翌朝の教室は、まだ始業前なのに、いやな熱を持っていた。
いつもなら文化祭準備の話で騒がしい時間だった。どの飾りを増やすとか、発表の順番をどうするとか、そういう声が飛び交っているはずだった。
けれど、その朝は違った。
みんなが机に座ったまま、スマホを見ていた。
誰かが小声で笑い、誰かが気まずそうに顔を伏せる。
教室に入った瞬間、私はわかった。
何かが、ばらまかれた。
黒瀬くんは、まだ来ていなかった。
私は席に向かいながら、震える手でスマホを開く。クラスのグループチャットに、知らないアカウントから画像が貼られていた。
昨日、私に送られてきたものと同じだった。
《黒瀬律は、親友を売った嘘つき》
古い投稿のスクリーンショット。
その下に、短い文章が添えられている。
《今も同じ。藤咲をかばってるふりをして、自分だけいい人になろうとしてる》
息が、うまく吸えなかった。
「これ、本当なの?」
「黒瀬って中学のときからそんな感じだったんだ」
「まあ、嘘つきって言われてるしね」
小さな声が、教室のあちこちでこぼれる。
違う。
そう思った。
でも、声は出ない。
私だけは、知っている。
黒瀬くんが親友を売ったんじゃないこと。
誰かを守ろうとして、自分が悪者になったこと。
知っているのに、言えない。
喉の奥に、昨日よりも重い鍵がかかっていた。
「おはよー。今日も世界は俺中心に回ってる?」
教室のドアが開いて、黒瀬くんが入ってきた。
その瞬間、空気が固まる。
みんなの視線が、一斉に彼に向いた。
黒瀬くんは一瞬だけ足を止めた。
気づいたのだと思う。
何が起きたのか。
でも、すぐにいつもの笑顔を作った。
「あれ、何? 俺、ついに芸能人デビューした?」
誰も笑わなかった。
黒瀬くんは自分の席に向かいながら、スマホを取り出す。画面を見る。貼られた画像を見る。少しだけ目を伏せる。
その一瞬を、私は見逃さなかった。
痛い。
そんな顔だった。
けれど、次に顔を上げたときには、もう笑っていた。
「懐かしいなー。俺の黒歴史展覧会じゃん。入場料取ればよかった」
「黒瀬」
美月さんが低い声で呼んだ。
「これ、本当なの?」
黒瀬くんは肩をすくめた。
「半分くらい?」
「何それ」
「世の中、白か黒だけじゃないってこと」
クラスの空気がざわつく。
「そうやってまたごまかすんだ」
誰かが言った。
「昨日も藤咲さんをかばってたけど、本当に何か知ってるんじゃないの?」
「黒瀬が関わってる可能性もあるよね」
言葉が、次々に黒瀬くんへ向かっていく。
私は立ち上がりかけた。
でも、足が震えた。
何をすればいいのかわからない。
スマホを握る。
文字を打つ。
《違う》
たった二文字。
でも、それを誰に見せればいいのか。
誰が読んでくれるのか。
黒瀬くんは、私の方を見なかった。
「はいはい。俺は怪しいです。嘘つきだし、存在が不審だし、昨日も焼きそばパン買えてないし」
またふざける。
その笑顔が、見ていられなかった。
ホームルームが終わっても、空気は戻らなかった。神崎先生は「憶測で人を責めないように」と言ったけれど、流れ出した噂は止まらない。
休み時間、黒瀬くんはいつものように席で笑っていた。
誰かに「親友を売ったって本当?」と聞かれても、「俺、売れるものはだいたい売るタイプだから」と冗談で返した。
でも、私にはわかる。
彼は、逃げている。
昼休み、私は黒瀬くんを廊下に呼び出した。
声は出ない。
だから、彼の机にスマホの画面を見せた。
《少し話したい》
黒瀬くんは私の画面を見て、いつもの軽い顔で立ち上がった。
「告白?」
私は首を振る。
「違うか。残念」
その冗談にも、私は笑えなかった。
誰もいない階段の踊り場まで行くと、私はすぐに文字を打った。
《どうして本当のことを言わないの?》
黒瀬くんは画面を見て、少し黙った。
「言っても信じないだろ」
《私は信じる》
「藤咲は、だろ」
その言い方に、胸が痛くなる。
「クラス全員に昔話して、何になるんだよ。俺は本当に嘘ついた。そこだけ切り取られたら終わり。誰かを守るためでした、なんて言ったところで、言い訳にしか聞こえない」
《でも、違うことまで信じられる》
「慣れてる」
黒瀬くんは軽く笑った。
「嘘つきって思われるの、慣れてるから」
その言葉に、私は強く首を振った。
慣れてるなんて、嘘だ。
私はスマホに打つ。
《逃げないで》
黒瀬くんの表情が、少しだけ変わった。
「逃げてねえよ」
《笑ってる。だから逃げてる》
画面を見せた瞬間、黒瀬くんの眉がわずかに動いた。
怒ったのだと思った。
初めて見る顔だった。
「藤咲に何がわかるんだよ」
低い声。
胸がびくっと震える。
「俺が何言っても、結局みんな見たいものしか見ない。嘘つきって札を貼っとけば安心なんだよ。こいつの言うことは信じなくていいって」
私は何か打とうとした。
