嘘つきな君と、声の出ない私

 紙を握ったまま、私はしばらく動けなかった。

 教室の朝は、いつもより少し騒がしい。窓の外では運動部の朝練の声がして、廊下では誰かの笑い声が跳ねている。昨日、映像データが消えたことなんて、学校全体から見れば小さな事件でしかない。

 でも、私の机の中に入っていた一枚の紙は、世界の音を遠くした。

《黙っていれば、全部あなたのせいで終わるよ》

 字は、わざと乱して書かれているように見えた。角ばっていて、強い筆圧。書いた人の顔はわからない。けれど、言葉だけがまっすぐ私の胸に刺さった。

 黙っているつもりなんかない。
 でも、声が出ない。

 そう言い返せたら、どれだけ楽だろう。

「藤咲」

 後ろから声がして、肩が跳ねた。

 振り向くと、黒瀬律くんが立っていた。片手には紙パックのいちごミルク。朝から甘いものを飲んでいる。

「おはよう。今日も地球は無事に侵略されてる?」

 いつもの軽口だった。けれど、私の手元を見るなり、律くんの目が少しだけ変わった。

「何それ」

 私は紙を隠そうとして、やめた。
 隠しても、きっと何も変わらない。

 紙を差し出す。

 律くんはそれを受け取り、黙って読んだ。読み終えたあと、ふっと笑う。

「人気者じゃん」

 私は睨むつもりで見上げた。

 律くんは両手を軽く上げる。

「ごめん。今のは失言。俺なんか悪口はだいたい本人の前で言われるから、こういう手紙形式はちょっと新鮮で」

 冗談めかしているけれど、声の底は冷えていた。

 律くんは紙をもう一度見る。
 その横顔から、いつものふざけた感じが消えていた。

「これ、犯人かどうかはまだわかんないけど、少なくとも書いたやつは焦ってる」

 私はスマホを取り出して打った。

《どうして?》

「藤咲が黙ってる方が都合いいから。つまり、藤咲が何か言い出すと困る」

《私は何も知らない》

「知らないと思ってるだけかも」

 律くんは紙を机の上に置き、私の席の前にしゃがんだ。目線が同じ高さになる。

「昨日のこと、思い出せるだけ全部書いて。誰がいたか、何を言ったか、変だったこと。どんな小さいことでもいい」

 私はうなずき、スマホのメモを開いた。

 昨日の放課後。
 教室に残っていたのは、美月さん、航くん、紗奈さん、私。途中まで律くんもいたけれど、購買に行った。美月さんは共有パソコンで映像データを確認していた。紗奈さんは鍵のことを気にしていた。航くんは機材を片づけていた。

