嘘つきな君と、声の出ない私

 その夜、私は何度もスマホの画面を見た。

《黒瀬律は、親友を売った嘘つき》

 古い投稿は、もうほとんど動いていないアカウントに残っていた。誰が書いたのかもわからない。詳しい経緯も書かれていない。ただ、短い悪意だけが、時間が経っても消えずに残っている。

 親友を売った。

 その言葉が、胸の奥に引っかかった。

 黒瀬くんは嘘つきだ。

 それはクラスのみんなが言っている。本人も、自分でそう言う。けれど、私をかばったときの声は、嘘には聞こえなかった。

 言葉ではなく、手を見ればいい。

 黒瀬くんはそう言った。
 嘘は、言葉より先に体に出る、と。

 だったら、私が見てきた黒瀬くんの手はどうだったのだろう。

 ふざけた嘘をつくとき、彼は軽く笑う。
 でも、自分の過去に触れられそうになると、右手に力が入る。目が一瞬だけ伏せられる。笑顔が、紙みたいに薄くなる。

 それは、嘘をついているからなのか。
 それとも、本当のことを隠しているからなのか。

 翌朝、教室に入ると、黒瀬くんはすでに自分の席にいた。机に頬杖をついて、隣の男子に何か話している。

「だからさ、昨日うちの風呂場にペンギンがいたんだって」

「また嘘じゃん」

「いや、あれはペンギンだった。たぶん前世が」

「前世なら何でもありかよ」

 周りは笑っていた。

 私はその笑い声の中で、黒瀬くんを見た。

 いつも通りに見える。
 いつも通り、軽くて、適当で、誰にも本気にされない。

 黒瀬くんがこちらに気づいた。

「おはよう、声なし探偵」

 声をかけられた瞬間、胸が小さく跳ねる。

 私はスマホを出しかけて、やめた。
 かわりに、小さく頭を下げる。

 黒瀬くんは少しだけ首を傾げた。

 たぶん、私の様子がいつもと違うことに気づいたのだと思う。

「何かあった?」

 すぐに聞かれて、私は固まった。

 どうして、そういうところだけ鋭いのだろう。

 私はスマホのメモを開いた。

《昨日、変なメッセージが来た》

 打ってから、少し迷う。

 見せるべきか。
 見せない方がいいのか。

 迷っているうちに、黒瀬くんが小さく息を吐いた。

「見たんだろ。俺の昔のやつ」

 画面を見せる前だった。

 私は顔を上げる。

 黒瀬くんは笑っていた。
 でも、やっぱりその笑顔は薄かった。

「親友を売った嘘つき、ってやつ」

 胸がぎゅっと縮む。

 私は何も答えられなかった。
 うなずくことも、首を振ることもできなかった。

 黒瀬くんはそれを肯定と受け取ったらしい。

「まあ、検索すれば出るよな。俺、有名人だから」

 いつもの軽口。

 でも、誰も笑っていない。
 私も笑えない。

 朝の教室は騒がしいのに、私たちの周りだけ音が薄くなった気がした。

 ホームルームが始まる直前だったので、それ以上は話せなかった。黒瀬くんは何事もなかったように前を向いた。私は席に着き、ノートを開いた。

 けれど、授業の内容はほとんど頭に入ってこなかった。

 昼休みになると、黒瀬くんは私の机の横に来た。

「屋上前の階段、行く?」

 私はうなずいた。

 屋上は普段鍵がかかっている。けれど、その手前の踊り場は人が少ない。窓から校庭が見えて、昼休みでも少しだけ静かだった。

 階段に並んで座ると、黒瀬くんはパンの袋を開けた。

「で、何から聞きたい?」

 私はスマホを握ったまま、すぐには打てなかった。

 聞きたいことはある。
 でも、聞いていいのかわからない。

 黒瀬くんが先に言った。

「俺、親友を売ったってことになってるけど、半分は本当」

 私は息をのむ。

「半分は、嘘」

 彼はパンを一口かじった。
 いつもならくだらない感想を言いそうなのに、今日は何も言わなかった。

「中学のとき、友達がいたんだ。拓真ってやつ。真面目で、優しくて、でもちょっと不器用でさ。先生に目をつけられやすかった」

 黒瀬くんの声は、思っていたより落ち着いていた。

「その先生、表ではいい先生だった。保護者受けもよくて、部活も熱心で。でも、気に入らない生徒にはきつかった。みんなの前では冗談っぽく言うんだよ。『お前は本当に使えないな』とか、『また失敗したのか』とか。笑いながら」

