その夜、私は何度もスマホの画面を見た。
《黒瀬律は、親友を売った嘘つき》
古い投稿は、もうほとんど動いていないアカウントに残っていた。誰が書いたのかもわからない。詳しい経緯も書かれていない。ただ、短い悪意だけが、時間が経っても消えずに残っている。
親友を売った。
その言葉が、胸の奥に引っかかった。
黒瀬くんは嘘つきだ。
それはクラスのみんなが言っている。本人も、自分でそう言う。けれど、私をかばったときの声は、嘘には聞こえなかった。
言葉ではなく、手を見ればいい。
黒瀬くんはそう言った。
嘘は、言葉より先に体に出る、と。
だったら、私が見てきた黒瀬くんの手はどうだったのだろう。
ふざけた嘘をつくとき、彼は軽く笑う。
でも、自分の過去に触れられそうになると、右手に力が入る。目が一瞬だけ伏せられる。笑顔が、紙みたいに薄くなる。
それは、嘘をついているからなのか。
それとも、本当のことを隠しているからなのか。
翌朝、教室に入ると、黒瀬くんはすでに自分の席にいた。机に頬杖をついて、隣の男子に何か話している。
「だからさ、昨日うちの風呂場にペンギンがいたんだって」
「また嘘じゃん」
「いや、あれはペンギンだった。たぶん前世が」
「前世なら何でもありかよ」
周りは笑っていた。
私はその笑い声の中で、黒瀬くんを見た。
いつも通りに見える。
いつも通り、軽くて、適当で、誰にも本気にされない。
黒瀬くんがこちらに気づいた。
「おはよう、声なし探偵」
声をかけられた瞬間、胸が小さく跳ねる。
私はスマホを出しかけて、やめた。
かわりに、小さく頭を下げる。
黒瀬くんは少しだけ首を傾げた。
たぶん、私の様子がいつもと違うことに気づいたのだと思う。
「何かあった?」
すぐに聞かれて、私は固まった。
どうして、そういうところだけ鋭いのだろう。
私はスマホのメモを開いた。
《昨日、変なメッセージが来た》
打ってから、少し迷う。
見せるべきか。
見せない方がいいのか。
迷っているうちに、黒瀬くんが小さく息を吐いた。
「見たんだろ。俺の昔のやつ」
画面を見せる前だった。
私は顔を上げる。
黒瀬くんは笑っていた。
でも、やっぱりその笑顔は薄かった。
「親友を売った嘘つき、ってやつ」
胸がぎゅっと縮む。
私は何も答えられなかった。
うなずくことも、首を振ることもできなかった。
黒瀬くんはそれを肯定と受け取ったらしい。
「まあ、検索すれば出るよな。俺、有名人だから」
いつもの軽口。
でも、誰も笑っていない。
私も笑えない。
朝の教室は騒がしいのに、私たちの周りだけ音が薄くなった気がした。
ホームルームが始まる直前だったので、それ以上は話せなかった。黒瀬くんは何事もなかったように前を向いた。私は席に着き、ノートを開いた。
けれど、授業の内容はほとんど頭に入ってこなかった。
昼休みになると、黒瀬くんは私の机の横に来た。
「屋上前の階段、行く?」
私はうなずいた。
屋上は普段鍵がかかっている。けれど、その手前の踊り場は人が少ない。窓から校庭が見えて、昼休みでも少しだけ静かだった。
階段に並んで座ると、黒瀬くんはパンの袋を開けた。
「で、何から聞きたい?」
私はスマホを握ったまま、すぐには打てなかった。
聞きたいことはある。
でも、聞いていいのかわからない。
黒瀬くんが先に言った。
「俺、親友を売ったってことになってるけど、半分は本当」
私は息をのむ。
「半分は、嘘」
彼はパンを一口かじった。
いつもならくだらない感想を言いそうなのに、今日は何も言わなかった。
「中学のとき、友達がいたんだ。拓真ってやつ。真面目で、優しくて、でもちょっと不器用でさ。先生に目をつけられやすかった」
黒瀬くんの声は、思っていたより落ち着いていた。
「その先生、表ではいい先生だった。保護者受けもよくて、部活も熱心で。でも、気に入らない生徒にはきつかった。みんなの前では冗談っぽく言うんだよ。『お前は本当に使えないな』とか、『また失敗したのか』とか。笑いながら」
