嘘つきな君と、声の出ない私

 翌朝の教室は、まだ始業前なのに、いやな熱を持っていた。

 いつもなら文化祭準備の話で騒がしい時間だった。どの飾りを増やすとか、発表の順番をどうするとか、そういう声が飛び交っているはずだった。

 けれど、その朝は違った。

 みんなが机に座ったまま、スマホを見ていた。
 誰かが小声で笑い、誰かが気まずそうに顔を伏せる。

 教室に入った瞬間、私はわかった。

 何かが、ばらまかれた。

 黒瀬くんは、まだ来ていなかった。

 私は席に向かいながら、震える手でスマホを開く。クラスのグループチャットに、知らないアカウントから画像が貼られていた。

 昨日、私に送られてきたものと同じだった。

《黒瀬律は、親友を売った嘘つき》

 古い投稿のスクリーンショット。
 その下に、短い文章が添えられている。

《今も同じ。藤咲をかばってるふりをして、自分だけいい人になろうとしてる》

 息が、うまく吸えなかった。

「これ、本当なの?」

「黒瀬って中学のときからそんな感じだったんだ」

「まあ、嘘つきって言われてるしね」

 小さな声が、教室のあちこちでこぼれる。

 違う。

 そう思った。
 でも、声は出ない。

 私だけは、知っている。
 黒瀬くんが親友を売ったんじゃないこと。
 誰かを守ろうとして、自分が悪者になったこと。

 知っているのに、言えない。

 喉の奥に、昨日よりも重い鍵がかかっていた。

「おはよー。今日も世界は俺中心に回ってる?」

 教室のドアが開いて、黒瀬くんが入ってきた。

 その瞬間、空気が固まる。

 みんなの視線が、一斉に彼に向いた。
 黒瀬くんは一瞬だけ足を止めた。

 気づいたのだと思う。
 何が起きたのか。

 でも、すぐにいつもの笑顔を作った。

「あれ、何? 俺、ついに芸能人デビューした?」

 誰も笑わなかった。

 黒瀬くんは自分の席に向かいながら、スマホを取り出す。画面を見る。貼られた画像を見る。少しだけ目を伏せる。

 その一瞬を、私は見逃さなかった。

 痛い。
 そんな顔だった。

 けれど、次に顔を上げたときには、もう笑っていた。

「懐かしいなー。俺の黒歴史展覧会じゃん。入場料取ればよかった」

「黒瀬」

 美月さんが低い声で呼んだ。

「これ、本当なの?」

 黒瀬くんは肩をすくめた。

「半分くらい?」

「何それ」

「世の中、白か黒だけじゃないってこと」

 クラスの空気がざわつく。

「そうやってまたごまかすんだ」

 誰かが言った。

「昨日も藤咲さんをかばってたけど、本当に何か知ってるんじゃないの?」

「黒瀬が関わってる可能性もあるよね」

 言葉が、次々に黒瀬くんへ向かっていく。

 私は立ち上がりかけた。

 でも、足が震えた。
 何をすればいいのかわからない。

 スマホを握る。
 文字を打つ。

《違う》

 たった二文字。

 でも、それを誰に見せればいいのか。
 誰が読んでくれるのか。

 黒瀬くんは、私の方を見なかった。

「はいはい。俺は怪しいです。嘘つきだし、存在が不審だし、昨日も焼きそばパン買えてないし」

 またふざける。

 その笑顔が、見ていられなかった。

 ホームルームが終わっても、空気は戻らなかった。神崎先生は「憶測で人を責めないように」と言ったけれど、流れ出した噂は止まらない。

 休み時間、黒瀬くんはいつものように席で笑っていた。
 誰かに「親友を売ったって本当?」と聞かれても、「俺、売れるものはだいたい売るタイプだから」と冗談で返した。

 でも、私にはわかる。

 彼は、逃げている。

 昼休み、私は黒瀬くんを廊下に呼び出した。

 声は出ない。
 だから、彼の机にスマホの画面を見せた。

《少し話したい》

 黒瀬くんは私の画面を見て、いつもの軽い顔で立ち上がった。

「告白?」

 私は首を振る。

「違うか。残念」

 その冗談にも、私は笑えなかった。

 誰もいない階段の踊り場まで行くと、私はすぐに文字を打った。

《どうして本当のことを言わないの?》

 黒瀬くんは画面を見て、少し黙った。

「言っても信じないだろ」

《私は信じる》

「藤咲は、だろ」

 その言い方に、胸が痛くなる。

「クラス全員に昔話して、何になるんだよ。俺は本当に嘘ついた。そこだけ切り取られたら終わり。誰かを守るためでした、なんて言ったところで、言い訳にしか聞こえない」

《でも、違うことまで信じられる》

「慣れてる」

 黒瀬くんは軽く笑った。

「嘘つきって思われるの、慣れてるから」

 その言葉に、私は強く首を振った。

 慣れてるなんて、嘘だ。

