紙を握ったまま、私はしばらく動けなかった。
教室の朝は、いつもより少し騒がしい。窓の外では運動部の朝練の声がして、廊下では誰かの笑い声が跳ねている。昨日、映像データが消えたことなんて、学校全体から見れば小さな事件でしかない。
でも、私の机の中に入っていた一枚の紙は、世界の音を遠くした。
《黙っていれば、全部あなたのせいで終わるよ》
字は、わざと乱して書かれているように見えた。角ばっていて、強い筆圧。書いた人の顔はわからない。けれど、言葉だけがまっすぐ私の胸に刺さった。
黙っているつもりなんかない。
でも、声が出ない。
そう言い返せたら、どれだけ楽だろう。
「藤咲」
後ろから声がして、肩が跳ねた。
振り向くと、黒瀬律くんが立っていた。片手には紙パックのいちごミルク。朝から甘いものを飲んでいる。
「おはよう。今日も地球は無事に侵略されてる?」
いつもの軽口だった。けれど、私の手元を見るなり、律くんの目が少しだけ変わった。
「何それ」
私は紙を隠そうとして、やめた。
隠しても、きっと何も変わらない。
紙を差し出す。
律くんはそれを受け取り、黙って読んだ。読み終えたあと、ふっと笑う。
「人気者じゃん」
私は睨むつもりで見上げた。
律くんは両手を軽く上げる。
「ごめん。今のは失言。俺なんか悪口はだいたい本人の前で言われるから、こういう手紙形式はちょっと新鮮で」
冗談めかしているけれど、声の底は冷えていた。
律くんは紙をもう一度見る。
その横顔から、いつものふざけた感じが消えていた。
「これ、犯人かどうかはまだわかんないけど、少なくとも書いたやつは焦ってる」
私はスマホを取り出して打った。
《どうして?》
「藤咲が黙ってる方が都合いいから。つまり、藤咲が何か言い出すと困る」
《私は何も知らない》
「知らないと思ってるだけかも」
律くんは紙を机の上に置き、私の席の前にしゃがんだ。目線が同じ高さになる。
「昨日のこと、思い出せるだけ全部書いて。誰がいたか、何を言ったか、変だったこと。どんな小さいことでもいい」
私はうなずき、スマホのメモを開いた。
昨日の放課後。
教室に残っていたのは、美月さん、航くん、紗奈さん、私。途中まで律くんもいたけれど、購買に行った。美月さんは共有パソコンで映像データを確認していた。紗奈さんは鍵のことを気にしていた。航くんは機材を片づけていた。
私はゆっくり打つ。
《美月さんが、バックアップは大丈夫って言ってた》
「ふん」
《航くんが、そのとき机を指で叩いてた。速かった》
「三井が?」
律くんは少しだけ眉を上げる。
《緊張してるみたいだった》
「他には?」
《紗奈さんは、先生に鍵のことを確認すると言って出た》
「昨日の最後、教室に残ったのは?」
《たぶん、私だけ》
打った瞬間、胸が沈んだ。
それが、疑われる理由だった。
律くんは、私の画面を見ても顔色を変えなかった。
「なるほど。藤咲が犯人にされるには、ちょうどいい状況だな」
私は画面に打つ。
《やっぱり私が怪しい?》
「怪しいよ」
あまりにはっきり言うので、息が止まった。
律くんは続ける。
「状況だけ見れば。でも、状況が怪しいことと、犯人であることは違う」
その言い方が、少しだけ先生みたいで、私はまた黙ってしまった。
朝のホームルームが始まり、担任の神崎先生から、昨日のデータ消失について話があった。
「文化祭準備に関わる大事なことです。誰かを決めつけたり、責めたりするのはやめること。今日の放課後、関係者には一人ずつ話を聞きます」
先生はそう言ったけれど、教室の空気は簡単には戻らなかった。
休み時間になるたびに、視線が背中に刺さる。
誰かが小声で話しているだけで、自分の名前を言われた気がする。
私はノートを開いたまま、文字を見ているふりをした。
隣の席の女子が、少し迷ったあと、話しかけてきた。
「藤咲さん、本当に知らないんだよね?」