私は指先に力を入れた。
笑いながら傷つける人を、私は知っている。
「拓真は、だんだん学校に来るのがしんどくなった。でも、誰にも言えなかった。言ったら大げさだって思われるから」
黒瀬くんは窓の外を見る。
「ある日、教室の備品が壊れた。先生が大事にしてた展示用の模型。壊したのは拓真だった。わざとじゃない。先生にまた責められて、手が震えて、落としただけ」
私は、そこまで聞いてわかってしまった気がした。
黒瀬くんが、何をしたのか。
「俺がやったって言った」
やっぱり、と思った。
「なんでそんな嘘ついたのかって、今なら自分でも思う。先生に怒られるくらいで済むと思ったんだよ。俺は普段からふざけてたし、怒られ慣れてたし。拓真がこれ以上責められるより、俺が怒られた方がいいって」
黒瀬くんは少し笑った。
「でも、思ったより大ごとになった。弁償とか、保護者呼び出しとか、内申とか。先生は俺がやったってことにした方が都合よかったんだろうな。普段から問題ある生徒が壊しました、で終わるから」
私はスマホに打った。
《拓真くんは?》
黒瀬くんは、少しだけ黙った。
「何も言わなかった」
その沈黙が、答えだった。
「俺も最初は、それでいいと思ってた。拓真を守るためについた嘘だから。でも、噂って勝手に増えるんだよ。俺が先生に逆恨みして壊したとか、拓真に罪をなすりつけようとして失敗したとか、いろいろ」
窓の外で、サッカーボールを蹴る音がした。
「そのうち、拓真が転校した。最後まで本当のことは言わなかった」
私は画面に打つ。
《黒瀬くんは悪くない》
見せると、黒瀬くんは少し困った顔をした。
「いや、嘘ついたのは本当だから」
《誰かを守るためだった》
「でも、誰も守れなかった」
その言葉に、私は何も打てなくなった。
黒瀬くんはパンの袋を丸めた。
「嘘ってさ、ついた瞬間は誰かを助けられる気がするんだ。でも、そのあと、どこまでが本当だったのかわからなくなる。俺が拓真を守りたかったのは本当。でも、俺が勝手に守った気になって、拓真の本当を言う機会まで奪ったのかもしれない」
私は黒瀬くんの横顔を見た。
嘘つき。
その言葉は、彼を軽くするためのあだ名なんかじゃなかった。
ずっと背負わされてきた、重い札みたいなものだった。
《それでも、裏切りじゃない》
私はそう打った。
黒瀬くんは画面を見て、しばらく動かなかった。
そして、ぽつりと言う。
「藤咲ってさ」
私は首を傾げる。
「声は出ないのに、たまにすごいこと言うよな」
胸が少し熱くなった。
私は慌てて画面を見るふりをした。
そのあと、黒瀬くんが聞いた。
「藤咲は? なんで声、出なくなったの」
心臓が一度、強く鳴った。
いつか聞かれるかもしれないとは思っていた。
でも、こんなふうにまっすぐ聞かれると、準備していたはずの言葉が散らばってしまう。
「無理に言わなくていい」
黒瀬くんがすぐに言った。
「でも、俺だけ話すのも不公平だし。話せる範囲で」
話せる範囲。
その言い方が、少しだけ優しかった。
私はスマホを両手で持ち、ゆっくり打った。
《中学のとき、友達がいじめられてた》
黒瀬くんは黙って画面を見ていた。
《その子は、いつも笑ってた。でも、本当はつらそうだった。私は先生に言った》
文字を打つ指が重くなる。
《でも、その子は否定した。そんなことないって。私の勘違いだって》
あの日の教室を、まだ覚えている。
先生に呼ばれた小さな部屋。
向かいに座る友達。
彼女の膝の上で握られた手。
私を見ない目。
私は助けたかった。
でも、彼女は助けてと言わなかった。
《それから、私が嘘をついたみたいになった》
クラスの空気が変わった。
余計なことを言う子。
被害妄想の強い子。
人間関係を壊した子。
そんなふうに見られるようになった。
《本当のことを言おうとすると、声が出なくなった》
打ち終えたとき、指先が冷たくなっていた。
