人の視線が集まると、喉の奥に鍵がかかる。
言いたいことはある。頭の中では、ちゃんと文章になっている。違います。私は知りません。どうしてそう思うんですか。そう言いたいのに、口を開いた瞬間、声だけがどこかへ消えてしまう。
高校二年になっても、それは変わらなかった。
文化祭まで、あと一週間。
放課後の教室は、いつもより少しだけ熱を帯びていた。机は端に寄せられ、床には模造紙や色画用紙、ケーブル類が散らばっている。窓際では飾りつけ班が折り紙の花を作り、黒板の前では発表班が原稿を読み合わせていた。
私たち二年三組の出し物は、映像発表だ。
テーマは「透明な声」。
クラスのみんなで撮影した短い映像に、ナレーションと音楽を重ねて体育館で上映する。中心になっているのは、明るくて、何でもはっきり言える七瀬美月さんだった。
「藤咲さん、そこの資料、番号順に並べてもらっていい?」
美月さんに声をかけられ、私は小さくうなずいた。
返事の代わりに、胸の前で軽く手を上げる。
それが、私のいつもの返事だった。
藤咲こはる。高校二年生。
人前で声が出ない。
完全に話せないわけではない。家では母と普通に話せるし、親しい人と二人きりなら短い言葉くらいは出る。けれど、教室で誰かに見られていると、だめだった。喉が固まって、息だけが浅くなる。
「ほんと、藤咲さんって静かだよね」
誰かが言った。
「怒ってるのか、何も考えてないのか、わかんない」
笑い声が少しだけ広がる。
私は聞こえなかったふりをして、プリントの束を整えた。
こういうとき、傷ついた顔をしてはいけない。余計に面倒なことになる。そう覚えたのは、中学の頃だった。
「おーい、みなさん。重大発表です」
教室の後ろから、やけに明るい声が飛んできた。
黒瀬律くんだった。
片手にコンビニの袋をぶら下げ、もう片方の手でなぜか指揮者みたいに空中を切っている。少し長めの前髪が目にかかっていて、制服のネクタイはゆるい。先生に注意されるぎりぎりのだらしなさを、わざと選んでいるような人だった。
「俺、昨日、宇宙人に会いました」
「また始まった」
「はいはい」
クラスメイトたちは、慣れたように笑う。
律くんは気にせず続けた。
「しかも二人。片方は校長に似てた。もう片方は数学の小野先生に似てた。たぶんこの学校、すでに侵略されてる」
「黒瀬、それ文化祭で発表したら?」
「いいね。タイトルは『うちの校長、実は火星人』で」
「怒られるって」
教室が少し明るくなる。
黒瀬律くんは、そういう人だった。いつも軽口を言って、適当な嘘をついて、みんなを笑わせる。だけど、誰も律くんのことを本気で信じてはいない。
黒瀬は嘘つきだから。
その言葉を、私は何度も聞いたことがあった。
「黒瀬、遊んでないで手伝ってよ」
美月さんが少し呆れた声で言う。
「手伝ってるじゃん。クラスの士気を上げてる」
「それ、いちばんいらない」
「ひどい。俺の存在価値を全否定された」
律くんは胸を押さえて大げさによろける。
周りがまた笑う。
私はプリントを並べながら、少しだけ律くんを見た。
笑っている。
けれど、その笑顔はときどき、薄い紙みたいに見える。
どうしてそう思うのかは、自分でもわからない。
ただ、律くんが嘘をつくとき、笑うより先にほんの少しだけ目を伏せることを、私は知っていた。
その日の作業は、いつもより遅くまで続いた。
映像データの最終確認があるから、と美月さんが共有パソコンを開いていた。私はその横で、発表順のメモを作っていた。クラスの人数分、配布用の資料をホチキスで留めていく。
「藤咲さん、これ終わったら先帰っていいよ」
美月さんが画面を見たまま言った。
私はうなずく。
本当は、もう少し手伝った方がいいのかもしれない。でも、声で「ほかにできることある?」と聞けない私は、言われたことだけをする人になってしまう。
