夢の世界から引き戻された瞼が、ゆっくりと上がっていく。
スウィートオレンジの控えめな香りが、ここが誰のベッドなのか教えてくれた。
(初めて、はる兄のベッドで寝てるんだ……)
軽く身じろぐも、がっちりと腕も足もホールドされていて動けない。
どうにか視線だけ動かして、時計に目をやると、もう十五時を過ぎていた。
「うそっ!もうそんな時間?!」
あれから、どれだけ眠ったんだろう。
寝不足なのは芽依子も同じで、そのまま一緒に寝落ちたらしい。
隣の遥希はまだ寝ているので、起こさないよう脱出を試みる。
「んー……こら、めい……どこ行くねん」
伸びてきた手が、額に触れる。
確認したはずなのに、今度は額と額を合わせてもう一度、確かめる。
子どもみたいに扱われてるのに、嫌じゃない。
——むしろ、ほっとしてしまう。
「熱はないな」
「大丈夫だよ……」
「雨に濡れたん、甘く見んな。……風邪ひかれたら困るん、俺やねんから」
「それ言うなら、はる兄もだよ。健康第一」
「ほなもうちょい、ゴロゴロしとこ」
片手分しかない距離にある遥希の顔。
昨日の激情がうそみたいに、穏やかな寝起きの表情。
それは芽依子だけにしか見せていないと、瞳が伝えている。
「めーい、めい、めい……」
「……なに?」
「呼んだだけー」
遥希は布団を掛けなおして、子どもじみた笑顔でもぐる。
昔、二人で昼寝をしていた頃と変わらない顔。
離れていた時間なんてなかったみたいに――芽依子の鼓動を震わす。
「今日の晩めし、何食べたい?」
「んー……オイルパスタかなぁ」
「了解。まかせとき」
(はる兄といると、全部うまくいく気がする)
(あとは、あたしが選んで飛び込むだけだよね)
遥希お手製のアーリオオーリオのパスタは、オリーブオイルが香る幸せの味だった。
***
ピーッピーッと、乾燥機の仕上がり音が聞こえる。
夕飯の洗い物を終えた芽依子は、洗面所に向かった。
遥希が入浴中なので、手早く引き上げて、リビングで畳んでいく。
(あ、このタオル、そろそろ替えどきかも……)
(はる兄のハンカチは、あとでアイロンして)
(乾燥機があるって便利だな……二人分もあっという間に乾く)
芽依子を助けるための同居も、少しずつ二人暮らしのそれのように馴染んできている。
最初は戸惑っていた遥希の洗濯物も、今ではちゃんと直視できるようになった。
(あ……)
芽依子は、薄グレーの上着――救急服を手に取る。
畳んだものの、もう一度ひろげてみる。
昨日、自分を守るように包み込んでくれたあの時の感触と、微かに残る彼の匂い。
思わずそれを抱きしめて、顔を埋めてしまう。
(はる兄の匂い……。すごく、落ち着く……)
「はる兄……」
自分でも気づかないくらい小さく呼びながら、制服を強く抱きしめる。
「……何してんの、めい」
一瞬、言葉を失う芽依子に、遥希がゆっくり近づいてくる。
「……そんなんされたら、仕事行くの嫌になるやん」
後ろから、制服ごと芽依子を抱き寄せる。
まだ濡れている髪の先から、一滴の雫が芽依子の頬を撫ぜていく。
「はる兄っ……」
「俺おらんでも、制服で我慢できるん?」
耳元で囁かれた熱は、体温と溶けあって凶暴なほどに――芽依子の躊躇いを、易々と踏み越えていった。
抱きしめられた腕は、一瞬だけ強くなり、そっと離れる。
(もう、近い距離だけじゃ、物足りなくなってる)
芽依子の中で、少しずつ芽吹いていく、まだ名もなき感情。
「洗濯もん、ありがとうな。めいも風呂っといで」
「……うん。でも、はる兄、先に乾かさないと」