黒瀬くんは、何も言わなかった。
慰めも、励ましも、かわいそうも言わなかった。
それが、ありがたかった。
しばらくして、黒瀬くんが小さく言う。
「俺たち、真逆みたいで似てるな」
私は画面に打つ。
《本当のことを言ったのに、信じてもらえなかった》
黒瀬くんが続ける。
「俺は嘘をついたのに、本当の気持ちは誰にも見てもらえなかった」
風が、階段の窓を少し鳴らした。
私はその音を聞きながら、初めて思った。
この人は、私と同じ場所に立っているのかもしれない。
声が出ない私と、嘘つきな君。
正反対に見えて、同じ傷を持っている。
昼休みが終わるチャイムが鳴るまで、私たちはそこにいた。
教室に戻ると、文化祭準備の空気はさらに張りつめていた。データが見つからないせいで、発表内容を作り直す案まで出始めている。
美月さんは黒板に新しいスケジュールを書きながら、何度もため息をついていた。航くんはパソコンの前に座り、何かを調べている。紗奈さんは担任と話していた。
私は自分の席に座りながら、昨日からのことをノートにまとめた。
データは削除されたのか。
移動されたのか。
バックアップは本当に消えたのか。
黒瀬くんが私のノートをのぞき込む。
「字、きれい」
私はスマホに打つ。
《見ないで》
「ごめん。でも探偵の捜査ノートっぽい」
《探偵じゃない》
「じゃあ、バディの作戦ノート」
バディ。
その言葉に、少しだけ胸がくすぐったくなる。
黒瀬くんは、私のノートの端を指さした。
「この『透明な声』って、発表テーマだよな」
私はうなずく。
「この名前、誰が出したんだっけ」
私は記憶を探った。
最初の話し合い。
いくつか出たテーマ案。
誰かが言った「透明な声」という言葉。
たしか。
《紗奈さん》
私は打った。
「佐倉?」
《うん。声にならない気持ちをテーマにしたいって》
黒瀬くんは少し考え込んだ。
「共有フォルダの中、もう一回見られる?」
放課後、担任の許可をもらい、私たちは共有パソコンを確認した。神崎先生も一緒だったので、勝手なことはできない。けれど、フォルダの履歴を見ることは許された。
美月さんも横にいた。
航くんも「機材の確認なら」と言って近くに立っていた。
紗奈さんは委員会があると言って、少し遅れて来る予定だった。
黒瀬くんが、先生に確認しながらフォルダ一覧を開く。
「削除履歴は?」
「ごみ箱には残ってないですね」
先生が画面を見ながら言う。
航くんが口を挟んだ。
「やっぱり完全に消されたんじゃないですか」
その声が、少し早かった。
私は航くんを見る。
彼は画面ではなく、黒瀬くんの手元を見ていた。
黒瀬くんは聞いていないふりをして、検索窓に文字を入れた。
透明な声。
何も出ない。
次に、ひらがなで「とうめい」。
それでも出ない。
そのとき、美月さんがぽつりと言った。
「古い共有フォルダ、去年の文化祭用のところも検索できる?」
「去年?」
「前に間違って、去年のフォルダに保存しちゃった人がいたから」
先生が操作して、別階層のフォルダを開く。
そこには、過去の文化祭資料がいくつも残っていた。
二年三組。
仮保存。
音源。
旧案。
その中に、一つだけ見覚えのないフォルダがあった。
《voice_00》
作成日時は、データが消えた日の夜。
教室の空気が止まった。
先生がフォルダを開く。
中には、消えたはずの映像データの一部が入っていた。完全版ではない。けれど、冒頭部分と音声ファイルが残っている。
「これ……!」
美月さんが息をのむ。
「やっぱり消えてなかった」
黒瀬くんが小さく言った。
航くんの手が、机の端をつかむ。
強く、白くなるほど。
私はそれを見逃せなかった。
先生はすぐに職員室へ連絡すると言い、データを保護する作業に入った。美月さんは泣きそうな顔で画面を見ていた。
「全部じゃないけど、少しでも残っててよかった……」
その声は本物に聞こえた。
黒瀬くんが私の横に来る。