 私は指先に力を入れた。

 笑いながら傷つける人を、私は知っている。

「拓真は、だんだん学校に来るのがしんどくなった。でも、誰にも言えなかった。言ったら大げさだって思われるから」

 黒瀬くんは窓の外を見る。

「ある日、教室の備品が壊れた。先生が大事にしてた展示用の模型。壊したのは拓真だった。わざとじゃない。先生にまた責められて、手が震えて、落としただけ」

 私は、そこまで聞いてわかってしまった気がした。

 黒瀬くんが、何をしたのか。

「俺がやったって言った」

 やっぱり、と思った。

「なんでそんな嘘ついたのかって、今なら自分でも思う。先生に怒られるくらいで済むと思ったんだよ。俺は普段からふざけてたし、怒られ慣れてたし。拓真がこれ以上責められるより、俺が怒られた方がいいって」

 黒瀬くんは少し笑った。

「でも、思ったより大ごとになった。弁償とか、保護者呼び出しとか、内申とか。先生は俺がやったってことにした方が都合よかったんだろうな。普段から問題ある生徒が壊しました、で終わるから」

 私はスマホに打った。

《拓真くんは?》

 黒瀬くんは、少しだけ黙った。

「何も言わなかった」

 その沈黙が、答えだった。

「俺も最初は、それでいいと思ってた。拓真を守るためについた嘘だから。でも、噂って勝手に増えるんだよ。俺が先生に逆恨みして壊したとか、拓真に罪をなすりつけようとして失敗したとか、いろいろ」

 窓の外で、サッカーボールを蹴る音がした。

「そのうち、拓真が転校した。最後まで本当のことは言わなかった」

 私は画面に打つ。

《黒瀬くんは悪くない》

 見せると、黒瀬くんは少し困った顔をした。

「いや、嘘ついたのは本当だから」

《誰かを守るためだった》

「でも、誰も守れなかった」

 その言葉に、私は何も打てなくなった。

 黒瀬くんはパンの袋を丸めた。

「嘘ってさ、ついた瞬間は誰かを助けられる気がするんだ。でも、そのあと、どこまでが本当だったのかわからなくなる。俺が拓真を守りたかったのは本当。でも、俺が勝手に守った気になって、拓真の本当を言う機会まで奪ったのかもしれない」