教室には、私と美月さん、それから機材係の三井航くん、委員長の佐倉紗奈さんが残っていた。律くんは途中で「購買に幻の焼きそばパンを探しに行く」と言って消えた。
「バックアップ、ちゃんと取ってるよね?」
紗奈さんが美月さんに確認する。
「もちろん。大丈夫」
美月さんは少し得意げに答えた。
「明日のリハで流せば、ほぼ完成だと思う」
「よかった」
航くんが小さく息をついた。
その声に、私は少しだけ顔を上げた。
航くんの指先が、机の端をとん、とん、と叩いている。いつもより速い。緊張しているのかな、と思った。けれど、その理由まではわからなかった。
作業が終わった頃、外はすっかり暗くなっていた。
私は最後に机の上のプリントを整え、共有パソコンの近くに置いた。美月さんは先生に呼ばれて職員室へ行き、紗奈さんも鍵の返却について確認すると言って教室を出ていった。航くんは、機材を片づけながら「先に帰る」と言った。
教室に一人になる。
静かだった。
誰も見ていない教室なら、私は少し息がしやすい。
「……つかれた」
小さく声に出してみる。
ちゃんと出た。
誰にも届かないくらいの声なら、出る。
そのことが、少しだけ悔しかった。
翌日の放課後。
事件は起きた。
「ない」
美月さんの声が、教室に響いた。
ざわついていた教室が、一瞬で静かになる。
「え?」
「何が?」
「映像データが、ない」
美月さんは共有パソコンの画面を食い入るように見つめていた。航くんが慌てて近づき、紗奈さんが「落ち着いて」と言いながら横に立つ。
「フォルダ間違えてない?」
「間違えるわけない。昨日、ここに保存した」
美月さんの声が震えていた。
クラスメイトたちが集まり始める。私も立ち上がったけれど、足が床に貼りついたように重かった。
「ごみ箱は?」
「ない」
「バックアップは?」
「それも……見当たらない」
空気が一気に重くなる。
文化祭まで、あと六日。
撮り直しはできるかもしれない。でも、編集まで間に合うかはわからない。みんなが放課後を使って積み上げてきたものが、消えてしまった。
「昨日、最後にパソコンの近くにいたのって誰?」
誰かが言った。
その一言で、いくつもの視線が動いた。
そして、私のところで止まった。
心臓が、嫌な音を立てる。
「藤咲さん、昨日最後まで残ってたよね」
美月さんが私を見た。
違う。
私は何もしていない。
そう言いたかった。
「資料、パソコンの横に置いてたよね?」
私はうなずきかけて、止まる。
うなずいたら、認めたことになるのだろうか。
でも、うなずかなくても怪しまれる。
「何か見なかった?」
喉が、閉じた。
みんなの視線が痛い。
息が浅くなる。
「藤咲さん?」
美月さんの声が少し強くなる。
私は口を開いた。
けれど、空気だけが漏れた。
言葉にならない。
「黙ってちゃわかんないよ」
誰かが言った。
「もしかして、何か知ってる?」
「昨日、最後にいたんでしょ?」
「間違って消しちゃったとか?」
違う。
違う。
私は、消してない。
頭の中では、何度も言えた。
なのに、声だけが出ない。
手が震える。スマホを出して文字を打てばいい。そう思うのに、指がうまく動かなかった。
そのときだった。
「藤咲はやってないよ」
教室の後ろから、声がした。
黒瀬律くんだった。
いつの間に戻ってきたのか、ドアにもたれるように立っている。手にはまたコンビニの袋。けれど、いつものふざけた顔ではなかった。
「なんでわかるの?」
美月さんが聞く。
律くんは肩をすくめた。
「勘」
「は?」
「俺の勘、けっこう当たるよ。昨日も宇宙人見たし」
「黒瀬、今ふざける場面じゃない」
「ふざけてないって」