声は責めているというより、不安そうだった。
私はすぐにうなずく。
でも、その子の表情は晴れない。
「そっか……」
信じたいけど、信じきれない。
そんな顔だった。
言葉があれば、何か変わったのだろうか。
声が出れば、もっとまっすぐ届いたのだろうか。
昼休み、私はいつものように人の少ない中庭へ向かった。
校舎裏に近い小さなベンチ。文化祭前でみんな教室や体育館にいるから、ここは静かだった。
お弁当を開く気になれず、膝の上で包みを握っていると、隣に影が落ちた。
「相席いい?」
律くんだった。
返事をする前に、彼は勝手に座った。
「まあ、断られても座るけど」
私はスマホを出す。
《それ、聞く意味ある?》
「礼儀。俺、紳士だから」
《嘘》
「早いな。もう見抜かれた」
律くんは笑い、コンビニのおにぎりを開けた。
少しだけ、空気が軽くなる。
「放課後、聞き込みしよう」
私は箸を止めた。
《聞き込み?》
「そう。探偵っぽいやつ。藤咲は観察担当。俺はしゃべる担当」
《私は探偵じゃない》
「じゃあ、声なし探偵」
私は眉をひそめる。
律くんは慌てて手を振った。
「悪口じゃないって。むしろ強そうじゃん。黙って全部見抜くタイプ」
そんなふうに言われたのは初めてだった。
私の沈黙は、いつも弱さだった。
何を考えているかわからない。暗い。気まずい。そう言われるものだった。
黙っていることが、何かの力になるなんて考えたこともなかった。
「人が嘘つくときってさ、言葉だけ聞いてもあんまり意味ないんだよ」
律くんはおにぎりを片手に、講義みたいなことを言い始めた。
「嘘つくやつは、言葉を準備してる。でも体は準備しきれない」
《体?》
「目とか、手とか、呼吸とか。あと、質問された瞬間の間」
私は思わず律くんを見た。
「たとえば、『昨日どこにいた?』って聞かれて本当のことを答えるだけなら、そんなに考えない。でも嘘を作るやつは、一瞬だけ頭の中で組み立てる。その一瞬が出る」
《黒瀬くんは、どうしてそんなに詳しいの?》
打ってから、少し後悔した。
律くんの指が、一瞬だけ止まったから。
でも、彼はすぐに笑った。
「俺が嘘つきだから」
《それだけ?》
「それだけ」
嘘だと思った。
律くんは「それだけ」と言う前、右手の親指でおにぎりの包装を強く押していた。力を入れすぎて、海苔が少し割れている。
私はそれを見てしまった。
放課後。
教室には文化祭準備のために何人かが残っていたが、昨日より空気は重かった。データが見つからないままなので、みんなの動きにも焦りがある。
美月さんは新しい編集案を考えると言って、ノートパソコンを開いていた。けれど、指はほとんど動いていない。
律くんが私の机に来て、小声で言った。
「まずは三井」
航くんは、教室の後ろでケーブルをまとめていた。眼鏡をかけた細身の男子で、普段はあまり目立たない。機材に詳しく、文化祭準備では頼られていた。
「三井、ちょっといい?」
律くんが声をかけると、航くんは肩をびくっとさせた。
「な、何?」
「昨日のデータのこと聞きたいんだけど」
「僕は知らないよ」
早い。
まだ何も聞いていないのに、航くんはそう言った。
律くんは笑う。
「まだ質問してない」
「あ……いや、みんな聞いてくるから」
航くんはケーブルを巻き直しながら、目を合わせなかった。
「昨日、美月がバックアップ取ってるって言ってたじゃん。あれ、どこにあるか知ってる?」
「知らない。僕は編集担当じゃないし」
「でも機材係だろ?」
「機材とデータは別だよ」
航くんの声は少し硬かった。
私は見ていた。
航くんは「バックアップ」と言われた瞬間、右手の動きを止めた。ケーブルを巻く手が一拍遅れ、それから急に早くなった。
律くんも気づいたのか、少しだけ目を細める。
「そっか。ありがと」
「うん」
航くんはほっとしたように息を吐いた。