 私は黒瀬くんの横顔を見た。

 嘘つき。

 その言葉は、彼を軽くするためのあだ名なんかじゃなかった。
 ずっと背負わされてきた、重い札みたいなものだった。

《それでも、裏切りじゃない》

 私はそう打った。

 黒瀬くんは画面を見て、しばらく動かなかった。

 そして、ぽつりと言う。

「藤咲ってさ」

 私は首を傾げる。

「声は出ないのに、たまにすごいこと言うよな」

 胸が少し熱くなった。

 私は慌てて画面を見るふりをした。

 そのあと、黒瀬くんが聞いた。

「藤咲は? なんで声、出なくなったの」

 心臓が一度、強く鳴った。

 いつか聞かれるかもしれないとは思っていた。
 でも、こんなふうにまっすぐ聞かれると、準備していたはずの言葉が散らばってしまう。

「無理に言わなくていい」

 黒瀬くんがすぐに言った。

「でも、俺だけ話すのも不公平だし。話せる範囲で」

 話せる範囲。

 その言い方が、少しだけ優しかった。

 私はスマホを両手で持ち、ゆっくり打った。

《中学のとき、友達がいじめられてた》

 黒瀬くんは黙って画面を見ていた。

《その子は、いつも笑ってた。でも、本当はつらそうだった。私は先生に言った》

 文字を打つ指が重くなる。

《でも、その子は否定した。そんなことないって。私の勘違いだって》

 あの日の教室を、まだ覚えている。

 先生に呼ばれた小さな部屋。
 向かいに座る友達。
 彼女の膝の上で握られた手。
 私を見ない目。

 私は助けたかった。
 でも、彼女は助けてと言わなかった。

《それから、私が嘘をついたみたいになった》

 クラスの空気が変わった。

 余計なことを言う子。
 被害妄想の強い子。
 人間関係を壊した子。

 そんなふうに見られるようになった。

《本当のことを言おうとすると、声が出なくなった》

 打ち終えたとき、指先が冷たくなっていた。

 黒瀬くんは、何も言わなかった。
 慰めも、励ましも、かわいそうも言わなかった。

 それが、ありがたかった。

 しばらくして、黒瀬くんが小さく言う。

「俺たち、真逆みたいで似てるな」

 私は画面に打つ。

《本当のことを言ったのに、信じてもらえなかった》

 黒瀬くんが続ける。

「俺は嘘をついたのに、本当の気持ちは誰にも見てもらえなかった」

 風が、階段の窓を少し鳴らした。

 私はその音を聞きながら、初めて思った。

 この人は、私と同じ場所に立っているのかもしれない。

 声が出ない私と、嘘つきな君。
 正反対に見えて、同じ傷を持っている。

 昼休みが終わるチャイムが鳴るまで、私たちはそこにいた。

 教室に戻ると、文化祭準備の空気はさらに張りつめていた。データが見つからないせいで、発表内容を作り直す案まで出始めている。

 美月さんは黒板に新しいスケジュールを書きながら、何度もため息をついていた。航くんはパソコンの前に座り、何かを調べている。紗奈さんは担任と話していた。

 私は自分の席に座りながら、昨日からのことをノートにまとめた。

 データは削除されたのか。
 移動されたのか。
 バックアップは本当に消えたのか。

 黒瀬くんが私のノートをのぞき込む。

「字、きれい」

 私はスマホに打つ。

《見ないで》

「ごめん。でも探偵の捜査ノートっぽい」

《探偵じゃない》

「じゃあ、バディの作戦ノート」

 バディ。

 その言葉に、少しだけ胸がくすぐったくなる。

 黒瀬くんは、私のノートの端を指さした。

「この『透明な声』って、発表テーマだよな」

 私はうなずく。

「この名前、誰が出したんだっけ」

 私は記憶を探った。

 最初の話し合い。
 いくつか出たテーマ案。
 誰かが言った「透明な声」という言葉。

 たしか。

《紗奈さん》

 私は打った。

「佐倉?」

《うん。声にならない気持ちをテーマにしたいって》

 黒瀬くんは少し考え込んだ。

「共有フォルダの中、もう一回見られる?」

 放課後、担任の許可をもらい、私たちは共有パソコンを確認した。神崎先生も一緒だったので、勝手なことはできない。けれど、フォルダの履歴を見ることは許された。

 美月さんも横にいた。
 航くんも「機材の確認なら」と言って近くに立っていた。
 紗奈さんは委員会があると言って、少し遅れて来る予定だった。

 黒瀬くんが、先生に確認しながらフォルダ一覧を開く。

「削除履歴は?」

「ごみ箱には残ってないですね」

 先生が画面を見ながら言う。

 航くんが口を挟んだ。

「やっぱり完全に消されたんじゃないですか」

 その声が、少し早かった。

 私は航くんを見る。
 彼は画面ではなく、黒瀬くんの手元を見ていた。

 黒瀬くんは聞いていないふりをして、検索窓に文字を入れた。

 透明な声。

 何も出ない。

 次に、ひらがなで「とうめい」。
 それでも出ない。

 そのとき、美月さんがぽつりと言った。

「古い共有フォルダ、去年の文化祭用のところも検索できる?」

「去年?」

「前に間違って、去年のフォルダに保存しちゃった人がいたから」

 先生が操作して、別階層のフォルダを開く。