でも、指が動かなかった。
「藤咲はいいよな」
その言葉に、息が止まった。
「黙ってても、誰かが察してくれる。言えないんですって顔してれば、周りが気をつかってくれる」
それは違う。
そう言いたかった。
でも、言えなかった。
黒瀬くんも、言った瞬間に自分で傷ついたような顔をした。
けれど、もう止まれなかったのかもしれない。
「俺は何言っても嘘になる。だったら、笑ってる方が楽なんだよ」
私は震える指で打った。
《楽じゃない》
画面を見せる。
黒瀬くんは見なかった。
「もういい。信じられないなら、無理に一緒にいなくていい」
そう言って、階段を下りていく。
私は追いかけようとした。
声を出そうとした。
黒瀬くん。
名前を呼びたかった。
でも、喉は閉じたままだった。
開いた口から、何も出ない。
彼の背中が、角を曲がって見えなくなる。
私は階段の手すりを握ったまま、立ち尽くした。
午後の授業中も、胸の奥が痛かった。
黒瀬くんの「藤咲はいいよな」という言葉が、何度も戻ってくる。
よくない。
黙っていることで、気をつかわれることもある。けれど、それ以上に、勝手に決めつけられる。
言いたいことがないと思われる。
怒っていないと思われる。
傷ついていないと思われる。
でも、黒瀬くんも同じなのだ。
笑っているから平気だと思われる。
嘘つきだから傷つかないと思われる。
何を言っても冗談にされる。
私たちは似ている。
だからこそ、いちばん触られたくない傷を、互いに刺してしまった。
放課後、黒瀬くんは教室にいなかった。
私は一人で共有パソコンのある教室へ向かった。今日は文化祭のリハーサル前日で、先生から許可をもらえば、保存されたデータの確認ができることになっていた。
神崎先生は職員室で他の先生と打ち合わせをしていて、「パソコンを触るなら、必ず記録を残してね」と言った。私はうなずき、教室に戻った。
そこには、航くんがいた。
パソコンの前に座り、何かを確認している。私が入ると、彼は驚いたように顔を上げた。
「藤咲さん」
その声は少し高かった。
私は軽く頭を下げる。
「データ、確認しに来たの?」
私はうなずいた。
航くんは椅子から立ち上がる。
「先生には言ってある?」
もう一度うなずく。
「そっか」
航くんは笑った。
でも、その笑い方はぎこちなかった。
彼が教室を出ていったあと、私は共有パソコンの前に座った。昨日見つかった《voice_00》のフォルダを開く。映像の一部、音声ファイル、仮のテロップデータ。
完全版ではない。
でも、私はふと、更新履歴の欄に目を止めた。
作成者のアカウント名。
そこには、佐倉紗奈さんの名前が表示されていた。
紗奈さん。
やっぱり、と思いかけて、私は手を止めた。
昨日、紗奈さんは職員室で先生と話していたはずだ。データが移された時間帯と、紗奈さんが職員室にいた時間が重なるなら、彼女本人が操作したとは限らない。
私は神崎先生に確認するため、職員室へ行った。
声では聞けない。
だから、スマホに用件を打って見せる。
《昨日のデータが移された時間に、佐倉さんは職員室にいましたか?》
神崎先生は少し驚いた顔をしたが、出席簿の横にあるメモを確認してくれた。
「佐倉さん? うん、その時間はたしかに職員室にいたよ。文化祭委員の確認で、十五分くらい話していたから」
やっぱり。
紗奈さんのアカウントを、誰かが使った。
教室に戻る途中、私は記憶をたどった。
紗奈さんと同じ文化祭委員。
委員会でパスワードや共有フォルダの扱いを知る可能性がある人。
機材やパソコンに詳しい人。
三井航くん。
心臓が速くなる。
航くんは、データが消えたとき「バックアップなんてない」と早く言った。
《voice_00》が見つかったとき、机を強く握っていた。
そして今日、私が教室に入ると、パソコンの前にいた。
でも、まだ足りない。
証拠がいる。
私は自分の席に戻り、ノートを開いた。
航くんの言葉。
手の動き。
アカウント。
時間。
そして、匿名メッセージ。
《黒瀬律を信じるな》
《あいつは前にも、人を裏切ってる》
《明日、黒瀬律の昔のことをクラス全員にばらす》
私はその文章を何度も読み返した。
どこかで見たことがある。
文の終わり方。
句読点の少なさ。
「前にも」という言い方。
文化祭準備の連絡ノートをめくる。機材班のメモ。航くんが書いた説明文。
《前にも接続不良があったので、予備ケーブルを用意しておきます》
同じだ。
「前にも」の使い方。
短く区切る癖。
漢字にするところと、ひらがなにするところ。
もちろん、それだけでは証拠として弱い。
けれど、つながっていく。
ひとつひとつの小さな違和感が、一本の線になる。
私はノートを握りしめた。
そのとき、教室の後ろから声がした。
「何してるの?」
航くんだった。
私は体を固くした。