 私はゆっくり打つ。

《美月さんが、バックアップは大丈夫って言ってた》

「ふん」

《航くんが、そのとき机を指で叩いてた。速かった》

「三井が?」

 律くんは少しだけ眉を上げる。

《緊張してるみたいだった》

「他には?」

《紗奈さんは、先生に鍵のことを確認すると言って出た》

「昨日の最後、教室に残ったのは?」

《たぶん、私だけ》

 打った瞬間、胸が沈んだ。

 それが、疑われる理由だった。

 律くんは、私の画面を見ても顔色を変えなかった。

「なるほど。藤咲が犯人にされるには、ちょうどいい状況だな」

 私は画面に打つ。

《やっぱり私が怪しい?》

「怪しいよ」

 あまりにはっきり言うので、息が止まった。

 律くんは続ける。

「状況だけ見れば。でも、状況が怪しいことと、犯人であることは違う」

 その言い方が、少しだけ先生みたいで、私はまた黙ってしまった。

 朝のホームルームが始まり、担任の神崎先生から、昨日のデータ消失について話があった。

「文化祭準備に関わる大事なことです。誰かを決めつけたり、責めたりするのはやめること。今日の放課後、関係者には一人ずつ話を聞きます」

 先生はそう言ったけれど、教室の空気は簡単には戻らなかった。

 休み時間になるたびに、視線が背中に刺さる。
 誰かが小声で話しているだけで、自分の名前を言われた気がする。

 私はノートを開いたまま、文字を見ているふりをした。

 隣の席の女子が、少し迷ったあと、話しかけてきた。

「藤咲さん、本当に知らないんだよね?」

 声は責めているというより、不安そうだった。

 私はすぐにうなずく。
 でも、その子の表情は晴れない。

「そっか……」

 信じたいけど、信じきれない。
 そんな顔だった。

 言葉があれば、何か変わったのだろうか。
 声が出れば、もっとまっすぐ届いたのだろうか。

 昼休み、私はいつものように人の少ない中庭へ向かった。
 校舎裏に近い小さなベンチ。文化祭前でみんな教室や体育館にいるから、ここは静かだった。

 お弁当を開く気になれず、膝の上で包みを握っていると、隣に影が落ちた。

「相席いい?」

 律くんだった。

 返事をする前に、彼は勝手に座った。

「まあ、断られても座るけど」

 私はスマホを出す。

《それ、聞く意味ある?》

「礼儀。俺、紳士だから」

《嘘》

「早いな。もう見抜かれた」

 律くんは笑い、コンビニのおにぎりを開けた。
 少しだけ、空気が軽くなる。

「放課後、聞き込みしよう」

 私は箸を止めた。

《聞き込み?》

「そう。探偵っぽいやつ。藤咲は観察担当。俺はしゃべる担当」

《私は探偵じゃない》

「じゃあ、声なし探偵」

 私は眉をひそめる。

 律くんは慌てて手を振った。

「悪口じゃないって。むしろ強そうじゃん。黙って全部見抜くタイプ」

 そんなふうに言われたのは初めてだった。

 私の沈黙は、いつも弱さだった。
 何を考えているかわからない。暗い。気まずい。そう言われるものだった。

 黙っていることが、何かの力になるなんて考えたこともなかった。

「人が嘘つくときってさ、言葉だけ聞いてもあんまり意味ないんだよ」

 律くんはおにぎりを片手に、講義みたいなことを言い始めた。

「嘘つくやつは、言葉を準備してる。でも体は準備しきれない」

《体?》

「目とか、手とか、呼吸とか。あと、質問された瞬間の間」

 私は思わず律くんを見た。

「たとえば、『昨日どこにいた?』って聞かれて本当のことを答えるだけなら、そんなに考えない。でも嘘を作るやつは、一瞬だけ頭の中で組み立てる。その一瞬が出る」

《黒瀬くんは、どうしてそんなに詳しいの?》

 打ってから、少し後悔した。

 律くんの指が、一瞬だけ止まったから。

 でも、彼はすぐに笑った。

「俺が嘘つきだから」

《それだけ?》

「それだけ」

 嘘だと思った。

 律くんは「それだけ」と言う前、右手の親指でおにぎりの包装を強く押していた。力を入れすぎて、海苔が少し割れている。

 私はそれを見てしまった。

 放課後。

 教室には文化祭準備のために何人かが残っていたが、昨日より空気は重かった。データが見つからないままなので、みんなの動きにも焦りがある。

 美月さんは新しい編集案を考えると言って、ノートパソコンを開いていた。けれど、指はほとんど動いていない。

 律くんが私の机に来て、小声で言った。

「まずは三井」

 航くんは、教室の後ろでケーブルをまとめていた。眼鏡をかけた細身の男子で、普段はあまり目立たない。機材に詳しく、文化祭準備では頼られていた。

「三井、ちょっといい?」

 律くんが声をかけると、航くんは肩をびくっとさせた。

「な、何?」

「昨日のデータのこと聞きたいんだけど」

「僕は知らないよ」

 早い。

 まだ何も聞いていないのに、航くんはそう言った。

 律くんは笑う。

「まだ質問してない」

「あ……いや、みんな聞いてくるから」

 航くんはケーブルを巻き直しながら、目を合わせなかった。