私たちが離れると、律くんは小声で言った。
「反応したな」
私はスマホに打つ。
《バックアップの言葉に》
「見てた?」
《手が止まった》
「やっぱ声なし探偵じゃん」
私は返事の代わりに、少しだけ眉を寄せた。
次に、美月さんのところへ行った。
美月さんは私を見ると、表情を硬くした。
「何?」
声が冷たい。
私は一歩下がりそうになる。けれど、律くんが前に立った。
「昨日の確認。美月、バックアップ取ったって言ってたよな」
「言った」
「どこに?」
「共有フォルダと、外付けのUSB。……でも、USBの方にも入ってなかった」
「なくした?」
「なくしてない。ちゃんと持ってた」
美月さんは鞄から小さなUSBメモリを出した。
それを握る手が、少し震えている。
「私だって困ってるの。中心になって進めてたの、私なんだから」
美月さんの目が赤くなっていた。
怒っているだけじゃない。
怖がっている。
たぶん、自分のせいだと思われることを。
「藤咲さん」
急に名前を呼ばれ、私は体を固くした。
「昨日、最後にパソコンの近くにいたんだよね。何か見たなら、言って」
言って。
その言葉で、喉がまた閉じる。
美月さんは焦っている。
それはわかる。責めたいわけじゃないのかもしれない。
でも、声が出ない私には、その一言が刃物みたいだった。
「言いたいことがあるなら、ちゃんと言えば?」
教室のざわめきが遠のく。
私はスマホを出そうとした。
けれど、指が震えて画面をうまく開けない。
そのとき、律くんが一歩前に出た。
「言える奴が偉いってルール、誰が決めたんだよ」
美月さんが目を見開く。
「私はそういう意味で言ったんじゃ……」
「わかってる。でも、今のはきつい」
律くんの声は低かった。
怒鳴ってはいない。けれど、いつもの軽さはなかった。
美月さんは言葉に詰まる。
私は律くんの横顔を見た。
どうして、そこまで言ってくれるのだろう。
私が言えないから?
それとも、律くん自身が、誰かにそう言われたことがあるから?
美月さんへの聞き込みでは、はっきりしたことはわからなかった。
ただ、美月さんが本当に困っていることだけは伝わってきた。
最後は委員長の紗奈さんだった。
紗奈さんは文化祭の進行表を確認していた。きちんと結ばれた髪、折り目のついた制服、いつも落ち着いた声。クラスの中で一番「ちゃんとしている」人だ。
「佐倉、昨日の鍵のこと聞いていい?」
律くんが尋ねると、紗奈さんは顔を上げた。
「うん。昨日は私が職員室に返しに行ったよ」
「教室を出た時間、覚えてる?」
「たぶん、六時少し前。神崎先生に確認したから、先生に聞けばわかると思う」
答えが滑らかだった。
迷いがない。
けれど、私は別のことが気になった。
紗奈さんは話している間、ずっと左手で右の袖口を整えていた。普段の彼女は、そんな落ち着かない動きをしない。
「昨日、誰か変な人見なかった?」
律くんが聞く。
「変な人?」
「たとえば、教室に戻ってきた人とか」
「……特には」
ほんの少しだけ間があった。
私はスマホにメモする。
《紗奈さん、袖口をずっと触ってた。戻ってきた人の質問で少し間があった》
律くんは画面を見て、うなずいた。
「関係者、全員ちょっとずつ変だな」
《誰が怪しい?》
「今のところ全員」
《私も?》
「藤咲は状況が怪しい」
《黒瀬くんは?》
「俺は存在が怪しい」
思わず、口元がゆるんだ。
律くんはそれを見て、満足そうに笑う。
「今ちょっと笑ったな」
私はすぐに真顔に戻した。
「惜しい。証拠写真撮ればよかった」
その軽口に救われる自分が、少し悔しかった。
先生の聞き取りが終わったあと、私たちは空き教室に移動した。
文化祭準備で使われていない三階の端の教室。机の上に、さっきのメモと脅迫の紙を並べる。
律くんは黒板にチョークで名前を書いた。
七瀬美月。
三井航。