航くんはゆっくり近づいてくる。
いつものおとなしい顔。でも、目だけが落ち着かない。
「藤咲さん、最近、黒瀬といろいろ調べてるよね」
私はうなずかなかった。
「やめた方がいいよ」
声が、低くなる。
「黒瀬なんか信じても、いいことないから」
私はスマホを握る。
《どうして?》
画面を見せると、航くんは唇を噛んだ。
「だって、あいつは嘘つきだから」
《黒瀬くんの過去を流したのは、三井くん?》
打ってから、手が震えた。
航くんの顔から、色が引いた。
それだけで、答えは出ていた。
「……何言ってるの」
彼は笑おうとした。
でも、笑えていなかった。
「証拠あるの?」
私は答えられなかった。
航くんは少しだけ息を吐く。
「ないよね。だったら、変なこと言わない方がいいよ。今だって、藤咲さんが疑われてるんだから」
その言葉に、喉が詰まる。
「黙ってれば、これ以上ひどくならないよ」
机の中に入っていた紙と同じ言葉だった。
黙っていれば。
私は、スマホを強く握った。
逃げてはいけない。
そう思うのに、体は動かない。
航くんは私のノートに目を落とした。
「それ、見せて」
私は首を振る。
「見せてよ」
航くんが手を伸ばした瞬間、教室のドアが開いた。
「何してんの」
黒瀬くんだった。
息が少しだけ上がっている。走ってきたのかもしれない。
でも、顔はいつもの軽い笑顔ではなかった。
航くんはすぐに手を引っ込める。
「別に。藤咲さんと話してただけ」
「へえ。机越しに詰め寄るのが三井流の会話?」
「詰め寄ってない」
「じゃあ、俺の目が悪いんだ。ごめん、視力だけは嘘つかないと思ってた」
黒瀬くんは私の横に立った。
私は彼を見上げる。
昼休みのことが胸に残っていて、うまく顔を見られない。
でも、彼は小さく言った。
「さっきは悪かった」
それだけだった。
その一言だけで、喉の奥の痛みが少し緩む。
私はスマホに打つ。
《私も》
黒瀬くんは画面を見て、ほんの少しだけ笑った。
今度は、薄い笑顔ではなかった。
航くんは視線をそらす。
「僕、準備があるから」
そう言って教室を出ていこうとする。
黒瀬くんが呼び止めた。
「三井」
航くんが止まる。
「嘘つくなら、最後までちゃんとやれよ」
航くんの肩が揺れた。
けれど、振り向かずに出ていった。
教室に二人きりになると、私はノートを黒瀬くんに見せた。
紗奈さんのアカウント。
職員室にいた時間。
航くんの文体。
匿名メッセージ。
さっきの反応。
黒瀬くんは黙って読んだ。
「三井だな」
《まだ証拠が弱い》
「でも、かなり近い」
《明日のリハで、何かするかもしれない》
「たぶんする」
黒瀬くんは黒板の方を見た。
「三井がデータを隠した理由、何だと思う?」
私は少し考えた。
《自分が必要だと思われたかった》
黒瀬くんが私を見る。
《バックアップを隠して、あとで見つけたふりをするつもりだったのかも》
「ヒーローになりたかったってことか」
私はうなずく。
航くんは、ずっと機材係だった。
縁の下の力持ち。
でも、美月さんのように中心には立てない。
自分がいなければ困ると、証明したかったのかもしれない。
「わかる気もするな」
黒瀬くんがぽつりと言った。
私は彼を見る。
「誰かに必要だって思われたいのって、たぶんそんなに変なことじゃない」
その声は、少しだけ寂しかった。
「でも、誰かを傷つけてやることじゃない」
私は画面に打つ。
《うん》
翌日。
文化祭前日のリハーサル。
体育館での通し練習の前に、教室で最終確認をすることになった。先生も来る予定だったが、別クラスのトラブルで少し遅れていた。
教室には、三組のほとんどの生徒がいた。
美月さんは新しく作り直した映像データを確認している。
航くんは、その隣でパソコンを操作していた。
「実は、昨日の夜、古いバックアップを見つけたんだ」
航くんが言った。
クラスがざわめく。
「本当?」
「どこにあったの?」
「これで間に合う?」
航くんは少し照れたように笑う。
「機材用の一時保存フォルダに残ってた。完全版に近いと思う。僕が確認しておいたから」
美月さんの顔がぱっと明るくなる。
「本当に? 三井くん、すごい!」
その瞬間、私は見た。
航くんの口元が、ほんの少しだけ上がる。
でも、目は笑っていない。
ほっとしている。
やっと自分が見てもらえる、という顔だった。
黒瀬くんが私の隣に立つ。
「来たな」
私はうなずいた。
今だ。
そう思った。
でも、足が動かない。
教室中が航くんを見ている。
美月さんは救われたような顔をしている。
ここで私が止めなければ、航くんはヒーローになる。
そして、私と黒瀬くんへの疑いは、うやむやのまま残る。
私は立ち上がった。
椅子の音が、教室に響く。
みんながこちらを見る。
喉が、一瞬で閉じた。
「藤咲さん?」
美月さんが言う。