「昨日、美月がバックアップ取ってるって言ってたじゃん。あれ、どこにあるか知ってる?」

「知らない。僕は編集担当じゃないし」

「でも機材係だろ?」

「機材とデータは別だよ」

 航くんの声は少し硬かった。

 私は見ていた。

 航くんは「バックアップ」と言われた瞬間、右手の動きを止めた。ケーブルを巻く手が一拍遅れ、それから急に早くなった。

 律くんも気づいたのか、少しだけ目を細める。

「そっか。ありがと」

「うん」

 航くんはほっとしたように息を吐いた。

 私たちが離れると、律くんは小声で言った。

「反応したな」

 私はスマホに打つ。

《バックアップの言葉に》

「見てた?」

《手が止まった》

「やっぱ声なし探偵じゃん」

 私は返事の代わりに、少しだけ眉を寄せた。

 次に、美月さんのところへ行った。

 美月さんは私を見ると、表情を硬くした。

「何?」

 声が冷たい。

 私は一歩下がりそうになる。けれど、律くんが前に立った。

「昨日の確認。美月、バックアップ取ったって言ってたよな」

「言った」

「どこに?」

「共有フォルダと、外付けのUSB。……でも、USBの方にも入ってなかった」

「なくした?」

「なくしてない。ちゃんと持ってた」

 美月さんは鞄から小さなUSBメモリを出した。
 それを握る手が、少し震えている。

「私だって困ってるの。中心になって進めてたの、私なんだから」

 美月さんの目が赤くなっていた。

 怒っているだけじゃない。
 怖がっている。

 たぶん、自分のせいだと思われることを。

「藤咲さん」

 急に名前を呼ばれ、私は体を固くした。

「昨日、最後にパソコンの近くにいたんだよね。何か見たなら、言って」

 言って。

 その言葉で、喉がまた閉じる。

 美月さんは焦っている。
 それはわかる。責めたいわけじゃないのかもしれない。

 でも、声が出ない私には、その一言が刃物みたいだった。

「言いたいことがあるなら、ちゃんと言えば?」

 教室のざわめきが遠のく。

 私はスマホを出そうとした。
 けれど、指が震えて画面をうまく開けない。

 そのとき、律くんが一歩前に出た。

「言える奴が偉いってルール、誰が決めたんだよ」

 美月さんが目を見開く。

「私はそういう意味で言ったんじゃ……」

「わかってる。でも、今のはきつい」

 律くんの声は低かった。
 怒鳴ってはいない。けれど、いつもの軽さはなかった。

 美月さんは言葉に詰まる。

 私は律くんの横顔を見た。

 どうして、そこまで言ってくれるのだろう。
 私が言えないから?
 それとも、律くん自身が、誰かにそう言われたことがあるから?

 美月さんへの聞き込みでは、はっきりしたことはわからなかった。
 ただ、美月さんが本当に困っていることだけは伝わってきた。

 最後は委員長の紗奈さんだった。

 紗奈さんは文化祭の進行表を確認していた。きちんと結ばれた髪、折り目のついた制服、いつも落ち着いた声。クラスの中で一番「ちゃんとしている」人だ。

「佐倉、昨日の鍵のこと聞いていい?」

 律くんが尋ねると、紗奈さんは顔を上げた。

「うん。昨日は私が職員室に返しに行ったよ」

「教室を出た時間、覚えてる?」

「たぶん、六時少し前。神崎先生に確認したから、先生に聞けばわかると思う」

 答えが滑らかだった。
 迷いがない。

 けれど、私は別のことが気になった。

 紗奈さんは話している間、ずっと左手で右の袖口を整えていた。普段の彼女は、そんな落ち着かない動きをしない。

「昨日、誰か変な人見なかった?」

 律くんが聞く。

「変な人?」

「たとえば、教室に戻ってきた人とか」

「……特には」

 ほんの少しだけ間があった。

 私はスマホにメモする。

《紗奈さん、袖口をずっと触ってた。戻ってきた人の質問で少し間があった》

 律くんは画面を見て、うなずいた。

「関係者、全員ちょっとずつ変だな」

《誰が怪しい?》

「今のところ全員」

《私も?》

「藤咲は状況が怪しい」

《黒瀬くんは?》

「俺は存在が怪しい」

 思わず、口元がゆるんだ。

 律くんはそれを見て、満足そうに笑う。

「今ちょっと笑ったな」

 私はすぐに真顔に戻した。

「惜しい。証拠写真撮ればよかった」

 その軽口に救われる自分が、少し悔しかった。

 先生の聞き取りが終わったあと、私たちは空き教室に移動した。
 文化祭準備で使われていない三階の端の教室。机の上に、さっきのメモと脅迫の紙を並べる。

 律くんは黒板にチョークで名前を書いた。

 七瀬美月。
 三井航。
 佐倉紗奈。
 藤咲こはる。
 黒瀬律。

「容疑者リスト」

《自分も入れるの?》

「公平だろ」

《私はやってない》

「知ってる。でも探偵ごっこには形式美が必要」

 律くんは美月さんの名前の横に「データ管理者」と書く。
 航くんの横には「機材・バックアップに反応」。
 紗奈さんの横には「鍵・何か隠してる?」。
 私の横には「最後に残った」。
 律くん自身の横には「嘘つき」と書いた。