佐倉紗奈。
藤咲こはる。
黒瀬律。
「容疑者リスト」
《自分も入れるの?》
「公平だろ」
《私はやってない》
「知ってる。でも探偵ごっこには形式美が必要」
律くんは美月さんの名前の横に「データ管理者」と書く。
航くんの横には「機材・バックアップに反応」。
紗奈さんの横には「鍵・何か隠してる?」。
私の横には「最後に残った」。
律くん自身の横には「嘘つき」と書いた。
私はその文字を見る。
《黒瀬くんは、昨日どこにいたの?》
「購買」
《本当に?》
「焼きそばパン買いに行った」
《売ってた?》
「なかった」
《じゃあ証拠は?》
「ない」
律くんは笑った。
「俺も怪しいな」
その笑顔を見たとき、私はなぜか胸がざわついた。
律くんは自分が疑われることに慣れている。
慣れているふりをしている。
それが、少し痛々しく見えた。
黒板の前で、律くんが言う。
「ただ、データが本当に消えたとは限らない」
《どういうこと?》
「消したように見せて、どこかに移した可能性。名前を変えるとか、別フォルダに入れるとか」
《誰がそんなことを?》
「犯人」
《何のために?》
「発表を失敗させたい。誰かを困らせたい。自分が助けたことにしたい。理由はいろいろ」
自分が助けたことにしたい。
その言葉を聞いたとき、航くんの顔が浮かんだ。
バックアップという言葉に反応した指先。
ほっとしたような息。
でも、決めつけてはいけない。
私が疑われている今だからこそ、誰かを同じように決めつけるのは嫌だった。
《まだ証拠がない》
「うん。だから探す」
律くんは黒板に大きく書いた。
嘘は、言葉より先に体に出る。
その字は少し乱れていたけれど、不思議と力があった。
「藤咲は見て。俺は聞く。二人なら、たぶん一人よりマシ」
私はスマホに打つ。
《バディみたい》
送信する前に、恥ずかしくなって消そうとした。
でも、律くんはもう画面を見ていた。
「いいじゃん。最強バディってことで」
《まだ最強じゃない》
「じゃあ仮免バディ」
私は少しだけ笑った。
今度は、隠しきれなかった。
その日の帰り道、私は一人で駅へ向かった。
律くんは先生に呼ばれて、教室に残った。昨日のことをもう少し聞かれるらしい。自分で「存在が怪しい」と言っていたけれど、先生までそう思っているのかもしれない。
スマホを握りしめながら、私は今日のことを思い返した。
美月さんの震えた手。
航くんの止まった指。
紗奈さんの袖口。
律くんの、笑う前に伏せる目。
私は、人の小さな変化ばかり見ている。
昔からそうだった。
相手が怒っていないか。
嫌われていないか。
今、何を言えば間違えないか。
そうやって顔色をうかがって生きてきた。
でも今日、律くんはそれを「観察担当」と言った。
弱さではなく、役割みたいに。
駅前の信号で立ち止まったとき、スマホが震えた。
知らないアカウントからのメッセージだった。
《黒瀬律を信じるな》
心臓が跳ねる。
続けて、もう一通。
《あいつは前にも、人を裏切ってる》
画面に表示されたその言葉を、私は何度も読み返した。
風が吹いて、制服のスカートが揺れる。
周りの人たちは信号が変わるのを待っている。誰も私のスマホを見ていない。
なのに、私はまるで教室中の視線を浴びているみたいに動けなかった。
黒瀬律を信じるな。
昨日、私を信じてくれた人。
今日、私の代わりに言葉を探してくれた人。
その人を信じるなと、誰かが言っている。
私は震える指で、検索画面を開いた。
黒瀬律。
学校名。
嘘つき。
いくつかの古い投稿が出てきた。
中学時代のものらしい。詳しいことはわからない。けれど、その中の一文だけが、はっきり目に飛び込んできた。
《黒瀬律は、親友を売った嘘つき》
信号が青に変わる。
周りの人たちが歩き出す。
でも、私はしばらく動けなかった。
嘘つきの君が見抜いた嘘を、私は信じていいのだろうか。