「何?」
声が出ない。
息が浅い。
手が震える。
視界の端が白くなる。
言わなきゃ。
伝えなきゃ。
でも、何も出ない。
「また黙ってるの?」
美月さんの声に、悪意はなかったのかもしれない。
でも、その一言で、膝が崩れそうになった。
そのとき、隣で声がした。
「黙ってるんじゃない」
黒瀬くんだった。
彼は私の一歩横に立った。
「言葉を探してるんだよ」
教室が静まる。
黒瀬くんは私を見た。
「藤咲。声じゃなくていい」
その声は、まっすぐだった。
「お前が見たことを書け」
私は彼を見上げた。
昼休み、彼は私を傷つけた。
私も、彼を傷つけた。
でも今、彼は逃げずに隣にいる。
私も逃げない。
私は震える手で、黒板の前に立った。
チョークを持つ。
指がうまく動かない。
それでも、書いた。
《データは消されたのではなく、移動されていました》
教室がざわつく。
続けて書く。
《移動先のフォルダは、佐倉さんのアカウントで作られていました》
紗奈さんが目を見開く。
「私、やってない」
その声は震えていた。
私はうなずいて、次を書いた。
《でも、その時間、佐倉さんは職員室にいました。先生が確認できます》
紗奈さんの顔に、安堵が広がる。
私はさらに書く。
《つまり、誰かが佐倉さんのアカウントを使いました》
航くんの顔がこわばる。
「それ、僕と何の関係があるの」
声が少し上ずっていた。
私は振り返らず、黒板に書いた。
《バックアップの場所を知っていたのは、機材管理をしていた人です》
航くんが笑う。
「それだけで僕を疑うの? ひどくない?」
教室が揺れる。
私はまた喉が苦しくなる。
みんなの視線が痛い。
でも、黒瀬くんが言った。
「続けて」
短い言葉。
それだけで、私は次の一文字を書けた。
《匿名メッセージの文体が、三井くんの連絡ノートの文章と似ています》
「そんなの、こじつけだよ!」
航くんが声を荒げた。
「文体が似てるとか、そんなので犯人扱いするの? 藤咲さん、自分が疑われたからって、今度は僕を疑うの?」
その言葉が、刺さった。
私はチョークを握ったまま固まる。
そのとき、黒瀬くんが一歩前に出た。
「三井」
「何だよ」
「嘘つくとき、左手で右の袖をつかむ癖、出てる」
航くんがはっとして、自分の手を見る。
たしかに、彼は右の袖口を強く握っていた。
「それ、昨日もやってた。バックアップって言葉が出たとき。今日、藤咲が立ったときも」
「偶然だろ」
「じゃあ、今すぐ手、離せよ」
航くんは動けなかった。
黒瀬くんの声が、静かに続く。
「嘘つくなら、最後までちゃんとやれって言っただろ」
教室が息をのむ。
航くんの顔が歪んだ。
「……僕は」
声が震える。
「壊すつもりじゃなかった」
その一言で、すべてが崩れた。
美月さんが呆然とする。
「三井くん……?」
「本当に、壊すつもりじゃなかったんだ。少し隠して、みんなが困ったところで、僕が見つけたって言えば……」
航くんは俯いた。
「そしたら、少しは必要だって思われるかなって」
誰も何も言わなかった。
「ずっと、美月さんばっかり中心だった。僕も頑張ってたのに、誰も見てくれなかった。機材とか、保存とか、地味なことばっかりで……」
航くんの声が崩れていく。
「でも、藤咲さんが疑われて、黒瀬が調べ始めて、怖くなって。だから、二人を引き離そうと思って……」
私はチョークを置いた。
怒りより先に、胸が苦しくなった。
航くんも、見てほしかったのだ。
でも。
私は黒板に、最後の一文を書いた。
《でも、誰かを傷つけて自分を見てもらうのは違う》
航くんはそれを見て、唇を震わせた。
「……ごめん」
小さな声だった。
神崎先生が教室に入ってきたのは、その直後だった。先生は状況を聞き、航くんを職員室へ連れていった。リハーサルは一時中断になったが、データは無事に戻り、発表は予定通り行えることになった。
教室に残ったみんなは、しばらく何も言えずにいた。
美月さんが私の方に来た。
「藤咲さん」
私は体を固くする。
美月さんは深く頭を下げた。
「疑って、ごめん」
私は慌てて首を振る。
すぐにスマホを出して打った。
《私も、ちゃんと伝えられなくてごめん》
美月さんはその画面を見て、泣きそうな顔になった。
「ちゃんと伝わったよ。今日、すごかった」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
でも、私が振り返ったとき、隣にいるはずの黒瀬くんがいなかった。
教室のドアが、少しだけ揺れている。
私はすぐに廊下へ出た。
黒瀬くんは、階段の踊り場にいた。
背中を丸めて、手すりに片手をついている。
肩が、わずかに震えていた。
近づいて、私は足を止めた。
彼は泣いていた。
声を殺して。
誰にも見られない場所で。
私の声になってくれた君は、自分の痛みだけは誰にも聞かせなかった。