「これで、藤咲が消したって線は薄くなった」
私は小さく息を吐いた。
けれど、安心はできなかった。
なぜなら、まだわからないことがある。
誰がデータを移したのか。
なぜ全部ではなく、一部だけを残したのか。
そして、どうして去年のフォルダに入れたのか。
黒瀬くんが黒板の方を見るような目で、何かを考えていた。
「『透明な声』って言葉を最初に出したのは佐倉。でもフォルダ名は英語。voice_00。これ、テーマを知ってる人なら誰でも思いつく」
《紗奈さんが怪しい?》
「まだわかんない」
《航くん、手が白くなるくらい机を握ってた》
「見てた」
黒瀬くんは低い声で言った。
「三井、かなり反応してる」
《でも、証拠じゃない》
「うん。反応は証拠じゃない」
その言葉に、私は少し安心した。
黒瀬くんは、誰かをすぐ犯人にしない。
自分が決めつけられてきた人だからかもしれない。
作業が終わり、下校時間ぎりぎりになった。
私は鞄を持って教室を出ようとした。すると、廊下の向こうから紗奈さんが歩いてきた。委員会が長引いたのか、少し急いでいる。
「データ、見つかったって本当?」
紗奈さんが美月さんに聞いた。
「一部だけだけどね。去年のフォルダに入ってた」
美月さんが答える。
その瞬間、紗奈さんの表情がわずかに変わった。
驚き。
それから、ほんの少しの恐れ。
「去年のフォルダ……」
紗奈さんはそうつぶやき、すぐに口を閉じた。
私はその顔を見た。
何か知っている。
そう思った。
けれど、紗奈さんはすぐにいつもの委員長の顔に戻った。
「よかった。明日、先生にも詳しく聞いてみるね」
そう言って、職員室の方へ向かっていく。
黒瀬くんが隣で小さく言った。
「佐倉も反応したな」
私はうなずいた。
その日の夜。
家に帰ってからも、私はノートを開いていた。
美月さん。航くん。紗奈さん。黒瀬くん。
それぞれの言葉と、表情と、手の動きを書き出す。
母が部屋のドアを少し開けて、「ごはん、置いておくね」と言った。私は小さく「うん」と返した。家では、声が出る。
でも、明日教室で同じように言えるかはわからない。
スマホが震えた。
黒瀬くんからだった。
《今日の捜査、おつかれ。声なし探偵、けっこう優秀》
私は少し迷ってから返信した。
《黒瀬くんも、少しだけ優秀》
すぐに返事が来た。
《少しだけ!? 俺、相棒なのに?》
相棒。
その文字を見て、胸が少し温かくなった。
そのとき、また別の通知が届いた。
知らないアカウント。
嫌な予感がした。
《明日、黒瀬律の昔のことをクラス全員にばらす》
手の中のスマホが、急に重くなる。
続けて、もう一通。
《それでも、あいつを信じる?》
私は画面を見つめたまま、動けなかった。
黒瀬くんが嘘をつく理由を、今日、少しだけ知った。
誰かを守ろうとして、誰にも信じてもらえなくなったことも。
だからこそ、怖かった。
また彼が、みんなの前で嘘つきにされる。
また彼が、笑ってごまかす。
その未来が、はっきり見えた気がした。
私は震える指で、黒瀬くんとのトーク画面を開く。
でも、何も打てなかった。
言葉はある。
伝えたいこともある。
けれど、明日、教室で本当に彼の隣に立てるのか。
声が出ない私に、何ができるのか。
画面の中で、さっき送った言葉が光っている。
《黒瀬くんも、少しだけ優秀》
その下に、彼の返事。
《少しだけ!? 俺、相棒なのに?》
私はゆっくり息を吸った。
相棒。
まだ仮免かもしれない。
まだ最強にはほど遠いかもしれない。
それでも、私たちは同じ傷を持っている。
嘘と沈黙でできた、同じ傷を。
私はスマホに、一文だけ打った。
《明日、何があっても逃げないで》
送信ボタンを押す。
すぐには返事が来なかった。
数分後、画面が震える。
《それ、俺の台詞じゃない?》
そのあとに、もう一通。
《了解。相棒》
私はスマホを胸に押し当てた。
声は出なかった。
でも、心の中でだけ、小さく言った。
