その視線の意味に気づいた瞬間、胸の奥で、古い記憶が音を立てた。
――中一の冬休みに入る終業日。
遥希の実家の部屋で、制服姿の知らない女の子がキスをしていた。
あの日、芽依子が逃げた理由。
蓋をしていたはずの初恋が、今さらみたいに疼きだす。
「その顔……思い出したみたいね」
「……はる兄の……」
「そう、彼女よ」
分かっていたはずの言葉は、容赦なく芽依子の胸に突き刺さる。
「あなたは、幼なじみのめいちゃんでしょ。あの時見たまんまだったから、すぐにわかったわ」
花島はデスクに肘をつき、芽依子の反応を楽しむように目を細めた。
「まさか同僚として会うとは思わなかったけど。……今、遥希と一緒に住んでるんでしょ?」
小さく頷くのが精一杯だったが、それでも芽依子は視線を逸らさなかった。
「……あの、はる兄が嘘つきで欲張りってどういうことですか?」
「それはあなたが一番よく知ってるんじゃない?……あ、でも今も遥希に守られてる側だもんね」
答えにならない答えに、芽依子は唇を噛む。
彼女の纏うロストチェリーの香りが、胸の奥に沈んでいた嫉妬心を、執拗に焚き付けていく。
「ねぇ、初恋ヒーローの腕の中は、息苦しいんじゃない?」
その瞬間、芽依子の肩が強張った。
嫌な汗が、じっとりと肌に絡み付く。
(なんで違うって、言えないの……)
「あら、二人してどうしたの?手詰まり?」
資料室から戻った小田の登場で、二人の間に流れていた不穏な空気が霧散していく。
振り向くと、資料を抱えた小田が不思議そうに首を傾げている。
切り替えた花島は、自然な笑みに戻っていた。
「大丈夫です、ファイルの場所がわからなかったので、水谷さんに教えてもらってたんです」
「あぁ、これね!分かりにくいわよねぇ~営業担当者も、こっちのこと考えてほしいわよねぇ」
やれやれといった表情だったが、芽依子の様子に気付き、慌てて顔を覗き込む。
「水谷ちゃんっ、顔真っ青よっ……大丈夫?」
「……大丈夫です、ちょっと暑さにやられたみたいです……」
芽依子は乾いた笑いと手振りで答える。
その様子に安心した小田は、思い出したように話題を切り替えた。
「そういえば、試験申し込んだ?」
「まだ悩んでて……」
「勿体ないわよ。受けるだけでもやってみたら?」
「なんの話ですか?」
声こそ穏やかだが、花島はどこか挑発的な眼差しで見つめる。
芽依子は少しばつが悪そうに視線を逸らした。
「水谷ちゃんの主任登用試験。今年推薦してるのよ」
「へぇー……凄いですね、水谷さん」
「いえ……そんな……」
「締め切りまではまだ日があるから。もう一回よく考えてみたら」
小田は明るく伝えると、自分の席へ戻っていく。
その後ろ姿を見送ったあと、花島の唇が、音もなく芽依子の耳元で動いた。
「チャンスを与えられてるのに……また逃げるのね」
「逃げてなんかっ……」
「そう?そんな調子じゃ……明日遥希を貰うわね」
***
花島の言葉が、耳の奥で何度も反響する。
――遥希を貰う。
その意味が分からないほど、もう幼くない。
思い出したくなかった記憶が、ゆっくり繋がっていく。
遥希の実家の階段を駆け上がる足音。
部屋に香るフレッシュグリーンの匂い。
一緒に潜った布団のあたたかさ。
あの日も、いつもと同じだった。
――遥希の部屋のドアを開けるまでは。
「は~る~に~ぃ~?」
「あら、めいちゃん、おかえり。鍵空いてへん?」
芽依子は、玄関横に立ち、慣れた調子で二階に向かって呼んでいた。
買い物帰りの遥希の母親――清子が、呆れながら鍵を回す。
「はるママ、ただいま!うん、ピンポンしても返事なかったよ」
「はる兄寝てるのかな?」
「ほんま、あの子は……」
キッチンに荷物を置くのを手伝ったあと、リビングも見たが遥希の姿はない。
「あたしみてくるね!」
「お願いね、めいちゃんおやつあるから、おりてきたら食べよ」
いつものように駆け上がろうとして、ピタッと止まる。
芽依子の中に、イタズラ心がむくむくと沸き上がった。
(寝てるなら……驚かせちゃお!)