律くんはゆっくり教室の中に入ってきた。
「藤咲がやったなら、今みたいな顔しない」
「顔?」
「うん。やった奴は、責められたときに逃げ道を探す。藤咲は逃げ道じゃなくて、言葉を探してる顔してる」
胸の奥が、熱くなった。
言葉を探してる。
その一言だけで、息が少しできるようになった。
「でも、黒瀬の言うことなんて信じられないでしょ」
誰かが小さく言った。
「だって黒瀬、嘘つきじゃん」
空気が止まる。
律くんは笑った。
「まあね。嘘つき代表としては、嘘ついてる奴の顔くらいわかるんだよ」
笑っているのに、机の下で握った右手に力が入っている。
私はそれを見てしまった。
その後、担任の先生が来て、データの件はいったん確認することになった。今日の作業は中止。教室にいた全員に、昨日の行動をあとで聞くと言われた。
みんなが不安そうに帰り支度を始める中、私は席に座ったまま動けなかった。
疑われたことよりも、何も言えなかった自分が悔しかった。
空になった教室で、机の上に影が落ちる。
「帰んないの?」
律くんだった。
私はスマホを取り出し、震える指で文字を打つ。
《どうして、私じゃないって言ったの?》
画面を見せると、律くんは少しだけ目を細めた。
「言っただろ。嘘つきにはわかるんだよ」
私は次の文字を打つ。
《本当に?》
「半分本当」
律くんは窓の外を見た。
校庭では、運動部の掛け声が遠く聞こえる。
「もう半分は、なんか嫌だったから」
《嫌?》
「言えないやつに、言えって追い詰める感じ」
律くんの声は、いつもより低かった。
「俺、そういうの嫌い」
私は画面を見つめたまま、しばらく何も打てなかった。
誰かにかばわれるのは、怖い。
その人まで巻き込んでしまう気がするから。
《黒瀬くんまで疑われる》
「もう疑われてるから平気」
律くんは笑った。
「嘘つきって便利だよな。何しても、あいつならやりそうって思われる」
その笑顔は、やっぱり薄い紙みたいだった。
私は勇気を出して、もう一文打った。
《でも、私はやってない》
律くんは画面を見て、すぐに答えた。
「知ってる」
たったそれだけだった。
でも、私はその一言を、何度も胸の中で繰り返した。
知ってる。
信じる、ではなく。
知ってる。
まるで、私が声にできなかった本当を、もう受け取ってくれていたみたいだった。
「明日から、ちょっと調べるか」
律くんが言った。
私は目を上げる。
「データが勝手に消えるわけない。誰かがやったなら、何か残ってる」
《どうしてそこまでしてくれるの?》
そう打つと、律くんは少し考えた。
「面白そうだから」
すぐに、いつもの顔で笑う。
「あと、俺が真犯人だったら、ここで協力するふりした方が怪しまれないだろ?」
冗談なのはわかった。
けれど私は笑えなかった。
律くんも、それ以上はふざけなかった。
「大丈夫。俺は藤咲の味方ってわけじゃない」
少しだけ、胸が沈む。
けれど、律くんは続けた。
「本当のことの味方」
その言葉に、私は顔を上げた。
律くんは照れたようにそっぽを向く。
「今の、ちょっと名言っぽくない? メモしといて」
私は初めて、少しだけ笑った。
声は出なかった。
でも、笑えた。
翌朝。
教室に入ると、いつもより早く来ている人が何人かいた。私の席の周りには誰もいない。けれど、空気は昨日と違っていた。
ざわざわとした視線。
ささやき声。
私が近づくと、少しだけ話が止まる。
机の横に鞄をかけようとして、私は気づいた。
机の中に、白い紙が一枚入っている。
ノートの切れ端だった。
折りたたまれている。
嫌な予感がした。
そっと開く。
そこには、黒いペンで短く書かれていた。
《黙っていれば、全部あなたのせいで終わるよ》
指先が冷たくなる。
声が出ない私の喉の奥で、見えない鍵が、また重く閉まった。