「じゃ、めいがやって」
返事も待たずに、畳んだタオルを持って洗面所に行く遥希。
すぐさま、ドライヤー片手に戻ってくる。
「はい、よろしくー」
床に座って、ぺこりと頭を下げて突き出す。
温風に乗って香る匂いは、同じシャンプーのもの。
手櫛でとかしていると、気持ちよさげに目を細めるのも、こんな甘えた遥希を知っているのは、自分だけ――そんな優越感にも似た充足感で満たされていった。
「試験対策問題集?……」
乾かし終えた遥希の目線にある一冊の本。
食後に目を通そうと、芽依子がダイニングテーブルに置いていたものだ。
「今度、主任登用試験があって、受けてみないかって」
「へぇー、ええやん。めいなら受かるわ」
遥希は当然みたいに言って、問題集をぱらぱらとめくる。
「でも、総務って覚えること多そう……」
「うっ……数字とか規定とか、苦手で」
「じゃ、俺が問題出したる」
「え?」
「夜、勉強会したるやん」
(まだ……受けるか悩んでるんだけど……)
当たり前みたいに隣にいる言い方。
それが嬉しくて、少しだけ苦しい。
「……はる兄って、なんでもできるよね」
「めい甘やかすんは得意やで」
くしゃりと笑って、遥希は芽依子の頭を軽く撫でる。
「はる兄はどうやって救急救命士の勉強してたの?」
「俺は、職場から専門学校に行ってたから、必然的にやるしかない環境やってん」
「そっか。国家資格だもんね……やっぱり凄いよ、はる兄」
「俺は、自分で頑張ろうとしてるめいのが凄いで。そういう頑張り屋なとこも好きやで」
その一言が、胸の奥へ静かに沈んでいく。
守られてるだけじゃない。
ちゃんと、自分を見てくれてる。
(……やっぱり、はる兄が好き)
素直に自然に、すとんと胸に落ちる、そう認めた瞬間だった。
スウィートオレンジの控えめな香りが、ここが誰のベッドなのか教えてくれた。
(初めて、はる兄のベッドで寝てるんだ……)
軽く身じろぐも、がっちりと腕も足もホールドされていて動けない。
どうにか視線だけ動かして、時計に目をやると、もう十五時を過ぎていた。
「うそっ!もうそんな時間?!」
あれから、どれだけ眠ったんだろう。
寝不足なのは芽依子も同じで、そのまま一緒に寝落ちたらしい。
隣の遥希はまだ寝ているので、起こさないよう脱出を試みる。
「んー……こら、めい……どこ行くねん」
伸びてきた手が、額に触れる。
確認したはずなのに、今度は額と額を合わせてもう一度、確かめる。
子どもみたいに扱われてるのに、嫌じゃない。
——むしろ、ほっとしてしまう。
「熱はないな」
「大丈夫だよ……」
「雨に濡れたん、甘く見んな。……風邪ひかれたら困るん、俺やねんから」
「それ言うなら、はる兄もだよ。健康第一」
「ほなもうちょい、ゴロゴロしとこ」
片手分しかない距離にある遥希の顔。
昨日の激情がうそみたいに、穏やかな寝起きの表情。
それは芽依子だけにしか見せていないと、瞳が伝えている。
「めーい、めい、めい……」
「……なに?」
「呼んだだけー」
遥希は布団を掛けなおして、子どもじみた笑顔でもぐる。
昔、二人で昼寝をしていた頃と変わらない顔。
離れていた時間なんてなかったみたいに――芽依子の鼓動を震わす。
「今日の晩めし、何食べたい?」
「んー……オイルパスタかなぁ」
「了解。まかせとき」
(はる兄といると、全部うまくいく気がする)
(あとは、あたしが選んで飛び込むだけだよね)
遥希お手製のアーリオオーリオのパスタは、オリーブオイルが香る幸せの味だった。