教室の朝は、いつもより少し騒がしい。窓の外では運動部の朝練の声がして、廊下では誰かの笑い声が跳ねている。昨日、映像データが消えたことなんて、学校全体から見れば小さな事件でしかない。
でも、私の机の中に入っていた一枚の紙は、世界の音を遠くした。
《黙っていれば、全部あなたのせいで終わるよ》
字は、わざと乱して書かれているように見えた。角ばっていて、強い筆圧。書いた人の顔はわからない。けれど、言葉だけがまっすぐ私の胸に刺さった。
黙っているつもりなんかない。
でも、声が出ない。
そう言い返せたら、どれだけ楽だろう。
「藤咲」
後ろから声がして、肩が跳ねた。
振り向くと、黒瀬律くんが立っていた。片手には紙パックのいちごミルク。朝から甘いものを飲んでいる。
「おはよう。今日も地球は無事に侵略されてる?」
いつもの軽口だった。けれど、私の手元を見るなり、律くんの目が少しだけ変わった。
「何それ」
私は紙を隠そうとして、やめた。
隠しても、きっと何も変わらない。
紙を差し出す。
律くんはそれを受け取り、黙って読んだ。読み終えたあと、ふっと笑う。
「人気者じゃん」
私は睨むつもりで見上げた。
律くんは両手を軽く上げる。
「ごめん。今のは失言。俺なんか悪口はだいたい本人の前で言われるから、こういう手紙形式はちょっと新鮮で」
冗談めかしているけれど、声の底は冷えていた。
律くんは紙をもう一度見る。
その横顔から、いつものふざけた感じが消えていた。
「これ、犯人かどうかはまだわかんないけど、少なくとも書いたやつは焦ってる」
私はスマホを取り出して打った。
《どうして?》
「藤咲が黙ってる方が都合いいから。つまり、藤咲が何か言い出すと困る」
《私は何も知らない》
「知らないと思ってるだけかも」
律くんは紙を机の上に置き、私の席の前にしゃがんだ。目線が同じ高さになる。
「昨日のこと、思い出せるだけ全部書いて。誰がいたか、何を言ったか、変だったこと。どんな小さいことでもいい」
私はうなずき、スマホのメモを開いた。
昨日の放課後。
教室に残っていたのは、美月さん、航くん、紗奈さん、私。途中まで律くんもいたけれど、購買に行った。美月さんは共有パソコンで映像データを確認していた。紗奈さんは鍵のことを気にしていた。航くんは機材を片づけていた。
私はゆっくり打つ。
《美月さんが、バックアップは大丈夫って言ってた》
「ふん」
《航くんが、そのとき机を指で叩いてた。速かった》
「三井が?」
律くんは少しだけ眉を上げる。
《緊張してるみたいだった》
「他には?」
《紗奈さんは、先生に鍵のことを確認すると言って出た》
「昨日の最後、教室に残ったのは?」
《たぶん、私だけ》
打った瞬間、胸が沈んだ。
それが、疑われる理由だった。
律くんは、私の画面を見ても顔色を変えなかった。
「なるほど。藤咲が犯人にされるには、ちょうどいい状況だな」
私は画面に打つ。
《やっぱり私が怪しい?》
「怪しいよ」
あまりにはっきり言うので、息が止まった。
律くんは続ける。
「状況だけ見れば。でも、状況が怪しいことと、犯人であることは違う」
その言い方が、少しだけ先生みたいで、私はまた黙ってしまった。
朝のホームルームが始まり、担任の神崎先生から、昨日のデータ消失について話があった。
「文化祭準備に関わる大事なことです。誰かを決めつけたり、責めたりするのはやめること。今日の放課後、関係者には一人ずつ話を聞きます」
先生はそう言ったけれど、教室の空気は簡単には戻らなかった。
休み時間になるたびに、視線が背中に刺さる。
誰かが小声で話しているだけで、自分の名前を言われた気がする。
私はノートを開いたまま、文字を見ているふりをした。
隣の席の女子が、少し迷ったあと、話しかけてきた。
「藤咲さん、本当に知らないんだよね?」