言いたいことはある。頭の中では、ちゃんと文章になっている。違います。私は知りません。どうしてそう思うんですか。そう言いたいのに、口を開いた瞬間、声だけがどこかへ消えてしまう。
高校二年になっても、それは変わらなかった。
文化祭まで、あと一週間。
放課後の教室は、いつもより少しだけ熱を帯びていた。机は端に寄せられ、床には模造紙や色画用紙、ケーブル類が散らばっている。窓際では飾りつけ班が折り紙の花を作り、黒板の前では発表班が原稿を読み合わせていた。
私たち二年三組の出し物は、映像発表だ。
テーマは「透明な声」。
クラスのみんなで撮影した短い映像に、ナレーションと音楽を重ねて体育館で上映する。中心になっているのは、明るくて、何でもはっきり言える七瀬美月さんだった。
「藤咲さん、そこの資料、番号順に並べてもらっていい?」
美月さんに声をかけられ、私は小さくうなずいた。
返事の代わりに、胸の前で軽く手を上げる。
それが、私のいつもの返事だった。
藤咲こはる。高校二年生。
人前で声が出ない。
完全に話せないわけではない。家では母と普通に話せるし、親しい人と二人きりなら短い言葉くらいは出る。けれど、教室で誰かに見られていると、だめだった。喉が固まって、息だけが浅くなる。
「ほんと、藤咲さんって静かだよね」
誰かが言った。
「怒ってるのか、何も考えてないのか、わかんない」
笑い声が少しだけ広がる。
私は聞こえなかったふりをして、プリントの束を整えた。
こういうとき、傷ついた顔をしてはいけない。余計に面倒なことになる。そう覚えたのは、中学の頃だった。
「おーい、みなさん。重大発表です」
教室の後ろから、やけに明るい声が飛んできた。
黒瀬律くんだった。
片手にコンビニの袋をぶら下げ、もう片方の手でなぜか指揮者みたいに空中を切っている。少し長めの前髪が目にかかっていて、制服のネクタイはゆるい。先生に注意されるぎりぎりのだらしなさを、わざと選んでいるような人だった。
「俺、昨日、宇宙人に会いました」
「また始まった」
「はいはい」
クラスメイトたちは、慣れたように笑う。
律くんは気にせず続けた。
「しかも二人。片方は校長に似てた。もう片方は数学の小野先生に似てた。たぶんこの学校、すでに侵略されてる」
「黒瀬、それ文化祭で発表したら?」
「いいね。タイトルは『うちの校長、実は火星人』で」
「怒られるって」
教室が少し明るくなる。
黒瀬律くんは、そういう人だった。いつも軽口を言って、適当な嘘をついて、みんなを笑わせる。だけど、誰も律くんのことを本気で信じてはいない。
黒瀬は嘘つきだから。
その言葉を、私は何度も聞いたことがあった。
「黒瀬、遊んでないで手伝ってよ」
美月さんが少し呆れた声で言う。
「手伝ってるじゃん。クラスの士気を上げてる」
「それ、いちばんいらない」
「ひどい。俺の存在価値を全否定された」
律くんは胸を押さえて大げさによろける。
周りがまた笑う。
私はプリントを並べながら、少しだけ律くんを見た。
笑っている。
けれど、その笑顔はときどき、薄い紙みたいに見える。
どうしてそう思うのかは、自分でもわからない。
ただ、律くんが嘘をつくとき、笑うより先にほんの少しだけ目を伏せることを、私は知っていた。
その日の作業は、いつもより遅くまで続いた。
映像データの最終確認があるから、と美月さんが共有パソコンを開いていた。私はその横で、発表順のメモを作っていた。クラスの人数分、配布用の資料をホチキスで留めていく。
「藤咲さん、これ終わったら先帰っていいよ」
美月さんが画面を見たまま言った。
私はうなずく。
本当は、もう少し手伝った方がいいのかもしれない。でも、声で「ほかにできることある?」と聞けない私は、言われたことだけをする人になってしまう。