いつもなら文化祭準備の話で騒がしい時間だった。どの飾りを増やすとか、発表の順番をどうするとか、そういう声が飛び交っているはずだった。
けれど、その朝は違った。
みんなが机に座ったまま、スマホを見ていた。
誰かが小声で笑い、誰かが気まずそうに顔を伏せる。
教室に入った瞬間、私はわかった。
何かが、ばらまかれた。
黒瀬くんは、まだ来ていなかった。
私は席に向かいながら、震える手でスマホを開く。クラスのグループチャットに、知らないアカウントから画像が貼られていた。
昨日、私に送られてきたものと同じだった。
《黒瀬律は、親友を売った嘘つき》
古い投稿のスクリーンショット。
その下に、短い文章が添えられている。
《今も同じ。藤咲をかばってるふりをして、自分だけいい人になろうとしてる》
息が、うまく吸えなかった。
「これ、本当なの?」
「黒瀬って中学のときからそんな感じだったんだ」
「まあ、嘘つきって言われてるしね」
小さな声が、教室のあちこちでこぼれる。
違う。
そう思った。
でも、声は出ない。
私だけは、知っている。
黒瀬くんが親友を売ったんじゃないこと。
誰かを守ろうとして、自分が悪者になったこと。
知っているのに、言えない。
喉の奥に、昨日よりも重い鍵がかかっていた。
「おはよー。今日も世界は俺中心に回ってる?」
教室のドアが開いて、黒瀬くんが入ってきた。
その瞬間、空気が固まる。
みんなの視線が、一斉に彼に向いた。
黒瀬くんは一瞬だけ足を止めた。
気づいたのだと思う。
何が起きたのか。
でも、すぐにいつもの笑顔を作った。
「あれ、何? 俺、ついに芸能人デビューした?」
誰も笑わなかった。
黒瀬くんは自分の席に向かいながら、スマホを取り出す。画面を見る。貼られた画像を見る。少しだけ目を伏せる。
その一瞬を、私は見逃さなかった。
痛い。
そんな顔だった。
けれど、次に顔を上げたときには、もう笑っていた。
「懐かしいなー。俺の黒歴史展覧会じゃん。入場料取ればよかった」
「黒瀬」
美月さんが低い声で呼んだ。
「これ、本当なの?」
黒瀬くんは肩をすくめた。
「半分くらい?」
「何それ」
「世の中、白か黒だけじゃないってこと」
クラスの空気がざわつく。
「そうやってまたごまかすんだ」
誰かが言った。
「昨日も藤咲さんをかばってたけど、本当に何か知ってるんじゃないの?」
「黒瀬が関わってる可能性もあるよね」
言葉が、次々に黒瀬くんへ向かっていく。
私は立ち上がりかけた。
でも、足が震えた。
何をすればいいのかわからない。
スマホを握る。
文字を打つ。
《違う》
たった二文字。
でも、それを誰に見せればいいのか。
誰が読んでくれるのか。
黒瀬くんは、私の方を見なかった。
「はいはい。俺は怪しいです。嘘つきだし、存在が不審だし、昨日も焼きそばパン買えてないし」
またふざける。
その笑顔が、見ていられなかった。
ホームルームが終わっても、空気は戻らなかった。神崎先生は「憶測で人を責めないように」と言ったけれど、流れ出した噂は止まらない。
休み時間、黒瀬くんはいつものように席で笑っていた。
誰かに「親友を売ったって本当?」と聞かれても、「俺、売れるものはだいたい売るタイプだから」と冗談で返した。
でも、私にはわかる。
彼は、逃げている。
昼休み、私は黒瀬くんを廊下に呼び出した。
声は出ない。
だから、彼の机にスマホの画面を見せた。
《少し話したい》
黒瀬くんは私の画面を見て、いつもの軽い顔で立ち上がった。
「告白?」
私は首を振る。
「違うか。残念」
その冗談にも、私は笑えなかった。
誰もいない階段の踊り場まで行くと、私はすぐに文字を打った。
《どうして本当のことを言わないの?》
黒瀬くんは画面を見て、少し黙った。
「言っても信じないだろ」
《私は信じる》
「藤咲は、だろ」
その言い方に、胸が痛くなる。
「クラス全員に昔話して、何になるんだよ。俺は本当に嘘ついた。そこだけ切り取られたら終わり。誰かを守るためでした、なんて言ったところで、言い訳にしか聞こえない」
《でも、違うことまで信じられる》
「慣れてる」
黒瀬くんは軽く笑った。
「嘘つきって思われるの、慣れてるから」
その言葉に、私は強く首を振った。
慣れてるなんて、嘘だ。
私はスマホに打つ。
《逃げないで》
黒瀬くんの表情が、少しだけ変わった。
「逃げてねえよ」
《笑ってる。だから逃げてる》
画面を見せた瞬間、黒瀬くんの眉がわずかに動いた。
怒ったのだと思った。
初めて見る顔だった。
「藤咲に何がわかるんだよ」
低い声。
胸がびくっと震える。
「俺が何言っても、結局みんな見たいものしか見ない。嘘つきって札を貼っとけば安心なんだよ。こいつの言うことは信じなくていいって」
私は何か打とうとした。
でも、指が動かなかった。