声は責めているというより、不安そうだった。
私はすぐにうなずく。
でも、その子の表情は晴れない。
「そっか……」
信じたいけど、信じきれない。
そんな顔だった。
言葉があれば、何か変わったのだろうか。
声が出れば、もっとまっすぐ届いたのだろうか。
昼休み、私はいつものように人の少ない中庭へ向かった。
校舎裏に近い小さなベンチ。文化祭前でみんな教室や体育館にいるから、ここは静かだった。
お弁当を開く気になれず、膝の上で包みを握っていると、隣に影が落ちた。
「相席いい?」
律くんだった。
返事をする前に、彼は勝手に座った。
「まあ、断られても座るけど」
私はスマホを出す。
《それ、聞く意味ある?》
「礼儀。俺、紳士だから」
《嘘》
「早いな。もう見抜かれた」
律くんは笑い、コンビニのおにぎりを開けた。
少しだけ、空気が軽くなる。
「放課後、聞き込みしよう」
私は箸を止めた。
《聞き込み?》
「そう。探偵っぽいやつ。藤咲は観察担当。俺はしゃべる担当」
《私は探偵じゃない》
「じゃあ、声なし探偵」
私は眉をひそめる。
律くんは慌てて手を振った。
「悪口じゃないって。むしろ強そうじゃん。黙って全部見抜くタイプ」
そんなふうに言われたのは初めてだった。
私の沈黙は、いつも弱さだった。
何を考えているかわからない。暗い。気まずい。そう言われるものだった。
黙っていることが、何かの力になるなんて考えたこともなかった。
「人が嘘つくときってさ、言葉だけ聞いてもあんまり意味ないんだよ」
律くんはおにぎりを片手に、講義みたいなことを言い始めた。
「嘘つくやつは、言葉を準備してる。でも体は準備しきれない」
《体?》
「目とか、手とか、呼吸とか。あと、質問された瞬間の間」
私は思わず律くんを見た。
「たとえば、『昨日どこにいた?』って聞かれて本当のことを答えるだけなら、そんなに考えない。でも嘘を作るやつは、一瞬だけ頭の中で組み立てる。その一瞬が出る」
《黒瀬くんは、どうしてそんなに詳しいの?》
打ってから、少し後悔した。
律くんの指が、一瞬だけ止まったから。
でも、彼はすぐに笑った。
「俺が嘘つきだから」
《それだけ?》
「それだけ」
嘘だと思った。
律くんは「それだけ」と言う前、右手の親指でおにぎりの包装を強く押していた。力を入れすぎて、海苔が少し割れている。
私はそれを見てしまった。
放課後。
教室には文化祭準備のために何人かが残っていたが、昨日より空気は重かった。データが見つからないままなので、みんなの動きにも焦りがある。
美月さんは新しい編集案を考えると言って、ノートパソコンを開いていた。けれど、指はほとんど動いていない。
律くんが私の机に来て、小声で言った。
「まずは三井」
航くんは、教室の後ろでケーブルをまとめていた。眼鏡をかけた細身の男子で、普段はあまり目立たない。機材に詳しく、文化祭準備では頼られていた。
「三井、ちょっといい?」
律くんが声をかけると、航くんは肩をびくっとさせた。
「な、何?」
「昨日のデータのこと聞きたいんだけど」
「僕は知らないよ」
早い。
まだ何も聞いていないのに、航くんはそう言った。
律くんは笑う。
「まだ質問してない」
「あ……いや、みんな聞いてくるから」
航くんはケーブルを巻き直しながら、目を合わせなかった。
「昨日、美月がバックアップ取ってるって言ってたじゃん。あれ、どこにあるか知ってる?」
「知らない。僕は編集担当じゃないし」
「でも機材係だろ?」
「機材とデータは別だよ」
航くんの声は少し硬かった。
私は見ていた。
航くんは「バックアップ」と言われた瞬間、右手の動きを止めた。ケーブルを巻く手が一拍遅れ、それから急に早くなった。
律くんも気づいたのか、少しだけ目を細める。
「そっか。ありがと」
「うん」
航くんはほっとしたように息を吐いた。