 私はスマホに打つ。

《逃げないで》

 黒瀬くんの表情が、少しだけ変わった。

「逃げてねえよ」

《笑ってる。だから逃げてる》

 画面を見せた瞬間、黒瀬くんの眉がわずかに動いた。

 怒ったのだと思った。

 初めて見る顔だった。

「藤咲に何がわかるんだよ」

 低い声。

 胸がびくっと震える。

「俺が何言っても、結局みんな見たいものしか見ない。嘘つきって札を貼っとけば安心なんだよ。こいつの言うことは信じなくていいって」

 私は何か打とうとした。

 でも、指が動かなかった。

「藤咲はいいよな」

 その言葉に、息が止まった。

「黙ってても、誰かが察してくれる。言えないんですって顔してれば、周りが気をつかってくれる」

 それは違う。

 そう言いたかった。
 でも、言えなかった。

 黒瀬くんも、言った瞬間に自分で傷ついたような顔をした。

 けれど、もう止まれなかったのかもしれない。

「俺は何言っても嘘になる。だったら、笑ってる方が楽なんだよ」

 私は震える指で打った。

《楽じゃない》

 画面を見せる。

 黒瀬くんは見なかった。

「もういい。信じられないなら、無理に一緒にいなくていい」

 そう言って、階段を下りていく。

 私は追いかけようとした。
 声を出そうとした。

 黒瀬くん。

 名前を呼びたかった。

 でも、喉は閉じたままだった。

 開いた口から、何も出ない。

 彼の背中が、角を曲がって見えなくなる。

 私は階段の手すりを握ったまま、立ち尽くした。

 午後の授業中も、胸の奥が痛かった。

 黒瀬くんの「藤咲はいいよな」という言葉が、何度も戻ってくる。

 よくない。
 黙っていることで、気をつかわれることもある。けれど、それ以上に、勝手に決めつけられる。

 言いたいことがないと思われる。
 怒っていないと思われる。
 傷ついていないと思われる。

 でも、黒瀬くんも同じなのだ。

 笑っているから平気だと思われる。
 嘘つきだから傷つかないと思われる。
 何を言っても冗談にされる。

 私たちは似ている。

 だからこそ、いちばん触られたくない傷を、互いに刺してしまった。

 放課後、黒瀬くんは教室にいなかった。

 私は一人で共有パソコンのある教室へ向かった。今日は文化祭のリハーサル前日で、先生から許可をもらえば、保存されたデータの確認ができることになっていた。

 神崎先生は職員室で他の先生と打ち合わせをしていて、「パソコンを触るなら、必ず記録を残してね」と言った。私はうなずき、教室に戻った。

 そこには、航くんがいた。

 パソコンの前に座り、何かを確認している。私が入ると、彼は驚いたように顔を上げた。

「藤咲さん」

 その声は少し高かった。

 私は軽く頭を下げる。

「データ、確認しに来たの?」

 私はうなずいた。

 航くんは椅子から立ち上がる。

「先生には言ってある?」

 もう一度うなずく。

「そっか」

 航くんは笑った。
 でも、その笑い方はぎこちなかった。

 彼が教室を出ていったあと、私は共有パソコンの前に座った。昨日見つかった《voice_00》のフォルダを開く。映像の一部、音声ファイル、仮のテロップデータ。

 完全版ではない。

 でも、私はふと、更新履歴の欄に目を止めた。

 作成者のアカウント名。

 そこには、佐倉紗奈さんの名前が表示されていた。

 紗奈さん。

 やっぱり、と思いかけて、私は手を止めた。

 昨日、紗奈さんは職員室で先生と話していたはずだ。データが移された時間帯と、紗奈さんが職員室にいた時間が重なるなら、彼女本人が操作したとは限らない。

 私は神崎先生に確認するため、職員室へ行った。

 声では聞けない。
 だから、スマホに用件を打って見せる。

《昨日のデータが移された時間に、佐倉さんは職員室にいましたか?》

 神崎先生は少し驚いた顔をしたが、出席簿の横にあるメモを確認してくれた。

「佐倉さん? うん、その時間はたしかに職員室にいたよ。文化祭委員の確認で、十五分くらい話していたから」

 やっぱり。

 紗奈さんのアカウントを、誰かが使った。

 教室に戻る途中、私は記憶をたどった。

 紗奈さんと同じ文化祭委員。
 委員会でパスワードや共有フォルダの扱いを知る可能性がある人。
 機材やパソコンに詳しい人。

 三井航くん。

 心臓が速くなる。

 航くんは、データが消えたとき「バックアップなんてない」と早く言った。
 《voice_00》が見つかったとき、机を強く握っていた。
 そして今日、私が教室に入ると、パソコンの前にいた。