教室には、私と美月さん、それから機材係の三井航くん、委員長の佐倉紗奈さんが残っていた。律くんは途中で「購買に幻の焼きそばパンを探しに行く」と言って消えた。
「バックアップ、ちゃんと取ってるよね?」
紗奈さんが美月さんに確認する。
「もちろん。大丈夫」
美月さんは少し得意げに答えた。
「明日のリハで流せば、ほぼ完成だと思う」
「よかった」
航くんが小さく息をついた。
その声に、私は少しだけ顔を上げた。
航くんの指先が、机の端をとん、とん、と叩いている。いつもより速い。緊張しているのかな、と思った。けれど、その理由まではわからなかった。
作業が終わった頃、外はすっかり暗くなっていた。
私は最後に机の上のプリントを整え、共有パソコンの近くに置いた。美月さんは先生に呼ばれて職員室へ行き、紗奈さんも鍵の返却について確認すると言って教室を出ていった。航くんは、機材を片づけながら「先に帰る」と言った。
教室に一人になる。
静かだった。
誰も見ていない教室なら、私は少し息がしやすい。
「……つかれた」
小さく声に出してみる。
ちゃんと出た。
誰にも届かないくらいの声なら、出る。
そのことが、少しだけ悔しかった。
翌日の放課後。
事件は起きた。
「ない」
美月さんの声が、教室に響いた。
ざわついていた教室が、一瞬で静かになる。
「え?」
「何が?」
「映像データが、ない」
美月さんは共有パソコンの画面を食い入るように見つめていた。航くんが慌てて近づき、紗奈さんが「落ち着いて」と言いながら横に立つ。
「フォルダ間違えてない?」
「間違えるわけない。昨日、ここに保存した」
美月さんの声が震えていた。
クラスメイトたちが集まり始める。私も立ち上がったけれど、足が床に貼りついたように重かった。
「ごみ箱は?」
「ない」
「バックアップは?」
「それも……見当たらない」
空気が一気に重くなる。
文化祭まで、あと六日。
撮り直しはできるかもしれない。でも、編集まで間に合うかはわからない。みんなが放課後を使って積み上げてきたものが、消えてしまった。
「昨日、最後にパソコンの近くにいたのって誰?」
誰かが言った。
その一言で、いくつもの視線が動いた。
そして、私のところで止まった。
心臓が、嫌な音を立てる。
「藤咲さん、昨日最後まで残ってたよね」
美月さんが私を見た。
違う。
私は何もしていない。
そう言いたかった。
「資料、パソコンの横に置いてたよね?」
私はうなずきかけて、止まる。
うなずいたら、認めたことになるのだろうか。
でも、うなずかなくても怪しまれる。
「何か見なかった?」
喉が、閉じた。
みんなの視線が痛い。
息が浅くなる。
「藤咲さん?」
美月さんの声が少し強くなる。
私は口を開いた。
けれど、空気だけが漏れた。
言葉にならない。
「黙ってちゃわかんないよ」
誰かが言った。
「もしかして、何か知ってる?」
「昨日、最後にいたんでしょ?」
「間違って消しちゃったとか?」
違う。
違う。
私は、消してない。
頭の中では、何度も言えた。
なのに、声だけが出ない。
手が震える。スマホを出して文字を打てばいい。そう思うのに、指がうまく動かなかった。
そのときだった。
「藤咲はやってないよ」
教室の後ろから、声がした。
黒瀬律くんだった。
いつの間に戻ってきたのか、ドアにもたれるように立っている。手にはまたコンビニの袋。けれど、いつものふざけた顔ではなかった。
「なんでわかるの?」
美月さんが聞く。
律くんは肩をすくめた。
「勘」
「は?」
「俺の勘、けっこう当たるよ。昨日も宇宙人見たし」
「黒瀬、今ふざける場面じゃない」
「ふざけてないって」
律くんはゆっくり教室の中に入ってきた。