私も逃げない。
《黒瀬律は、親友を売った嘘つき》
古い投稿は、もうほとんど動いていないアカウントに残っていた。誰が書いたのかもわからない。詳しい経緯も書かれていない。ただ、短い悪意だけが、時間が経っても消えずに残っている。
親友を売った。
その言葉が、胸の奥に引っかかった。
黒瀬くんは嘘つきだ。
それはクラスのみんなが言っている。本人も、自分でそう言う。けれど、私をかばったときの声は、嘘には聞こえなかった。
言葉ではなく、手を見ればいい。
黒瀬くんはそう言った。
嘘は、言葉より先に体に出る、と。
だったら、私が見てきた黒瀬くんの手はどうだったのだろう。
ふざけた嘘をつくとき、彼は軽く笑う。
でも、自分の過去に触れられそうになると、右手に力が入る。目が一瞬だけ伏せられる。笑顔が、紙みたいに薄くなる。
それは、嘘をついているからなのか。
それとも、本当のことを隠しているからなのか。
翌朝、教室に入ると、黒瀬くんはすでに自分の席にいた。机に頬杖をついて、隣の男子に何か話している。
「だからさ、昨日うちの風呂場にペンギンがいたんだって」
「また嘘じゃん」
「いや、あれはペンギンだった。たぶん前世が」
「前世なら何でもありかよ」
周りは笑っていた。
私はその笑い声の中で、黒瀬くんを見た。
いつも通りに見える。
いつも通り、軽くて、適当で、誰にも本気にされない。
黒瀬くんがこちらに気づいた。
「おはよう、声なし探偵」
声をかけられた瞬間、胸が小さく跳ねる。
私はスマホを出しかけて、やめた。
かわりに、小さく頭を下げる。
黒瀬くんは少しだけ首を傾げた。
たぶん、私の様子がいつもと違うことに気づいたのだと思う。
「何かあった?」
すぐに聞かれて、私は固まった。
どうして、そういうところだけ鋭いのだろう。
私はスマホのメモを開いた。
《昨日、変なメッセージが来た》
打ってから、少し迷う。
見せるべきか。
見せない方がいいのか。
迷っているうちに、黒瀬くんが小さく息を吐いた。
「見たんだろ。俺の昔のやつ」
画面を見せる前だった。
私は顔を上げる。
黒瀬くんは笑っていた。
でも、やっぱりその笑顔は薄かった。
「親友を売った嘘つき、ってやつ」
胸がぎゅっと縮む。
私は何も答えられなかった。
うなずくことも、首を振ることもできなかった。
黒瀬くんはそれを肯定と受け取ったらしい。
「まあ、検索すれば出るよな。俺、有名人だから」
いつもの軽口。
でも、誰も笑っていない。
私も笑えない。
朝の教室は騒がしいのに、私たちの周りだけ音が薄くなった気がした。
ホームルームが始まる直前だったので、それ以上は話せなかった。黒瀬くんは何事もなかったように前を向いた。私は席に着き、ノートを開いた。
けれど、授業の内容はほとんど頭に入ってこなかった。
昼休みになると、黒瀬くんは私の机の横に来た。
「屋上前の階段、行く?」
私はうなずいた。
屋上は普段鍵がかかっている。けれど、その手前の踊り場は人が少ない。窓から校庭が見えて、昼休みでも少しだけ静かだった。
階段に並んで座ると、黒瀬くんはパンの袋を開けた。
「で、何から聞きたい?」
私はスマホを握ったまま、すぐには打てなかった。
聞きたいことはある。
でも、聞いていいのかわからない。
黒瀬くんが先に言った。
「俺、親友を売ったってことになってるけど、半分は本当」
私は息をのむ。
「半分は、嘘」
彼はパンを一口かじった。
いつもならくだらない感想を言いそうなのに、今日は何も言わなかった。
「中学のとき、友達がいたんだ。拓真ってやつ。真面目で、優しくて、でもちょっと不器用でさ。先生に目をつけられやすかった」
黒瀬くんの声は、思っていたより落ち着いていた。
「その先生、表ではいい先生だった。保護者受けもよくて、部活も熱心で。でも、気に入らない生徒にはきつかった。みんなの前では冗談っぽく言うんだよ。『お前は本当に使えないな』とか、『また失敗したのか』とか。笑いながら」