「藤咲はいいよな」
その言葉に、息が止まった。
「黙ってても、誰かが察してくれる。言えないんですって顔してれば、周りが気をつかってくれる」
それは違う。
そう言いたかった。
でも、言えなかった。
黒瀬くんも、言った瞬間に自分で傷ついたような顔をした。
けれど、もう止まれなかったのかもしれない。
「俺は何言っても嘘になる。だったら、笑ってる方が楽なんだよ」
私は震える指で打った。
《楽じゃない》
画面を見せる。
黒瀬くんは見なかった。
「もういい。信じられないなら、無理に一緒にいなくていい」
そう言って、階段を下りていく。
私は追いかけようとした。
声を出そうとした。
黒瀬くん。
名前を呼びたかった。
でも、喉は閉じたままだった。
開いた口から、何も出ない。
彼の背中が、角を曲がって見えなくなる。
私は階段の手すりを握ったまま、立ち尽くした。
午後の授業中も、胸の奥が痛かった。
黒瀬くんの「藤咲はいいよな」という言葉が、何度も戻ってくる。
よくない。
黙っていることで、気をつかわれることもある。けれど、それ以上に、勝手に決めつけられる。
言いたいことがないと思われる。
怒っていないと思われる。
傷ついていないと思われる。
でも、黒瀬くんも同じなのだ。
笑っているから平気だと思われる。
嘘つきだから傷つかないと思われる。
何を言っても冗談にされる。
私たちは似ている。
だからこそ、いちばん触られたくない傷を、互いに刺してしまった。
放課後、黒瀬くんは教室にいなかった。
私は一人で共有パソコンのある教室へ向かった。今日は文化祭のリハーサル前日で、先生から許可をもらえば、保存されたデータの確認ができることになっていた。
神崎先生は職員室で他の先生と打ち合わせをしていて、「パソコンを触るなら、必ず記録を残してね」と言った。私はうなずき、教室に戻った。
そこには、航くんがいた。
パソコンの前に座り、何かを確認している。私が入ると、彼は驚いたように顔を上げた。
「藤咲さん」
その声は少し高かった。
私は軽く頭を下げる。
「データ、確認しに来たの?」
私はうなずいた。
航くんは椅子から立ち上がる。
「先生には言ってある?」
もう一度うなずく。
「そっか」
航くんは笑った。
でも、その笑い方はぎこちなかった。
彼が教室を出ていったあと、私は共有パソコンの前に座った。昨日見つかった《voice_00》のフォルダを開く。映像の一部、音声ファイル、仮のテロップデータ。
完全版ではない。
でも、私はふと、更新履歴の欄に目を止めた。
作成者のアカウント名。
そこには、佐倉紗奈さんの名前が表示されていた。
紗奈さん。
やっぱり、と思いかけて、私は手を止めた。
昨日、紗奈さんは職員室で先生と話していたはずだ。データが移された時間帯と、紗奈さんが職員室にいた時間が重なるなら、彼女本人が操作したとは限らない。
私は神崎先生に確認するため、職員室へ行った。
声では聞けない。
だから、スマホに用件を打って見せる。
《昨日のデータが移された時間に、佐倉さんは職員室にいましたか?》
神崎先生は少し驚いた顔をしたが、出席簿の横にあるメモを確認してくれた。
「佐倉さん? うん、その時間はたしかに職員室にいたよ。文化祭委員の確認で、十五分くらい話していたから」
やっぱり。
紗奈さんのアカウントを、誰かが使った。
教室に戻る途中、私は記憶をたどった。
紗奈さんと同じ文化祭委員。
委員会でパスワードや共有フォルダの扱いを知る可能性がある人。
機材やパソコンに詳しい人。
三井航くん。
心臓が速くなる。
航くんは、データが消えたとき「バックアップなんてない」と早く言った。
《voice_00》が見つかったとき、机を強く握っていた。
そして今日、私が教室に入ると、パソコンの前にいた。
でも、まだ足りない。
証拠がいる。
私は自分の席に戻り、ノートを開いた。
航くんの言葉。
手の動き。
アカウント。
時間。
そして、匿名メッセージ。
《黒瀬律を信じるな》
《あいつは前にも、人を裏切ってる》
《明日、黒瀬律の昔のことをクラス全員にばらす》
私はその文章を何度も読み返した。
どこかで見たことがある。
文の終わり方。
句読点の少なさ。
「前にも」という言い方。
文化祭準備の連絡ノートをめくる。機材班のメモ。航くんが書いた説明文。
《前にも接続不良があったので、予備ケーブルを用意しておきます》
同じだ。
「前にも」の使い方。
短く区切る癖。
漢字にするところと、ひらがなにするところ。
もちろん、それだけでは証拠として弱い。
けれど、つながっていく。
ひとつひとつの小さな違和感が、一本の線になる。
私はノートを握りしめた。
そのとき、教室の後ろから声がした。
「何してるの?」
航くんだった。
私は体を固くした。
航くんはゆっくり近づいてくる。