 そこには、過去の文化祭資料がいくつも残っていた。

 二年三組。
 仮保存。
 音源。
 旧案。

 その中に、一つだけ見覚えのないフォルダがあった。

《voice_00》

 作成日時は、データが消えた日の夜。

 教室の空気が止まった。

 先生がフォルダを開く。

 中には、消えたはずの映像データの一部が入っていた。完全版ではない。けれど、冒頭部分と音声ファイルが残っている。

「これ……!」

 美月さんが息をのむ。

「やっぱり消えてなかった」

 黒瀬くんが小さく言った。

 航くんの手が、机の端をつかむ。
 強く、白くなるほど。

 私はそれを見逃せなかった。

 先生はすぐに職員室へ連絡すると言い、データを保護する作業に入った。美月さんは泣きそうな顔で画面を見ていた。

「全部じゃないけど、少しでも残っててよかった……」

 その声は本物に聞こえた。

 黒瀬くんが私の横に来る。

「これで、藤咲が消したって線は薄くなった」

 私は小さく息を吐いた。

 けれど、安心はできなかった。

 なぜなら、まだわからないことがある。

 誰がデータを移したのか。
 なぜ全部ではなく、一部だけを残したのか。
 そして、どうして去年のフォルダに入れたのか。

 黒瀬くんが黒板の方を見るような目で、何かを考えていた。

「『透明な声』って言葉を最初に出したのは佐倉。でもフォルダ名は英語。voice_00。これ、テーマを知ってる人なら誰でも思いつく」

《紗奈さんが怪しい?》

「まだわかんない」

《航くん、手が白くなるくらい机を握ってた》

「見てた」

 黒瀬くんは低い声で言った。

「三井、かなり反応してる」

《でも、証拠じゃない》

「うん。反応は証拠じゃない」

 その言葉に、私は少し安心した。

 黒瀬くんは、誰かをすぐ犯人にしない。
 自分が決めつけられてきた人だからかもしれない。

 作業が終わり、下校時間ぎりぎりになった。

 私は鞄を持って教室を出ようとした。すると、廊下の向こうから紗奈さんが歩いてきた。委員会が長引いたのか、少し急いでいる。

「データ、見つかったって本当?」

 紗奈さんが美月さんに聞いた。

「一部だけだけどね。去年のフォルダに入ってた」

 美月さんが答える。

 その瞬間、紗奈さんの表情がわずかに変わった。

 驚き。
 それから、ほんの少しの恐れ。

「去年のフォルダ……」

 紗奈さんはそうつぶやき、すぐに口を閉じた。

 私はその顔を見た。

 何か知っている。

 そう思った。

 けれど、紗奈さんはすぐにいつもの委員長の顔に戻った。

「よかった。明日、先生にも詳しく聞いてみるね」

 そう言って、職員室の方へ向かっていく。

 黒瀬くんが隣で小さく言った。

「佐倉も反応したな」

 私はうなずいた。

 その日の夜。

 家に帰ってからも、私はノートを開いていた。
 美月さん。航くん。紗奈さん。黒瀬くん。
 それぞれの言葉と、表情と、手の動きを書き出す。

 母が部屋のドアを少し開けて、「ごはん、置いておくね」と言った。私は小さく「うん」と返した。家では、声が出る。

 でも、明日教室で同じように言えるかはわからない。

 スマホが震えた。

 黒瀬くんからだった。

《今日の捜査、おつかれ。声なし探偵、けっこう優秀》

 私は少し迷ってから返信した。

《黒瀬くんも、少しだけ優秀》

 すぐに返事が来た。

《少しだけ!? 俺、相棒なのに?》

 相棒。

 その文字を見て、胸が少し温かくなった。

 そのとき、また別の通知が届いた。

 知らないアカウント。

 嫌な予感がした。

《明日、黒瀬律の昔のことをクラス全員にばらす》

 手の中のスマホが、急に重くなる。

 続けて、もう一通。

《それでも、あいつを信じる?》

 私は画面を見つめたまま、動けなかった。

 黒瀬くんが嘘をつく理由を、今日、少しだけ知った。
 誰かを守ろうとして、誰にも信じてもらえなくなったことも。

 だからこそ、怖かった。

 また彼が、みんなの前で嘘つきにされる。
 また彼が、笑ってごまかす。

 その未来が、はっきり見えた気がした。

 私は震える指で、黒瀬くんとのトーク画面を開く。

 でも、何も打てなかった。

 言葉はある。
 伝えたいこともある。

 けれど、明日、教室で本当に彼の隣に立てるのか。

 声が出ない私に、何ができるのか。

 画面の中で、さっき送った言葉が光っている。

《黒瀬くんも、少しだけ優秀》

 その下に、彼の返事。

《少しだけ!? 俺、相棒なのに?》

 私はゆっくり息を吸った。

 相棒。

 まだ仮免かもしれない。
 まだ最強にはほど遠いかもしれない。

 それでも、私たちは同じ傷を持っている。

 嘘と沈黙でできた、同じ傷を。

 私はスマホに、一文だけ打った。

《明日、何があっても逃げないで》

 送信ボタンを押す。

 すぐには返事が来なかった。

 数分後、画面が震える。

《それ、俺の台詞じゃない?》

 そのあとに、もう一通。

《了解。相棒》

 私はスマホを胸に押し当てた。

 声は出なかった。
 でも、心の中でだけ、小さく言った。

 私も逃げない。