私は指先に力を入れた。
笑いながら傷つける人を、私は知っている。
「拓真は、だんだん学校に来るのがしんどくなった。でも、誰にも言えなかった。言ったら大げさだって思われるから」
黒瀬くんは窓の外を見る。
「ある日、教室の備品が壊れた。先生が大事にしてた展示用の模型。壊したのは拓真だった。わざとじゃない。先生にまた責められて、手が震えて、落としただけ」
私は、そこまで聞いてわかってしまった気がした。
黒瀬くんが、何をしたのか。
「俺がやったって言った」
やっぱり、と思った。
「なんでそんな嘘ついたのかって、今なら自分でも思う。先生に怒られるくらいで済むと思ったんだよ。俺は普段からふざけてたし、怒られ慣れてたし。拓真がこれ以上責められるより、俺が怒られた方がいいって」
黒瀬くんは少し笑った。
「でも、思ったより大ごとになった。弁償とか、保護者呼び出しとか、内申とか。先生は俺がやったってことにした方が都合よかったんだろうな。普段から問題ある生徒が壊しました、で終わるから」
私はスマホに打った。
《拓真くんは?》
黒瀬くんは、少しだけ黙った。
「何も言わなかった」
その沈黙が、答えだった。
「俺も最初は、それでいいと思ってた。拓真を守るためについた嘘だから。でも、噂って勝手に増えるんだよ。俺が先生に逆恨みして壊したとか、拓真に罪をなすりつけようとして失敗したとか、いろいろ」
窓の外で、サッカーボールを蹴る音がした。
「そのうち、拓真が転校した。最後まで本当のことは言わなかった」
私は画面に打つ。
《黒瀬くんは悪くない》
見せると、黒瀬くんは少し困った顔をした。
「いや、嘘ついたのは本当だから」
《誰かを守るためだった》
「でも、誰も守れなかった」
その言葉に、私は何も打てなくなった。
黒瀬くんはパンの袋を丸めた。
「嘘ってさ、ついた瞬間は誰かを助けられる気がするんだ。でも、そのあと、どこまでが本当だったのかわからなくなる。俺が拓真を守りたかったのは本当。でも、俺が勝手に守った気になって、拓真の本当を言う機会まで奪ったのかもしれない」
私は黒瀬くんの横顔を見た。
嘘つき。
その言葉は、彼を軽くするためのあだ名なんかじゃなかった。
ずっと背負わされてきた、重い札みたいなものだった。
《それでも、裏切りじゃない》
私はそう打った。
黒瀬くんは画面を見て、しばらく動かなかった。
そして、ぽつりと言う。
「藤咲ってさ」
私は首を傾げる。
「声は出ないのに、たまにすごいこと言うよな」
胸が少し熱くなった。
私は慌てて画面を見るふりをした。
そのあと、黒瀬くんが聞いた。
「藤咲は? なんで声、出なくなったの」
心臓が一度、強く鳴った。
いつか聞かれるかもしれないとは思っていた。
でも、こんなふうにまっすぐ聞かれると、準備していたはずの言葉が散らばってしまう。
「無理に言わなくていい」
黒瀬くんがすぐに言った。
「でも、俺だけ話すのも不公平だし。話せる範囲で」
話せる範囲。
その言い方が、少しだけ優しかった。
私はスマホを両手で持ち、ゆっくり打った。
《中学のとき、友達がいじめられてた》
黒瀬くんは黙って画面を見ていた。
《その子は、いつも笑ってた。でも、本当はつらそうだった。私は先生に言った》
文字を打つ指が重くなる。
《でも、その子は否定した。そんなことないって。私の勘違いだって》
あの日の教室を、まだ覚えている。
先生に呼ばれた小さな部屋。
向かいに座る友達。
彼女の膝の上で握られた手。
私を見ない目。
私は助けたかった。
でも、彼女は助けてと言わなかった。
《それから、私が嘘をついたみたいになった》
クラスの空気が変わった。
余計なことを言う子。
被害妄想の強い子。
人間関係を壊した子。
そんなふうに見られるようになった。
《本当のことを言おうとすると、声が出なくなった》
打ち終えたとき、指先が冷たくなっていた。