 でも、まだ足りない。

 証拠がいる。

 私は自分の席に戻り、ノートを開いた。
 航くんの言葉。
 手の動き。
 アカウント。
 時間。

 そして、匿名メッセージ。

《黒瀬律を信じるな》
《あいつは前にも、人を裏切ってる》
《明日、黒瀬律の昔のことをクラス全員にばらす》

 私はその文章を何度も読み返した。

 どこかで見たことがある。

 文の終わり方。
 句読点の少なさ。
 「前にも」という言い方。

 文化祭準備の連絡ノートをめくる。機材班のメモ。航くんが書いた説明文。

《前にも接続不良があったので、予備ケーブルを用意しておきます》

 同じだ。

 「前にも」の使い方。
 短く区切る癖。
 漢字にするところと、ひらがなにするところ。

 もちろん、それだけでは証拠として弱い。
 けれど、つながっていく。

 ひとつひとつの小さな違和感が、一本の線になる。

 私はノートを握りしめた。

 そのとき、教室の後ろから声がした。

「何してるの?」

 航くんだった。

 私は体を固くした。

 航くんはゆっくり近づいてくる。
 いつものおとなしい顔。でも、目だけが落ち着かない。

「藤咲さん、最近、黒瀬といろいろ調べてるよね」

 私はうなずかなかった。

「やめた方がいいよ」

 声が、低くなる。

「黒瀬なんか信じても、いいことないから」

 私はスマホを握る。

《どうして?》

 画面を見せると、航くんは唇を噛んだ。

「だって、あいつは嘘つきだから」

《黒瀬くんの過去を流したのは、三井くん?》

 打ってから、手が震えた。

 航くんの顔から、色が引いた。

 それだけで、答えは出ていた。

「……何言ってるの」

 彼は笑おうとした。
 でも、笑えていなかった。

「証拠あるの?」

 私は答えられなかった。

 航くんは少しだけ息を吐く。

「ないよね。だったら、変なこと言わない方がいいよ。今だって、藤咲さんが疑われてるんだから」

 その言葉に、喉が詰まる。

「黙ってれば、これ以上ひどくならないよ」

 机の中に入っていた紙と同じ言葉だった。

 黙っていれば。

 私は、スマホを強く握った。

 逃げてはいけない。
 そう思うのに、体は動かない。

 航くんは私のノートに目を落とした。

「それ、見せて」

 私は首を振る。

「見せてよ」

 航くんが手を伸ばした瞬間、教室のドアが開いた。

「何してんの」

 黒瀬くんだった。

 息が少しだけ上がっている。走ってきたのかもしれない。
 でも、顔はいつもの軽い笑顔ではなかった。

 航くんはすぐに手を引っ込める。

「別に。藤咲さんと話してただけ」

「へえ。机越しに詰め寄るのが三井流の会話?」

「詰め寄ってない」

「じゃあ、俺の目が悪いんだ。ごめん、視力だけは嘘つかないと思ってた」

 黒瀬くんは私の横に立った。

 私は彼を見上げる。

 昼休みのことが胸に残っていて、うまく顔を見られない。
 でも、彼は小さく言った。

「さっきは悪かった」

 それだけだった。

 その一言だけで、喉の奥の痛みが少し緩む。

 私はスマホに打つ。

《私も》

 黒瀬くんは画面を見て、ほんの少しだけ笑った。
 今度は、薄い笑顔ではなかった。

 航くんは視線をそらす。

「僕、準備があるから」

 そう言って教室を出ていこうとする。

 黒瀬くんが呼び止めた。

「三井」

 航くんが止まる。

「嘘つくなら、最後までちゃんとやれよ」

 航くんの肩が揺れた。

 けれど、振り向かずに出ていった。

 教室に二人きりになると、私はノートを黒瀬くんに見せた。
 紗奈さんのアカウント。
 職員室にいた時間。
 航くんの文体。
 匿名メッセージ。
 さっきの反応。

 黒瀬くんは黙って読んだ。

「三井だな」

《まだ証拠が弱い》

