明けで帰ってくる遥希と花島が、会うと言っていた約束の日。
芽依子は、早番出勤なので遥希とは顔を合わせていない。
(……ご飯行くのかな……ヨリを戻すとか……)
手を休める度に、ネガティブな妄想が頭をよぎる。
切り替えるために用意したカフェオレも、すでに空っぽだ。
「……気にしない!集中しろ、芽依子っ」
こんな調子で、仕事が捗るわけもなく、気付けば終業時間をオーバーしていた。
(あぁ……こんなの社会人失格だよね……)
自己嫌悪に苛まれつつ通用口を出ると、目の前に今一番会いたくない人が立っている。
「……花島さん?」
「お疲れさまです、水谷さん。ちょっと付き合ってもらえますか?」
そう言うと花島は、芽依子の手を取りそのまま歩きだす。
有無を言わさない、その強引さも、ある意味彼女の魅力なのかもしれない。
おろした髪から漂う気配が、職場とは違っていて、芽依子はぼんやりとついて行く。
「水谷さんは何飲む?」
「……ウーロン茶で」
「あたしビール飲むけどいい?」
百貨店からそれほど遠くない場所にある、有名チェーンの居酒屋。
案内されたカウンター席に座り、花島は慣れた手つきで注文していく。
「じゃ、カンパーイ」
芽依子のテンションとは正反対の、軽やかでリズミカルな音。
口に含んだウーロン茶の渋さが、より際だって喉の奥に残る。
「あの……話ってなんですか?」
ウーロン茶のグラスを置き、芽依子はおそるおそる切り出した。
対照的に、和可子は手慣れた手つきでお通しの枝豆を剥き、からかいを含んだ視線を向けてくる。
「気になってるでしょ?今日遥希と会ってたこと」
「……いえ」
「あははっ、昔のめいちゃんのがよっぽど素直ね。あの時、あなたは「遥希を取らないで」って顔してたわよ」
隠していたはずの感情が、鮮明に蘇って芽依子の中を駆け巡る。
「だからあの時、もう一回、キスしてってせがんだのよ」
「……なんでそんなこと……」
「イイコちゃんのめいちゃんには、わかんないでしょうね。……彼女なのに一番じゃない辛さ」
花島は一気にビールを煽り、空になったグラスをテーブルに置いた。
その瞳に、一瞬だけ鋭い切なさが宿る。
「あたしだって、花島さんが羨ましいです……」
「何それ、嫌み?……あんた、あいつの真ん中に居座り続けてるくせにね。……そりゃ意地悪もしたくなるわよ」
花島は鼻で笑い、空になったジョッキを軽く掲げた。
そして、芽依子の鞄から覗く本に目をやった。
「試験受けないのも、遥希が理由?」
「違います……」
「遥希ってね、好きな相手には何でもしてあげるの」
花島の言葉は、芽依子の中でうやむやにしている違和感を引っ張り出す。
「でも、“してあげる”で囲うの上手いんだよね」
「わかります……」
水滴で濡れたグラスに映る芽依子は、まるで泣いているみたいに。
抑えきれない本音を、溢し始める。
「はる兄はすごく優しくて、でも時々思うんです。彼の中で、あたしはいつまでも「妹」のままなんじゃないかって……」
「自分でもわからなくなって……少し距離を置こうかな……」
「やっと息苦しくなった?」
花島は、届いたばかりのビールを一気に流し込んだ。
視線はそのままに、花島が冷たく笑う。
「あんた、自分で選ばなくなるよ。ちゃんと自分で選びなよ」
慰めるわけでも、かといって、突き放すわけでもない。
絶妙な毒加減は、芽依子の中で燻っていた「答え」をあぶり出す。
「花島さん……」
「……まあ、ちょっとくらい困ればいいと思ってたけど」
芽依子は、初めて素直に笑みがこぼれる。
彼女から香るロストチェリーの甘い香りは、いつもより少しだけ、不器用だった。
***
花島と飲んだ日の帰り。
遥希は迎えに行くと言ったが、芽依子は丁重に断った。
家に帰ると、遥希は変わらない笑顔で「おかえり」と抱きしめた。
石鹸の香りごと、壊れ物みたいに。
相手は誰かと聞いてきたものの、終始、芽依子の世話を焼いていた。
(うーん……はる兄は過保護がスタンダードなんだよね)
距離を置くことも、前みたいな拒絶じゃない。
それをどう切り出すか悩んでいた。
「芽、依、子」
売り場の通路で、低く粘りつくような声で呼ばれた。
振り返った瞬間、芽依子の顔から血の気が引く。
