

 文化祭の廊下を、私たちは並んで歩いた。

 これからも、声が出ない日はあると思う。
 何かを言おうとして、喉が閉じる日もあると思う。

 黒瀬くんだって、すぐにみんなから信じられるようになるわけじゃない。
 ふざけてごまかしたくなる日も、嘘で自分を守りたくなる日もあると思う。

 それでも。

 私はもう、一人で黙っているだけじゃない。
 黒瀬くんも、もう一人で笑ってごまかすだけじゃない。

 声が出ない私には、言葉を待ってくれる人がいる。
 嘘つきだった君には、嘘の奥にある本当を見てくれる人がいる。

 私たちは、欠けていたんじゃない。

 隣に立つ形が、少し違っただけだ。

 廊下の向こうから、美月さんが手を振っている。
 紗奈さんが「次、写真撮るよ」と呼んでいる。

 黒瀬くんが私を見る。

「行くか、相棒」

 私はうなずいた。

 そして、もう一度だけ、小さく声にした。

「うん」

 声が出ない私の隣で、嘘つきだった君が、本当の笑顔を見せた。