黒瀬くんは、何も言わなかった。
慰めも、励ましも、かわいそうも言わなかった。
それが、ありがたかった。
しばらくして、黒瀬くんが小さく言う。
「俺たち、真逆みたいで似てるな」
私は画面に打つ。
《本当のことを言ったのに、信じてもらえなかった》
黒瀬くんが続ける。
「俺は嘘をついたのに、本当の気持ちは誰にも見てもらえなかった」
風が、階段の窓を少し鳴らした。
私はその音を聞きながら、初めて思った。
この人は、私と同じ場所に立っているのかもしれない。
声が出ない私と、嘘つきな君。
正反対に見えて、同じ傷を持っている。
昼休みが終わるチャイムが鳴るまで、私たちはそこにいた。
教室に戻ると、文化祭準備の空気はさらに張りつめていた。データが見つからないせいで、発表内容を作り直す案まで出始めている。
美月さんは黒板に新しいスケジュールを書きながら、何度もため息をついていた。航くんはパソコンの前に座り、何かを調べている。紗奈さんは担任と話していた。
私は自分の席に座りながら、昨日からのことをノートにまとめた。
データは削除されたのか。
移動されたのか。
バックアップは本当に消えたのか。
黒瀬くんが私のノートをのぞき込む。
「字、きれい」
私はスマホに打つ。
《見ないで》
「ごめん。でも探偵の捜査ノートっぽい」
《探偵じゃない》
「じゃあ、バディの作戦ノート」
バディ。
その言葉に、少しだけ胸がくすぐったくなる。
黒瀬くんは、私のノートの端を指さした。
「この『透明な声』って、発表テーマだよな」
私はうなずく。
「この名前、誰が出したんだっけ」
私は記憶を探った。
最初の話し合い。
いくつか出たテーマ案。
誰かが言った「透明な声」という言葉。
たしか。
《紗奈さん》
私は打った。
「佐倉?」
《うん。声にならない気持ちをテーマにしたいって》
黒瀬くんは少し考え込んだ。
「共有フォルダの中、もう一回見られる?」
放課後、担任の許可をもらい、私たちは共有パソコンを確認した。神崎先生も一緒だったので、勝手なことはできない。けれど、フォルダの履歴を見ることは許された。
美月さんも横にいた。
航くんも「機材の確認なら」と言って近くに立っていた。
紗奈さんは委員会があると言って、少し遅れて来る予定だった。
黒瀬くんが、先生に確認しながらフォルダ一覧を開く。
「削除履歴は?」
「ごみ箱には残ってないですね」
先生が画面を見ながら言う。
航くんが口を挟んだ。
「やっぱり完全に消されたんじゃないですか」
その声が、少し早かった。
私は航くんを見る。
彼は画面ではなく、黒瀬くんの手元を見ていた。
黒瀬くんは聞いていないふりをして、検索窓に文字を入れた。
透明な声。
何も出ない。
次に、ひらがなで「とうめい」。
それでも出ない。
そのとき、美月さんがぽつりと言った。
「古い共有フォルダ、去年の文化祭用のところも検索できる?」
「去年?」
「前に間違って、去年のフォルダに保存しちゃった人がいたから」
先生が操作して、別階層のフォルダを開く。
そこには、過去の文化祭資料がいくつも残っていた。
二年三組。
仮保存。
音源。
旧案。
その中に、一つだけ見覚えのないフォルダがあった。
《voice_00》
作成日時は、データが消えた日の夜。
教室の空気が止まった。
先生がフォルダを開く。
中には、消えたはずの映像データの一部が入っていた。完全版ではない。けれど、冒頭部分と音声ファイルが残っている。
「これ……!」
美月さんが息をのむ。
「やっぱり消えてなかった」
黒瀬くんが小さく言った。
航くんの手が、机の端をつかむ。
強く、白くなるほど。
私はそれを見逃せなかった。
先生はすぐに職員室へ連絡すると言い、データを保護する作業に入った。美月さんは泣きそうな顔で画面を見ていた。
「全部じゃないけど、少しでも残っててよかった……」
その声は本物に聞こえた。
黒瀬くんが私の横に来る。
「これで、藤咲が消したって線は薄くなった」