そこには、二度と会いたくなかった男――江崎が、ニヤニヤと薄笑いを浮かべて立っていた。
「……江崎さん」
「ラッキー。終業まで待つ手間、省けた」
「……何か御用でしょうか」
芽依子は巡回用のスマホを手に、一歩身を引く。
かつての恐怖と治ったはずの背中が、痛み出す。
ただ、あの心臓を鷲づかみされたほどではない。その恐怖は、以前よりも静かにざわめくほどだ。
「そんな警戒しなくても……話くらいいいだろ?」
「業務中ですので」
「あの消防士の前だともっと素直じゃん。……あいつがいなきゃ何もできねえくせに」
江崎の言葉に、昨夜の花島の声が重なる。
『“してあげる”で囲うの上手いんだよね』
(……違う。あたしは、もう……)
芽依子は深く息を吸い、江崎をまっすぐに見据えた。
その瞳に、怯え以上に毅然とした色が滲む。
「こちらには、話すことはございません」
「はぁ?悪者みたいじゃん」
「もう少し、お静かに願います」
「俺はお客様だろうがっ!」
売り場に響き渡る江崎の怒号。
周囲の視線が一斉に集まる。
かつての芽依子なら、この空気に耐えきれず泣き出していただろう。
けれど今は、うそみたいに静かだ。
「他のお客様のご迷惑になります。これ以上、続くようなら警備に連絡します」
「……まじかよ、そこまでするか?」
「私が嫌だと言っています」
「どうぞ、お引き取りください」
その声は震えていなかった。
江崎の知っている芽依子とは違う。
はっきりとした拒絶に圧倒されたように言葉を失い、舌打ちだけを残して足早に去っていった。
「何あいつ……大丈夫?」
「元カレです……ご迷惑をおかけしました」
売り場フロアの同僚が声をかけた。
芽依子は軽く頭を下げて、客へのフォローにまわる。
謝罪する芽依子の手は、わずかに震えていた。
けれどそれは、恐怖からではない。
自分の力で、過去を振り払ったことへの、確かな手応えだった。
(大丈夫……今ならちゃんとわかる)
(はる兄に甘えてたんだ……)
(あたしは、はる兄と対等でいたい……だから)
「ごめん、今日はひとりでいたい」
仕事が終わった芽依子は、遥希に短いメッセージを送る。
そのまま、実家に向かう電車に飛び乗った。
芽依子は、早番出勤なので遥希とは顔を合わせていない。
(……ご飯行くのかな……ヨリを戻すとか……)
手を休める度に、ネガティブな妄想が頭をよぎる。
切り替えるために用意したカフェオレも、すでに空っぽだ。
「……気にしない!集中しろ、芽依子っ」
こんな調子で、仕事が捗るわけもなく、気付けば終業時間をオーバーしていた。
(あぁ……こんなの社会人失格だよね……)
自己嫌悪に苛まれつつ通用口を出ると、目の前に今一番会いたくない人が立っている。
「……花島さん?」
「お疲れさまです、水谷さん。ちょっと付き合ってもらえますか?」
そう言うと花島は、芽依子の手を取りそのまま歩きだす。
有無を言わさない、その強引さも、ある意味彼女の魅力なのかもしれない。
おろした髪から漂う気配が、職場とは違っていて、芽依子はぼんやりとついて行く。
「水谷さんは何飲む?」
「……ウーロン茶で」
「あたしビール飲むけどいい?」
百貨店からそれほど遠くない場所にある、有名チェーンの居酒屋。
案内されたカウンター席に座り、花島は慣れた手つきで注文していく。
「じゃ、カンパーイ」
芽依子のテンションとは正反対の、軽やかでリズミカルな音。
口に含んだウーロン茶の渋さが、より際だって喉の奥に残る。
「あの……話ってなんですか?」
ウーロン茶のグラスを置き、芽依子はおそるおそる切り出した。
対照的に、和可子は手慣れた手つきでお通しの枝豆を剥き、からかいを含んだ視線を向けてくる。
「気になってるでしょ?今日遥希と会ってたこと」
「……いえ」
「あははっ、昔のめいちゃんのがよっぽど素直ね。あの時、あなたは「遥希を取らないで」って顔してたわよ」
隠していたはずの感情が、鮮明に蘇って芽依子の中を駆け巡る。
「だからあの時、もう一回、キスしてってせがんだのよ」
「……なんでそんなこと……」
「イイコちゃんのめいちゃんには、わかんないでしょうね。……彼女なのに一番じゃない辛さ」
花島は一気にビールを煽り、空になったグラスをテーブルに置いた。
その瞳に、一瞬だけ鋭い切なさが宿る。