いつものおとなしい顔。でも、目だけが落ち着かない。
「藤咲さん、最近、黒瀬といろいろ調べてるよね」
私はうなずかなかった。
「やめた方がいいよ」
声が、低くなる。
「黒瀬なんか信じても、いいことないから」
私はスマホを握る。
《どうして?》
画面を見せると、航くんは唇を噛んだ。
「だって、あいつは嘘つきだから」
《黒瀬くんの過去を流したのは、三井くん?》
打ってから、手が震えた。
航くんの顔から、色が引いた。
それだけで、答えは出ていた。
「……何言ってるの」
彼は笑おうとした。
でも、笑えていなかった。
「証拠あるの?」
私は答えられなかった。
航くんは少しだけ息を吐く。
「ないよね。だったら、変なこと言わない方がいいよ。今だって、藤咲さんが疑われてるんだから」
その言葉に、喉が詰まる。
「黙ってれば、これ以上ひどくならないよ」
机の中に入っていた紙と同じ言葉だった。
黙っていれば。
私は、スマホを強く握った。
逃げてはいけない。
そう思うのに、体は動かない。
航くんは私のノートに目を落とした。
「それ、見せて」
私は首を振る。
「見せてよ」
航くんが手を伸ばした瞬間、教室のドアが開いた。
「何してんの」
黒瀬くんだった。
息が少しだけ上がっている。走ってきたのかもしれない。
でも、顔はいつもの軽い笑顔ではなかった。
航くんはすぐに手を引っ込める。
「別に。藤咲さんと話してただけ」
「へえ。机越しに詰め寄るのが三井流の会話?」
「詰め寄ってない」
「じゃあ、俺の目が悪いんだ。ごめん、視力だけは嘘つかないと思ってた」
黒瀬くんは私の横に立った。
私は彼を見上げる。
昼休みのことが胸に残っていて、うまく顔を見られない。
でも、彼は小さく言った。
「さっきは悪かった」
それだけだった。
その一言だけで、喉の奥の痛みが少し緩む。
私はスマホに打つ。
《私も》
黒瀬くんは画面を見て、ほんの少しだけ笑った。
今度は、薄い笑顔ではなかった。
航くんは視線をそらす。
「僕、準備があるから」
そう言って教室を出ていこうとする。
黒瀬くんが呼び止めた。
「三井」
航くんが止まる。
「嘘つくなら、最後までちゃんとやれよ」
航くんの肩が揺れた。
けれど、振り向かずに出ていった。
教室に二人きりになると、私はノートを黒瀬くんに見せた。
紗奈さんのアカウント。
職員室にいた時間。
航くんの文体。
匿名メッセージ。
さっきの反応。
黒瀬くんは黙って読んだ。
「三井だな」
《まだ証拠が弱い》
「でも、かなり近い」
《明日のリハで、何かするかもしれない》
「たぶんする」
黒瀬くんは黒板の方を見た。
「三井がデータを隠した理由、何だと思う?」
私は少し考えた。
《自分が必要だと思われたかった》
黒瀬くんが私を見る。
《バックアップを隠して、あとで見つけたふりをするつもりだったのかも》
「ヒーローになりたかったってことか」
私はうなずく。
航くんは、ずっと機材係だった。
縁の下の力持ち。
でも、美月さんのように中心には立てない。
自分がいなければ困ると、証明したかったのかもしれない。
「わかる気もするな」
黒瀬くんがぽつりと言った。
私は彼を見る。
「誰かに必要だって思われたいのって、たぶんそんなに変なことじゃない」
その声は、少しだけ寂しかった。
「でも、誰かを傷つけてやることじゃない」
私は画面に打つ。
《うん》
翌日。
文化祭前日のリハーサル。
体育館での通し練習の前に、教室で最終確認をすることになった。先生も来る予定だったが、別クラスのトラブルで少し遅れていた。
教室には、三組のほとんどの生徒がいた。
美月さんは新しく作り直した映像データを確認している。
航くんは、その隣でパソコンを操作していた。
「実は、昨日の夜、古いバックアップを見つけたんだ」
航くんが言った。
クラスがざわめく。
「本当?」
「どこにあったの?」
「これで間に合う?」
航くんは少し照れたように笑う。
「機材用の一時保存フォルダに残ってた。完全版に近いと思う。僕が確認しておいたから」
美月さんの顔がぱっと明るくなる。
「本当に? 三井くん、すごい!」
その瞬間、私は見た。
航くんの口元が、ほんの少しだけ上がる。
でも、目は笑っていない。
ほっとしている。
やっと自分が見てもらえる、という顔だった。
黒瀬くんが私の隣に立つ。
「来たな」
私はうなずいた。
今だ。
そう思った。
でも、足が動かない。
教室中が航くんを見ている。
美月さんは救われたような顔をしている。
ここで私が止めなければ、航くんはヒーローになる。
そして、私と黒瀬くんへの疑いは、うやむやのまま残る。
私は立ち上がった。
椅子の音が、教室に響く。
みんながこちらを見る。
喉が、一瞬で閉じた。
「藤咲さん?」
美月さんが言う。
「何?」
声が出ない。