私は小さく息を吐いた。
けれど、安心はできなかった。
なぜなら、まだわからないことがある。
誰がデータを移したのか。
なぜ全部ではなく、一部だけを残したのか。
そして、どうして去年のフォルダに入れたのか。
黒瀬くんが黒板の方を見るような目で、何かを考えていた。
「『透明な声』って言葉を最初に出したのは佐倉。でもフォルダ名は英語。voice_00。これ、テーマを知ってる人なら誰でも思いつく」
《紗奈さんが怪しい?》
「まだわかんない」
《航くん、手が白くなるくらい机を握ってた》
「見てた」
黒瀬くんは低い声で言った。
「三井、かなり反応してる」
《でも、証拠じゃない》
「うん。反応は証拠じゃない」
その言葉に、私は少し安心した。
黒瀬くんは、誰かをすぐ犯人にしない。
自分が決めつけられてきた人だからかもしれない。
作業が終わり、下校時間ぎりぎりになった。
私は鞄を持って教室を出ようとした。すると、廊下の向こうから紗奈さんが歩いてきた。委員会が長引いたのか、少し急いでいる。
「データ、見つかったって本当?」
紗奈さんが美月さんに聞いた。
「一部だけだけどね。去年のフォルダに入ってた」
美月さんが答える。
その瞬間、紗奈さんの表情がわずかに変わった。
驚き。
それから、ほんの少しの恐れ。
「去年のフォルダ……」
紗奈さんはそうつぶやき、すぐに口を閉じた。
私はその顔を見た。
何か知っている。
そう思った。
けれど、紗奈さんはすぐにいつもの委員長の顔に戻った。
「よかった。明日、先生にも詳しく聞いてみるね」
そう言って、職員室の方へ向かっていく。
黒瀬くんが隣で小さく言った。
「佐倉も反応したな」
私はうなずいた。
その日の夜。
家に帰ってからも、私はノートを開いていた。
美月さん。航くん。紗奈さん。黒瀬くん。
それぞれの言葉と、表情と、手の動きを書き出す。
母が部屋のドアを少し開けて、「ごはん、置いておくね」と言った。私は小さく「うん」と返した。家では、声が出る。
でも、明日教室で同じように言えるかはわからない。
スマホが震えた。
黒瀬くんからだった。
《今日の捜査、おつかれ。声なし探偵、けっこう優秀》
私は少し迷ってから返信した。
《黒瀬くんも、少しだけ優秀》
すぐに返事が来た。
《少しだけ!? 俺、相棒なのに?》
相棒。
その文字を見て、胸が少し温かくなった。
そのとき、また別の通知が届いた。
知らないアカウント。
嫌な予感がした。
《明日、黒瀬律の昔のことをクラス全員にばらす》
手の中のスマホが、急に重くなる。
続けて、もう一通。
《それでも、あいつを信じる?》
私は画面を見つめたまま、動けなかった。
黒瀬くんが嘘をつく理由を、今日、少しだけ知った。
誰かを守ろうとして、誰にも信じてもらえなくなったことも。
だからこそ、怖かった。
また彼が、みんなの前で嘘つきにされる。
また彼が、笑ってごまかす。
その未来が、はっきり見えた気がした。
私は震える指で、黒瀬くんとのトーク画面を開く。
でも、何も打てなかった。
言葉はある。
伝えたいこともある。
けれど、明日、教室で本当に彼の隣に立てるのか。
声が出ない私に、何ができるのか。
画面の中で、さっき送った言葉が光っている。
《黒瀬くんも、少しだけ優秀》
その下に、彼の返事。
《少しだけ!? 俺、相棒なのに?》
私はゆっくり息を吸った。
相棒。
まだ仮免かもしれない。
まだ最強にはほど遠いかもしれない。
それでも、私たちは同じ傷を持っている。
嘘と沈黙でできた、同じ傷を。
私はスマホに、一文だけ打った。
《明日、何があっても逃げないで》
送信ボタンを押す。
すぐには返事が来なかった。
数分後、画面が震える。
《それ、俺の台詞じゃない?》
そのあとに、もう一通。
《了解。相棒》
私はスマホを胸に押し当てた。
声は出なかった。
でも、心の中でだけ、小さく言った。
私も逃げない。