 私はその文字を見る。

《黒瀬くんは、昨日どこにいたの?》

「購買」

《本当に?》

「焼きそばパン買いに行った」

《売ってた?》

「なかった」

《じゃあ証拠は?》

「ない」

 律くんは笑った。

「俺も怪しいな」

 その笑顔を見たとき、私はなぜか胸がざわついた。

 律くんは自分が疑われることに慣れている。
 慣れているふりをしている。
 それが、少し痛々しく見えた。

 黒板の前で、律くんが言う。

「ただ、データが本当に消えたとは限らない」

《どういうこと?》

「消したように見せて、どこかに移した可能性。名前を変えるとか、別フォルダに入れるとか」

《誰がそんなことを?》

「犯人」

《何のために?》

「発表を失敗させたい。誰かを困らせたい。自分が助けたことにしたい。理由はいろいろ」

 自分が助けたことにしたい。

 その言葉を聞いたとき、航くんの顔が浮かんだ。
 バックアップという言葉に反応した指先。
 ほっとしたような息。

 でも、決めつけてはいけない。

 私が疑われている今だからこそ、誰かを同じように決めつけるのは嫌だった。

《まだ証拠がない》

「うん。だから探す」

 律くんは黒板に大きく書いた。

 嘘は、言葉より先に体に出る。

 その字は少し乱れていたけれど、不思議と力があった。

「藤咲は見て。俺は聞く。二人なら、たぶん一人よりマシ」

 私はスマホに打つ。

《バディみたい》

 送信する前に、恥ずかしくなって消そうとした。

 でも、律くんはもう画面を見ていた。

「いいじゃん。最強バディってことで」

《まだ最強じゃない》

「じゃあ仮免バディ」

 私は少しだけ笑った。
 今度は、隠しきれなかった。

 その日の帰り道、私は一人で駅へ向かった。

 律くんは先生に呼ばれて、教室に残った。昨日のことをもう少し聞かれるらしい。自分で「存在が怪しい」と言っていたけれど、先生までそう思っているのかもしれない。

 スマホを握りしめながら、私は今日のことを思い返した。

 美月さんの震えた手。
 航くんの止まった指。
 紗奈さんの袖口。
 律くんの、笑う前に伏せる目。

 私は、人の小さな変化ばかり見ている。
 昔からそうだった。

 相手が怒っていないか。
 嫌われていないか。
 今、何を言えば間違えないか。

 そうやって顔色をうかがって生きてきた。
 でも今日、律くんはそれを「観察担当」と言った。

 弱さではなく、役割みたいに。

 駅前の信号で立ち止まったとき、スマホが震えた。

 知らないアカウントからのメッセージだった。

《黒瀬律を信じるな》

 心臓が跳ねる。

 続けて、もう一通。

《あいつは前にも、人を裏切ってる》

 画面に表示されたその言葉を、私は何度も読み返した。

 風が吹いて、制服のスカートが揺れる。
 周りの人たちは信号が変わるのを待っている。誰も私のスマホを見ていない。

 なのに、私はまるで教室中の視線を浴びているみたいに動けなかった。

 黒瀬律を信じるな。

 昨日、私を信じてくれた人。
 今日、私の代わりに言葉を探してくれた人。

 その人を信じるなと、誰かが言っている。

 私は震える指で、検索画面を開いた。
 黒瀬律。
 学校名。
 嘘つき。

 いくつかの古い投稿が出てきた。

 中学時代のものらしい。詳しいことはわからない。けれど、その中の一文だけが、はっきり目に飛び込んできた。

《黒瀬律は、親友を売った嘘つき》

 信号が青に変わる。

 周りの人たちが歩き出す。
 でも、私はしばらく動けなかった。

 嘘つきの君が見抜いた嘘を、私は信じていいのだろうか。