忍び足で登り、突き当たりの部屋まで慎重に進んでいく。
するとドアの向こうから、話し声が聞こえてきた。
「……いいでしょ?遥希」
「……はぁ……好きにしたら?」
遥希とは別に、聞き慣れない声。
(はる兄と……だれ?)
芽依子は静かにドアノブに手を掛け、そっと開いた。
「っ!!」
遥希の背中越しに、見えた同じ制服を着た髪の長い女の子。
顔が重なって見えたのは、気のせいだろうか。
すると、視線がかち合った。
(女の人……こっちみた!)
驚いた芽依子に気づいたものの、彼女は遥希に向き合う。
「ねっ……もう一回しよ?」
彼女の手が遥希の耳に触れて、そのまま目を閉じた。
今度ははっきりと、ゆっくりと。
さすがに芽依子も分かってしまった。
叫びそうになるのを、両手で押さえ込む。
涙が溢れて濡れていくのに、喉の奥は乾いてひりつく。
呼吸の仕方を忘れたみたいに、うまく息ができない。
(なんで……はる兄とキスしたの?)
ただ視線は逸らせなかった。
瞳に焼き付く、彼女の勝ち誇ったような笑み。
(やだ……やだよ……はる兄のバカっ!)
芽依子はゆっくりと後退り、逃げるように、でも静かに階段を降りた。
するとキッチンから、おやつを手に芽依子を呼び止める。
「めいちゃん、どっち、食べたい?って、ちょっ……どうしたの!?」
「ごめんっ……はる……ママ……。帰るっ」
その日の夜、遥希は何度も会いに来た。
けれど芽依子は、布団を被ったまま声を殺して泣いた。
「会いたくないっ」
それしか言えなかった。
気付けば意地は拗れに変わり、素直になれないまま時だけが過ぎていった。
(子どもじみた嫉妬心……)
(それでも、はる兄は変わらずに、あたしをそばにいさせてくれる)
「花島さんは、今でもはる兄のこと……好きなのかな」
(花島さんが相手でも……)
「でも……あたしも好き」
(なのに、好きなのに、しんどい)
あのときとは違う、二律背反な痛み。
芽依子の心は、揺れていた。
――中一の冬休みに入る終業日。
遥希の実家の部屋で、制服姿の知らない女の子がキスをしていた。
あの日、芽依子が逃げた理由。
蓋をしていたはずの初恋が、今さらみたいに疼きだす。
「その顔……思い出したみたいね」
「……はる兄の……」
「そう、彼女よ」
分かっていたはずの言葉は、容赦なく芽依子の胸に突き刺さる。
「あなたは、幼なじみのめいちゃんでしょ。あの時見たまんまだったから、すぐにわかったわ」
花島はデスクに肘をつき、芽依子の反応を楽しむように目を細めた。
「まさか同僚として会うとは思わなかったけど。……今、遥希と一緒に住んでるんでしょ?」
小さく頷くのが精一杯だったが、それでも芽依子は視線を逸らさなかった。
「……あの、はる兄が嘘つきで欲張りってどういうことですか?」
「それはあなたが一番よく知ってるんじゃない?……あ、でも今も遥希に守られてる側だもんね」
答えにならない答えに、芽依子は唇を噛む。
彼女の纏うロストチェリーの香りが、胸の奥に沈んでいた嫉妬心を、執拗に焚き付けていく。
「ねぇ、初恋ヒーローの腕の中は、息苦しいんじゃない?」
その瞬間、芽依子の肩が強張った。
嫌な汗が、じっとりと肌に絡み付く。
(なんで違うって、言えないの……)
「あら、二人してどうしたの?手詰まり?」
資料室から戻った小田の登場で、二人の間に流れていた不穏な空気が霧散していく。
振り向くと、資料を抱えた小田が不思議そうに首を傾げている。
切り替えた花島は、自然な笑みに戻っていた。
「大丈夫です、ファイルの場所がわからなかったので、水谷さんに教えてもらってたんです」
「あぁ、これね!分かりにくいわよねぇ~営業担当者も、こっちのこと考えてほしいわよねぇ」
やれやれといった表情だったが、芽依子の様子に気付き、慌てて顔を覗き込む。
「水谷ちゃんっ、顔真っ青よっ……大丈夫?」
「……大丈夫です、ちょっと暑さにやられたみたいです……」
芽依子は乾いた笑いと手振りで答える。