私たちが離れると、律くんは小声で言った。
「反応したな」
私はスマホに打つ。
《バックアップの言葉に》
「見てた?」
《手が止まった》
「やっぱ声なし探偵じゃん」
私は返事の代わりに、少しだけ眉を寄せた。
次に、美月さんのところへ行った。
美月さんは私を見ると、表情を硬くした。
「何?」
声が冷たい。
私は一歩下がりそうになる。けれど、律くんが前に立った。
「昨日の確認。美月、バックアップ取ったって言ってたよな」
「言った」
「どこに?」
「共有フォルダと、外付けのUSB。……でも、USBの方にも入ってなかった」
「なくした?」
「なくしてない。ちゃんと持ってた」
美月さんは鞄から小さなUSBメモリを出した。
それを握る手が、少し震えている。
「私だって困ってるの。中心になって進めてたの、私なんだから」
美月さんの目が赤くなっていた。
怒っているだけじゃない。
怖がっている。
たぶん、自分のせいだと思われることを。
「藤咲さん」
急に名前を呼ばれ、私は体を固くした。
「昨日、最後にパソコンの近くにいたんだよね。何か見たなら、言って」
言って。
その言葉で、喉がまた閉じる。
美月さんは焦っている。
それはわかる。責めたいわけじゃないのかもしれない。
でも、声が出ない私には、その一言が刃物みたいだった。
「言いたいことがあるなら、ちゃんと言えば?」
教室のざわめきが遠のく。
私はスマホを出そうとした。
けれど、指が震えて画面をうまく開けない。
そのとき、律くんが一歩前に出た。
「言える奴が偉いってルール、誰が決めたんだよ」
美月さんが目を見開く。
「私はそういう意味で言ったんじゃ……」
「わかってる。でも、今のはきつい」
律くんの声は低かった。
怒鳴ってはいない。けれど、いつもの軽さはなかった。
美月さんは言葉に詰まる。
私は律くんの横顔を見た。
どうして、そこまで言ってくれるのだろう。
私が言えないから?
それとも、律くん自身が、誰かにそう言われたことがあるから?
美月さんへの聞き込みでは、はっきりしたことはわからなかった。
ただ、美月さんが本当に困っていることだけは伝わってきた。
最後は委員長の紗奈さんだった。
紗奈さんは文化祭の進行表を確認していた。きちんと結ばれた髪、折り目のついた制服、いつも落ち着いた声。クラスの中で一番「ちゃんとしている」人だ。
「佐倉、昨日の鍵のこと聞いていい?」
律くんが尋ねると、紗奈さんは顔を上げた。
「うん。昨日は私が職員室に返しに行ったよ」
「教室を出た時間、覚えてる?」
「たぶん、六時少し前。神崎先生に確認したから、先生に聞けばわかると思う」
答えが滑らかだった。
迷いがない。
けれど、私は別のことが気になった。
紗奈さんは話している間、ずっと左手で右の袖口を整えていた。普段の彼女は、そんな落ち着かない動きをしない。
「昨日、誰か変な人見なかった?」
律くんが聞く。
「変な人?」
「たとえば、教室に戻ってきた人とか」
「……特には」
ほんの少しだけ間があった。
私はスマホにメモする。
《紗奈さん、袖口をずっと触ってた。戻ってきた人の質問で少し間があった》
律くんは画面を見て、うなずいた。
「関係者、全員ちょっとずつ変だな」
《誰が怪しい?》
「今のところ全員」
《私も?》
「藤咲は状況が怪しい」
《黒瀬くんは?》
「俺は存在が怪しい」
思わず、口元がゆるんだ。
律くんはそれを見て、満足そうに笑う。
「今ちょっと笑ったな」
私はすぐに真顔に戻した。
「惜しい。証拠写真撮ればよかった」
その軽口に救われる自分が、少し悔しかった。
先生の聞き取りが終わったあと、私たちは空き教室に移動した。
文化祭準備で使われていない三階の端の教室。机の上に、さっきのメモと脅迫の紙を並べる。
律くんは黒板にチョークで名前を書いた。
七瀬美月。
三井航。
佐倉紗奈。