「藤咲がやったなら、今みたいな顔しない」
「顔?」
「うん。やった奴は、責められたときに逃げ道を探す。藤咲は逃げ道じゃなくて、言葉を探してる顔してる」
胸の奥が、熱くなった。
言葉を探してる。
その一言だけで、息が少しできるようになった。
「でも、黒瀬の言うことなんて信じられないでしょ」
誰かが小さく言った。
「だって黒瀬、嘘つきじゃん」
空気が止まる。
律くんは笑った。
「まあね。嘘つき代表としては、嘘ついてる奴の顔くらいわかるんだよ」
笑っているのに、机の下で握った右手に力が入っている。
私はそれを見てしまった。
その後、担任の先生が来て、データの件はいったん確認することになった。今日の作業は中止。教室にいた全員に、昨日の行動をあとで聞くと言われた。
みんなが不安そうに帰り支度を始める中、私は席に座ったまま動けなかった。
疑われたことよりも、何も言えなかった自分が悔しかった。
空になった教室で、机の上に影が落ちる。
「帰んないの?」
律くんだった。
私はスマホを取り出し、震える指で文字を打つ。
《どうして、私じゃないって言ったの?》
画面を見せると、律くんは少しだけ目を細めた。
「言っただろ。嘘つきにはわかるんだよ」
私は次の文字を打つ。
《本当に?》
「半分本当」
律くんは窓の外を見た。
校庭では、運動部の掛け声が遠く聞こえる。
「もう半分は、なんか嫌だったから」
《嫌?》
「言えないやつに、言えって追い詰める感じ」
律くんの声は、いつもより低かった。
「俺、そういうの嫌い」
私は画面を見つめたまま、しばらく何も打てなかった。
誰かにかばわれるのは、怖い。
その人まで巻き込んでしまう気がするから。
《黒瀬くんまで疑われる》
「もう疑われてるから平気」
律くんは笑った。
「嘘つきって便利だよな。何しても、あいつならやりそうって思われる」
その笑顔は、やっぱり薄い紙みたいだった。
私は勇気を出して、もう一文打った。
《でも、私はやってない》
律くんは画面を見て、すぐに答えた。
「知ってる」
たったそれだけだった。
でも、私はその一言を、何度も胸の中で繰り返した。
知ってる。
信じる、ではなく。
知ってる。
まるで、私が声にできなかった本当を、もう受け取ってくれていたみたいだった。
「明日から、ちょっと調べるか」
律くんが言った。
私は目を上げる。
「データが勝手に消えるわけない。誰かがやったなら、何か残ってる」
《どうしてそこまでしてくれるの?》
そう打つと、律くんは少し考えた。
「面白そうだから」
すぐに、いつもの顔で笑う。
「あと、俺が真犯人だったら、ここで協力するふりした方が怪しまれないだろ?」
冗談なのはわかった。
けれど私は笑えなかった。
律くんも、それ以上はふざけなかった。
「大丈夫。俺は藤咲の味方ってわけじゃない」
少しだけ、胸が沈む。
けれど、律くんは続けた。
「本当のことの味方」
その言葉に、私は顔を上げた。
律くんは照れたようにそっぽを向く。
「今の、ちょっと名言っぽくない? メモしといて」
私は初めて、少しだけ笑った。
声は出なかった。
でも、笑えた。
翌朝。
教室に入ると、いつもより早く来ている人が何人かいた。私の席の周りには誰もいない。けれど、空気は昨日と違っていた。
ざわざわとした視線。
ささやき声。
私が近づくと、少しだけ話が止まる。
机の横に鞄をかけようとして、私は気づいた。
机の中に、白い紙が一枚入っている。
ノートの切れ端だった。
折りたたまれている。
嫌な予感がした。
そっと開く。
そこには、黒いペンで短く書かれていた。
《黙っていれば、全部あなたのせいで終わるよ》
指先が冷たくなる。
声が出ない私の喉の奥で、見えない鍵が、また重く閉まった。