息が浅い。
手が震える。
視界の端が白くなる。
言わなきゃ。
伝えなきゃ。
でも、何も出ない。
「また黙ってるの?」
美月さんの声に、悪意はなかったのかもしれない。
でも、その一言で、膝が崩れそうになった。
そのとき、隣で声がした。
「黙ってるんじゃない」
黒瀬くんだった。
彼は私の一歩横に立った。
「言葉を探してるんだよ」
教室が静まる。
黒瀬くんは私を見た。
「藤咲。声じゃなくていい」
その声は、まっすぐだった。
「お前が見たことを書け」
私は彼を見上げた。
昼休み、彼は私を傷つけた。
私も、彼を傷つけた。
でも今、彼は逃げずに隣にいる。
私も逃げない。
私は震える手で、黒板の前に立った。
チョークを持つ。
指がうまく動かない。
それでも、書いた。
《データは消されたのではなく、移動されていました》
教室がざわつく。
続けて書く。
《移動先のフォルダは、佐倉さんのアカウントで作られていました》
紗奈さんが目を見開く。
「私、やってない」
その声は震えていた。
私はうなずいて、次を書いた。
《でも、その時間、佐倉さんは職員室にいました。先生が確認できます》
紗奈さんの顔に、安堵が広がる。
私はさらに書く。
《つまり、誰かが佐倉さんのアカウントを使いました》
航くんの顔がこわばる。
「それ、僕と何の関係があるの」
声が少し上ずっていた。
私は振り返らず、黒板に書いた。
《バックアップの場所を知っていたのは、機材管理をしていた人です》
航くんが笑う。
「それだけで僕を疑うの? ひどくない?」
教室が揺れる。
私はまた喉が苦しくなる。
みんなの視線が痛い。
でも、黒瀬くんが言った。
「続けて」
短い言葉。
それだけで、私は次の一文字を書けた。
《匿名メッセージの文体が、三井くんの連絡ノートの文章と似ています》
「そんなの、こじつけだよ!」
航くんが声を荒げた。
「文体が似てるとか、そんなので犯人扱いするの? 藤咲さん、自分が疑われたからって、今度は僕を疑うの?」
その言葉が、刺さった。
私はチョークを握ったまま固まる。
そのとき、黒瀬くんが一歩前に出た。
「三井」
「何だよ」
「嘘つくとき、左手で右の袖をつかむ癖、出てる」
航くんがはっとして、自分の手を見る。
たしかに、彼は右の袖口を強く握っていた。
「それ、昨日もやってた。バックアップって言葉が出たとき。今日、藤咲が立ったときも」
「偶然だろ」
「じゃあ、今すぐ手、離せよ」
航くんは動けなかった。
黒瀬くんの声が、静かに続く。
「嘘つくなら、最後までちゃんとやれって言っただろ」
教室が息をのむ。
航くんの顔が歪んだ。
「……僕は」
声が震える。
「壊すつもりじゃなかった」
その一言で、すべてが崩れた。
美月さんが呆然とする。
「三井くん……?」
「本当に、壊すつもりじゃなかったんだ。少し隠して、みんなが困ったところで、僕が見つけたって言えば……」
航くんは俯いた。
「そしたら、少しは必要だって思われるかなって」
誰も何も言わなかった。
「ずっと、美月さんばっかり中心だった。僕も頑張ってたのに、誰も見てくれなかった。機材とか、保存とか、地味なことばっかりで……」
航くんの声が崩れていく。
「でも、藤咲さんが疑われて、黒瀬が調べ始めて、怖くなって。だから、二人を引き離そうと思って……」
私はチョークを置いた。
怒りより先に、胸が苦しくなった。
航くんも、見てほしかったのだ。
でも。
私は黒板に、最後の一文を書いた。
《でも、誰かを傷つけて自分を見てもらうのは違う》
航くんはそれを見て、唇を震わせた。
「……ごめん」
小さな声だった。
神崎先生が教室に入ってきたのは、その直後だった。先生は状況を聞き、航くんを職員室へ連れていった。リハーサルは一時中断になったが、データは無事に戻り、発表は予定通り行えることになった。
教室に残ったみんなは、しばらく何も言えずにいた。
美月さんが私の方に来た。
「藤咲さん」
私は体を固くする。
美月さんは深く頭を下げた。
「疑って、ごめん」
私は慌てて首を振る。
すぐにスマホを出して打った。
《私も、ちゃんと伝えられなくてごめん》
美月さんはその画面を見て、泣きそうな顔になった。
「ちゃんと伝わったよ。今日、すごかった」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
でも、私が振り返ったとき、隣にいるはずの黒瀬くんがいなかった。
教室のドアが、少しだけ揺れている。
私はすぐに廊下へ出た。
黒瀬くんは、階段の踊り場にいた。
背中を丸めて、手すりに片手をついている。
肩が、わずかに震えていた。
近づいて、私は足を止めた。
彼は泣いていた。
声を殺して。
誰にも見られない場所で。
私の声になってくれた君は、自分の痛みだけは誰にも聞かせなかった。