その様子に安心した小田は、思い出したように話題を切り替えた。
「そういえば、試験申し込んだ?」
「まだ悩んでて……」
「勿体ないわよ。受けるだけでもやってみたら?」
「なんの話ですか?」
声こそ穏やかだが、花島はどこか挑発的な眼差しで見つめる。
芽依子は少しばつが悪そうに視線を逸らした。
「水谷ちゃんの主任登用試験。今年推薦してるのよ」
「へぇー……凄いですね、水谷さん」
「いえ……そんな……」
「締め切りまではまだ日があるから。もう一回よく考えてみたら」
小田は明るく伝えると、自分の席へ戻っていく。
その後ろ姿を見送ったあと、花島の唇が、音もなく芽依子の耳元で動いた。
「チャンスを与えられてるのに……また逃げるのね」
「逃げてなんかっ……」
「そう?そんな調子じゃ……明日遥希を貰うわね」
***
花島の言葉が、耳の奥で何度も反響する。
――遥希を貰う。
その意味が分からないほど、もう幼くない。
思い出したくなかった記憶が、ゆっくり繋がっていく。
遥希の実家の階段を駆け上がる足音。
部屋に香るフレッシュグリーンの匂い。
一緒に潜った布団のあたたかさ。
あの日も、いつもと同じだった。
――遥希の部屋のドアを開けるまでは。
「は~る~に~ぃ~?」
「あら、めいちゃん、おかえり。鍵空いてへん?」
芽依子は、玄関横に立ち、慣れた調子で二階に向かって呼んでいた。
買い物帰りの遥希の母親――清子が、呆れながら鍵を回す。
「はるママ、ただいま!うん、ピンポンしても返事なかったよ」
「はる兄寝てるのかな?」
「ほんま、あの子は……」
キッチンに荷物を置くのを手伝ったあと、リビングも見たが遥希の姿はない。
「あたしみてくるね!」
「お願いね、めいちゃんおやつあるから、おりてきたら食べよ」
いつものように駆け上がろうとして、ピタッと止まる。
芽依子の中に、イタズラ心がむくむくと沸き上がった。
(寝てるなら……驚かせちゃお!)
忍び足で登り、突き当たりの部屋まで慎重に進んでいく。
するとドアの向こうから、話し声が聞こえてきた。
「……いいでしょ?遥希」
「……はぁ……好きにしたら?」
遥希とは別に、聞き慣れない声。
(はる兄と……だれ?)
芽依子は静かにドアノブに手を掛け、そっと開いた。
「っ!!」
遥希の背中越しに、見えた同じ制服を着た髪の長い女の子。
顔が重なって見えたのは、気のせいだろうか。
すると、視線がかち合った。
(女の人……こっちみた!)
驚いた芽依子に気づいたものの、彼女は遥希に向き合う。
「ねっ……もう一回しよ?」
彼女の手が遥希の耳に触れて、そのまま目を閉じた。
今度ははっきりと、ゆっくりと。
さすがに芽依子も分かってしまった。
叫びそうになるのを、両手で押さえ込む。
涙が溢れて濡れていくのに、喉の奥は乾いてひりつく。
呼吸の仕方を忘れたみたいに、うまく息ができない。
(なんで……はる兄とキスしたの?)
ただ視線は逸らせなかった。
瞳に焼き付く、彼女の勝ち誇ったような笑み。
(やだ……やだよ……はる兄のバカっ!)
芽依子はゆっくりと後退り、逃げるように、でも静かに階段を降りた。
するとキッチンから、おやつを手に芽依子を呼び止める。
「めいちゃん、どっち、食べたい?って、ちょっ……どうしたの!?」
「ごめんっ……はる……ママ……。帰るっ」
その日の夜、遥希は何度も会いに来た。
けれど芽依子は、布団を被ったまま声を殺して泣いた。
「会いたくないっ」
それしか言えなかった。
気付けば意地は拗れに変わり、素直になれないまま時だけが過ぎていった。
(子どもじみた嫉妬心……)
(それでも、はる兄は変わらずに、あたしをそばにいさせてくれる)
「花島さんは、今でもはる兄のこと……好きなのかな」
(花島さんが相手でも……)
「でも……あたしも好き」
(なのに、好きなのに、しんどい)
あのときとは違う、二律背反な痛み。
芽依子の心は、揺れていた。