***
ピーッピーッと、乾燥機の仕上がり音が聞こえる。
夕飯の洗い物を終えた芽依子は、洗面所に向かった。
遥希が入浴中なので、手早く引き上げて、リビングで畳んでいく。
(あ、このタオル、そろそろ替えどきかも……)
(はる兄のハンカチは、あとでアイロンして)
(乾燥機があるって便利だな……二人分もあっという間に乾く)
芽依子を助けるための同居も、少しずつ二人暮らしのそれのように馴染んできている。
最初は戸惑っていた遥希の洗濯物も、今ではちゃんと直視できるようになった。
(あ……)
芽依子は、薄グレーの上着――救急服を手に取る。
畳んだものの、もう一度ひろげてみる。
昨日、自分を守るように包み込んでくれたあの時の感触と、微かに残る彼の匂い。
思わずそれを抱きしめて、顔を埋めてしまう。
(はる兄の匂い……。すごく、落ち着く……)
「はる兄……」
自分でも気づかないくらい小さく呼びながら、制服を強く抱きしめる。
「……何してんの、めい」
一瞬、言葉を失う芽依子に、遥希がゆっくり近づいてくる。
「……そんなんされたら、仕事行くの嫌になるやん」
後ろから、制服ごと芽依子を抱き寄せる。
まだ濡れている髪の先から、一滴の雫が芽依子の頬を撫ぜていく。
「はる兄っ……」
「俺おらんでも、制服で我慢できるん?」
耳元で囁かれた熱は、体温と溶けあって凶暴なほどに――芽依子の躊躇いを、易々と踏み越えていった。
抱きしめられた腕は、一瞬だけ強くなり、そっと離れる。
(もう、近い距離だけじゃ、物足りなくなってる)
芽依子の中で、少しずつ芽吹いていく、まだ名もなき感情。
「洗濯もん、ありがとうな。めいも風呂っといで」
「……うん。でも、はる兄、先に乾かさないと」
「じゃ、めいがやって」
返事も待たずに、畳んだタオルを持って洗面所に行く遥希。
すぐさま、ドライヤー片手に戻ってくる。
「はい、よろしくー」
床に座って、ぺこりと頭を下げて突き出す。
温風に乗って香る匂いは、同じシャンプーのもの。
手櫛でとかしていると、気持ちよさげに目を細めるのも、こんな甘えた遥希を知っているのは、自分だけ――そんな優越感にも似た充足感で満たされていった。
「試験対策問題集?……」
乾かし終えた遥希の目線にある一冊の本。
食後に目を通そうと、芽依子がダイニングテーブルに置いていたものだ。
「今度、主任登用試験があって、受けてみないかって」
「へぇー、ええやん。めいなら受かるわ」
遥希は当然みたいに言って、問題集をぱらぱらとめくる。
「でも、総務って覚えること多そう……」
「うっ……数字とか規定とか、苦手で」
「じゃ、俺が問題出したる」
「え?」
「夜、勉強会したるやん」
(まだ……受けるか悩んでるんだけど……)
当たり前みたいに隣にいる言い方。
それが嬉しくて、少しだけ苦しい。
「……はる兄って、なんでもできるよね」
「めい甘やかすんは得意やで」
くしゃりと笑って、遥希は芽依子の頭を軽く撫でる。
「はる兄はどうやって救急救命士の勉強してたの?」
「俺は、職場から専門学校に行ってたから、必然的にやるしかない環境やってん」
「そっか。国家資格だもんね……やっぱり凄いよ、はる兄」
「俺は、自分で頑張ろうとしてるめいのが凄いで。そういう頑張り屋なとこも好きやで」
その一言が、胸の奥へ静かに沈んでいく。
守られてるだけじゃない。
ちゃんと、自分を見てくれてる。
(……やっぱり、はる兄が好き)
素直に自然に、すとんと胸に落ちる、そう認めた瞬間だった。