「あたしだって、花島さんが羨ましいです……」
「何それ、嫌み?……あんた、あいつの真ん中に居座り続けてるくせにね。……そりゃ意地悪もしたくなるわよ」
花島は鼻で笑い、空になったジョッキを軽く掲げた。
そして、芽依子の鞄から覗く本に目をやった。
「試験受けないのも、遥希が理由?」
「違います……」
「遥希ってね、好きな相手には何でもしてあげるの」
花島の言葉は、芽依子の中でうやむやにしている違和感を引っ張り出す。
「でも、“してあげる”で囲うの上手いんだよね」
「わかります……」
水滴で濡れたグラスに映る芽依子は、まるで泣いているみたいに。
抑えきれない本音を、溢し始める。
「はる兄はすごく優しくて、でも時々思うんです。彼の中で、あたしはいつまでも「妹」のままなんじゃないかって……」
「自分でもわからなくなって……少し距離を置こうかな……」
「やっと息苦しくなった?」
花島は、届いたばかりのビールを一気に流し込んだ。
視線はそのままに、花島が冷たく笑う。
「あんた、自分で選ばなくなるよ。ちゃんと自分で選びなよ」
慰めるわけでも、かといって、突き放すわけでもない。
絶妙な毒加減は、芽依子の中で燻っていた「答え」をあぶり出す。
「花島さん……」
「……まあ、ちょっとくらい困ればいいと思ってたけど」
芽依子は、初めて素直に笑みがこぼれる。
彼女から香るロストチェリーの甘い香りは、いつもより少しだけ、不器用だった。
***
花島と飲んだ日の帰り。
遥希は迎えに行くと言ったが、芽依子は丁重に断った。
家に帰ると、遥希は変わらない笑顔で「おかえり」と抱きしめた。
石鹸の香りごと、壊れ物みたいに。
相手は誰かと聞いてきたものの、終始、芽依子の世話を焼いていた。
(うーん……はる兄は過保護がスタンダードなんだよね)
距離を置くことも、前みたいな拒絶じゃない。
それをどう切り出すか悩んでいた。
「芽、依、子」
売り場の通路で、低く粘りつくような声で呼ばれた。
振り返った瞬間、芽依子の顔から血の気が引く。
そこには、二度と会いたくなかった男――江崎が、ニヤニヤと薄笑いを浮かべて立っていた。
「……江崎さん」
「ラッキー。終業まで待つ手間、省けた」
「……何か御用でしょうか」
芽依子は巡回用のスマホを手に、一歩身を引く。
かつての恐怖と治ったはずの背中が、痛み出す。
ただ、あの心臓を鷲づかみされたほどではない。その恐怖は、以前よりも静かにざわめくほどだ。
「そんな警戒しなくても……話くらいいいだろ?」
「業務中ですので」
「あの消防士の前だともっと素直じゃん。……あいつがいなきゃ何もできねえくせに」
江崎の言葉に、昨夜の花島の声が重なる。
『“してあげる”で囲うの上手いんだよね』
(……違う。あたしは、もう……)
芽依子は深く息を吸い、江崎をまっすぐに見据えた。
その瞳に、怯え以上に毅然とした色が滲む。
「こちらには、話すことはございません」
「はぁ?悪者みたいじゃん」
「もう少し、お静かに願います」
「俺はお客様だろうがっ!」
売り場に響き渡る江崎の怒号。
周囲の視線が一斉に集まる。
かつての芽依子なら、この空気に耐えきれず泣き出していただろう。
けれど今は、うそみたいに静かだ。
「他のお客様のご迷惑になります。これ以上、続くようなら警備に連絡します」
「……まじかよ、そこまでするか?」
「私が嫌だと言っています」
「どうぞ、お引き取りください」
その声は震えていなかった。
江崎の知っている芽依子とは違う。
はっきりとした拒絶に圧倒されたように言葉を失い、舌打ちだけを残して足早に去っていった。
「何あいつ……大丈夫?」
「元カレです……ご迷惑をおかけしました」
売り場フロアの同僚が声をかけた。
芽依子は軽く頭を下げて、客へのフォローにまわる。
謝罪する芽依子の手は、わずかに震えていた。
けれどそれは、恐怖からではない。
自分の力で、過去を振り払ったことへの、確かな手応えだった。
(大丈夫……今ならちゃんとわかる)
(はる兄に甘えてたんだ……)
(あたしは、はる兄と対等でいたい……だから)
「ごめん、今日はひとりでいたい」
仕事が終わった芽依子は、遥希に短いメッセージを送る。
そのまま、実家に向かう電車に飛び乗った。