「でも、かなり近い」

《明日のリハで、何かするかもしれない》

「たぶんする」

 黒瀬くんは黒板の方を見た。

「三井がデータを隠した理由、何だと思う?」

 私は少し考えた。

《自分が必要だと思われたかった》

 黒瀬くんが私を見る。

《バックアップを隠して、あとで見つけたふりをするつもりだったのかも》

「ヒーローになりたかったってことか」

 私はうなずく。

 航くんは、ずっと機材係だった。
 縁の下の力持ち。
 でも、美月さんのように中心には立てない。

 自分がいなければ困ると、証明したかったのかもしれない。

「わかる気もするな」

 黒瀬くんがぽつりと言った。

 私は彼を見る。

「誰かに必要だって思われたいのって、たぶんそんなに変なことじゃない」

 その声は、少しだけ寂しかった。

「でも、誰かを傷つけてやることじゃない」

 私は画面に打つ。

《うん》

 翌日。
 文化祭前日のリハーサル。

 体育館での通し練習の前に、教室で最終確認をすることになった。先生も来る予定だったが、別クラスのトラブルで少し遅れていた。

 教室には、三組のほとんどの生徒がいた。

 美月さんは新しく作り直した映像データを確認している。
 航くんは、その隣でパソコンを操作していた。

「実は、昨日の夜、古いバックアップを見つけたんだ」

 航くんが言った。

 クラスがざわめく。

「本当?」

「どこにあったの?」

「これで間に合う?」

 航くんは少し照れたように笑う。

「機材用の一時保存フォルダに残ってた。完全版に近いと思う。僕が確認しておいたから」

 美月さんの顔がぱっと明るくなる。

「本当に? 三井くん、すごい!」

 その瞬間、私は見た。

 航くんの口元が、ほんの少しだけ上がる。
 でも、目は笑っていない。
 ほっとしている。
 やっと自分が見てもらえる、という顔だった。

 黒瀬くんが私の隣に立つ。

「来たな」

 私はうなずいた。

 今だ。

 そう思った。

 でも、足が動かない。

 教室中が航くんを見ている。
 美月さんは救われたような顔をしている。
 ここで私が止めなければ、航くんはヒーローになる。

 そして、私と黒瀬くんへの疑いは、うやむやのまま残る。

 私は立ち上がった。

 椅子の音が、教室に響く。

 みんながこちらを見る。

 喉が、一瞬で閉じた。

「藤咲さん?」

 美月さんが言う。

「何?」

 声が出ない。

 息が浅い。
 手が震える。
 視界の端が白くなる。

 言わなきゃ。
 伝えなきゃ。

 でも、何も出ない。

「また黙ってるの?」

 美月さんの声に、悪意はなかったのかもしれない。
 でも、その一言で、膝が崩れそうになった。

 そのとき、隣で声がした。

「黙ってるんじゃない」

 黒瀬くんだった。

 彼は私の一歩横に立った。

「言葉を探してるんだよ」

 教室が静まる。

 黒瀬くんは私を見た。

「藤咲。声じゃなくていい」

 その声は、まっすぐだった。

「お前が見たことを書け」

 私は彼を見上げた。

 昼休み、彼は私を傷つけた。
 私も、彼を傷つけた。

 でも今、彼は逃げずに隣にいる。

 私も逃げない。

 私は震える手で、黒板の前に立った。
 チョークを持つ。
 指がうまく動かない。

 それでも、書いた。

《データは消されたのではなく、移動されていました》

 教室がざわつく。

 続けて書く。

《移動先のフォルダは、佐倉さんのアカウントで作られていました》

 紗奈さんが目を見開く。

「私、やってない」

 その声は震えていた。

 私はうなずいて、次を書いた。

《でも、その時間、佐倉さんは職員室にいました。先生が確認できます》

 紗奈さんの顔に、安堵が広がる。

 私はさらに書く。