藤咲こはる。
黒瀬律。
「容疑者リスト」
《自分も入れるの?》
「公平だろ」
《私はやってない》
「知ってる。でも探偵ごっこには形式美が必要」
律くんは美月さんの名前の横に「データ管理者」と書く。
航くんの横には「機材・バックアップに反応」。
紗奈さんの横には「鍵・何か隠してる?」。
私の横には「最後に残った」。
律くん自身の横には「嘘つき」と書いた。
私はその文字を見る。
《黒瀬くんは、昨日どこにいたの?》
「購買」
《本当に?》
「焼きそばパン買いに行った」
《売ってた?》
「なかった」
《じゃあ証拠は?》
「ない」
律くんは笑った。
「俺も怪しいな」
その笑顔を見たとき、私はなぜか胸がざわついた。
律くんは自分が疑われることに慣れている。
慣れているふりをしている。
それが、少し痛々しく見えた。
黒板の前で、律くんが言う。
「ただ、データが本当に消えたとは限らない」
《どういうこと?》
「消したように見せて、どこかに移した可能性。名前を変えるとか、別フォルダに入れるとか」
《誰がそんなことを?》
「犯人」
《何のために?》
「発表を失敗させたい。誰かを困らせたい。自分が助けたことにしたい。理由はいろいろ」
自分が助けたことにしたい。
その言葉を聞いたとき、航くんの顔が浮かんだ。
バックアップという言葉に反応した指先。
ほっとしたような息。
でも、決めつけてはいけない。
私が疑われている今だからこそ、誰かを同じように決めつけるのは嫌だった。
《まだ証拠がない》
「うん。だから探す」
律くんは黒板に大きく書いた。
嘘は、言葉より先に体に出る。
その字は少し乱れていたけれど、不思議と力があった。
「藤咲は見て。俺は聞く。二人なら、たぶん一人よりマシ」
私はスマホに打つ。
《バディみたい》
送信する前に、恥ずかしくなって消そうとした。
でも、律くんはもう画面を見ていた。
「いいじゃん。最強バディってことで」
《まだ最強じゃない》
「じゃあ仮免バディ」
私は少しだけ笑った。
今度は、隠しきれなかった。
その日の帰り道、私は一人で駅へ向かった。
律くんは先生に呼ばれて、教室に残った。昨日のことをもう少し聞かれるらしい。自分で「存在が怪しい」と言っていたけれど、先生までそう思っているのかもしれない。
スマホを握りしめながら、私は今日のことを思い返した。
美月さんの震えた手。
航くんの止まった指。
紗奈さんの袖口。
律くんの、笑う前に伏せる目。
私は、人の小さな変化ばかり見ている。
昔からそうだった。
相手が怒っていないか。
嫌われていないか。
今、何を言えば間違えないか。
そうやって顔色をうかがって生きてきた。
でも今日、律くんはそれを「観察担当」と言った。
弱さではなく、役割みたいに。
駅前の信号で立ち止まったとき、スマホが震えた。
知らないアカウントからのメッセージだった。
《黒瀬律を信じるな》
心臓が跳ねる。
続けて、もう一通。
《あいつは前にも、人を裏切ってる》
画面に表示されたその言葉を、私は何度も読み返した。
風が吹いて、制服のスカートが揺れる。
周りの人たちは信号が変わるのを待っている。誰も私のスマホを見ていない。
なのに、私はまるで教室中の視線を浴びているみたいに動けなかった。
黒瀬律を信じるな。
昨日、私を信じてくれた人。
今日、私の代わりに言葉を探してくれた人。
その人を信じるなと、誰かが言っている。
私は震える指で、検索画面を開いた。
黒瀬律。
学校名。
嘘つき。
いくつかの古い投稿が出てきた。
中学時代のものらしい。詳しいことはわからない。けれど、その中の一文だけが、はっきり目に飛び込んできた。
《黒瀬律は、親友を売った嘘つき》
信号が青に変わる。
周りの人たちが歩き出す。
でも、私はしばらく動けなかった。
嘘つきの君が見抜いた嘘を、私は信じていいのだろうか。