《つまり、誰かが佐倉さんのアカウントを使いました》

 航くんの顔がこわばる。

「それ、僕と何の関係があるの」

 声が少し上ずっていた。

 私は振り返らず、黒板に書いた。

《バックアップの場所を知っていたのは、機材管理をしていた人です》

 航くんが笑う。

「それだけで僕を疑うの? ひどくない?」

 教室が揺れる。

 私はまた喉が苦しくなる。
 みんなの視線が痛い。

 でも、黒瀬くんが言った。

「続けて」

 短い言葉。
 それだけで、私は次の一文字を書けた。

《匿名メッセージの文体が、三井くんの連絡ノートの文章と似ています》

「そんなの、こじつけだよ!」

 航くんが声を荒げた。

「文体が似てるとか、そんなので犯人扱いするの? 藤咲さん、自分が疑われたからって、今度は僕を疑うの?」

 その言葉が、刺さった。

 私はチョークを握ったまま固まる。

 そのとき、黒瀬くんが一歩前に出た。

「三井」

「何だよ」

「嘘つくとき、左手で右の袖をつかむ癖、出てる」

 航くんがはっとして、自分の手を見る。

 たしかに、彼は右の袖口を強く握っていた。

「それ、昨日もやってた。バックアップって言葉が出たとき。今日、藤咲が立ったときも」

「偶然だろ」

「じゃあ、今すぐ手、離せよ」

 航くんは動けなかった。

 黒瀬くんの声が、静かに続く。

「嘘つくなら、最後までちゃんとやれって言っただろ」

 教室が息をのむ。

 航くんの顔が歪んだ。

「……僕は」

 声が震える。

「壊すつもりじゃなかった」

 その一言で、すべてが崩れた。

 美月さんが呆然とする。

「三井くん……?」

「本当に、壊すつもりじゃなかったんだ。少し隠して、みんなが困ったところで、僕が見つけたって言えば……」

 航くんは俯いた。

「そしたら、少しは必要だって思われるかなって」

 誰も何も言わなかった。

「ずっと、美月さんばっかり中心だった。僕も頑張ってたのに、誰も見てくれなかった。機材とか、保存とか、地味なことばっかりで……」

 航くんの声が崩れていく。

「でも、藤咲さんが疑われて、黒瀬が調べ始めて、怖くなって。だから、二人を引き離そうと思って……」

 私はチョークを置いた。

 怒りより先に、胸が苦しくなった。

 航くんも、見てほしかったのだ。

 でも。

 私は黒板に、最後の一文を書いた。

《でも、誰かを傷つけて自分を見てもらうのは違う》

 航くんはそれを見て、唇を震わせた。

「……ごめん」

 小さな声だった。

 神崎先生が教室に入ってきたのは、その直後だった。先生は状況を聞き、航くんを職員室へ連れていった。リハーサルは一時中断になったが、データは無事に戻り、発表は予定通り行えることになった。

 教室に残ったみんなは、しばらく何も言えずにいた。

 美月さんが私の方に来た。

「藤咲さん」

 私は体を固くする。

 美月さんは深く頭を下げた。

「疑って、ごめん」

 私は慌てて首を振る。

 すぐにスマホを出して打った。

《私も、ちゃんと伝えられなくてごめん》

 美月さんはその画面を見て、泣きそうな顔になった。

「ちゃんと伝わったよ。今日、すごかった」

 その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。

 でも、私が振り返ったとき、隣にいるはずの黒瀬くんがいなかった。

 教室のドアが、少しだけ揺れている。

 私はすぐに廊下へ出た。

 黒瀬くんは、階段の踊り場にいた。

 背中を丸めて、手すりに片手をついている。
 肩が、わずかに震えていた。

 近づいて、私は足を止めた。

 彼は泣いていた。

 声を殺して。
 誰にも見られない場所で。

 私の声になってくれた君は、自分の痛みだけは誰にも聞かせなかった。