角を曲がるとすぐに見えた消防車や救急車に、芽依子は最後の力を振り絞って駆け込んだ。
受付にいた消防隊員が、青ざめた顔で今にも倒れそうな芽依子に駆け寄る。
「っあのっ・・・・・・はるっ・・・・・・」
「大丈夫ですかっ?」
「いけだ……はる、き……」
車両点検中だった他の隊員も何事かとやってきた。
すると鬼の形相だった江崎が、急に顔を変えて、息を整えつつ近寄る。
「すみませんっ・・・・・・痴話げんかでして・・・・・・ほら、芽依子、来い」
まだ息がもつれる芽依子は、かわりに首を横にふる。
「芽依子、消防署の人たちを困らすんじゃない。行くぞ」
「……いやっ」
江崎の腕が伸びてくる。
逃げられない――そう思った瞬間。
「……触んな」
怒気を含んだ低い声が、空気を裂いた。
「息できる?痛いとこある?触られた?」
「ううんっ・・・・・・」
遥希がタオルをかけて、優しく声をかける。
芽依子の足に気づき、後ろの隊員に救急セットを取りに行くよう伝えた。
「めい、よう頑張ったな、もう大丈夫やで」
「はる兄っ……」
「おまえっ!また邪魔しやがって」
「めいを怖がらせた時点で、お前の負けや」
「うるさいっ!!この女が俺の言うこと聞かねぇからだろっ!」
芽依子への侮辱に、遥希の指先がわずかに力を帯びる。
「自分は悪くない」と逆ギレするが、誰にも信じてもらえない。
逆上した江崎の拳が、遥希に向けられる。
けれど遥希は、一歩も下がらなかった。
「やめとけ」
低い声と同時に、振り上げられた手首を迷いなく掴む。
乱暴にねじ伏せたわけじゃなく、動きだけを封じる。
ただ、そのまま力を込めれば簡単に折れる、そんな殺気を込めたまま。
「ここ、どこかわかって言うてる?」
遥希の声は、怒りも侮蔑も全て押し殺し、ぞっとするほど冷静だった。
「消防署の前で、女性を追いかけ回して、隊員に暴力振るうつもりか」
周囲の隊員たちが、一斉に江崎を見る。
その視線に、江崎の顔色が変わった。
「これ以上つきまとうなら、警察に相談する。今日のことも、全部記録に残す」
「くそがっ……殴らねぇのかよ」
「殴らへんよ」
遥希はようやく手を離し、江崎を見下ろした。
「お前に落ちるほど、俺は安ない」
そして、芽依子を背中に隠すように立つ。
「二度目はない。めいに近づくな」
その背中に隠れながら、芽依子は初めて思った。
(――この人に、全部預けたら……戻れなくなる)
それでもいい、と。
思ってしまった時点で――もう遅かった。
***
朝日が差し込んだ明るいリビング。
時刻は十時を回っていた。
ソファの上で軽く伸びをして、カフェオレをおかわりしに行く。
『二度目はない。めいに近づくな』
遥希からの警告と警察という言葉、他の隊員たちも見ていたのが効いたのだろう。
江崎は『こんな女、こっちから願い下げだわっ』という捨て台詞とともに退散した。
足の傷を手当てしてくれた直後、出動指令が鳴り、遥希たちは慌ただしく出動していった。
救急車に乗り込む遥希に、芽依子は声をかける。
『家で、はる兄を……待ってるね』
マスクで見えなかったのに、『待ってろ』と言われたのがわかった。
(はる兄……まだかな)
もう何杯目かわからないカフェオレを啜る。
すると、玄関の鍵が回る、金属の乾いた音が静かな朝の空気に響いた。
夜通しソファの端で震えていた芽依子は、弾かれたように玄関へと駆け出す。
「おかえりっ……ちょ、はる兄っ――!」
遥希の顔が見たくて上げた瞬間、視界が激しく揺れた。
挨拶を飲み込む暇もなく、芽依子の体は強引に、けれど吸い寄せられるように遥希の逞しい腕の中に収まっていた。
片腕で抱き上げ、片方も、芽依子の背中を壊さんばかりの強さで絡めてきた。
限界まで引き寄せられ、薄いシャツ越しに伝わる遥希の動悸。
お互いの心臓の音が重なり合い、体内に直接響いてくるようだった。
「…………めい、ただいま」
「……はる兄」
肩に乗せられた遥希の額は、署からの道を走ってきたのかしっとりと汗ばんでいた。
(守られてる、って――こんなにも、熱くて、苦しいものなんだ)
けれど、その苦しさは心地よくて。
芽依子は無意識に、遥希の首筋に顔を埋めた。
「あかん――めっちゃ眠たい……」
低く掠れた声が耳元を震わせる。
遥希は芽依子を抱き抱えたまま、リビングを通り過ぎて自室へと迷いなく向かう。
初めて足を踏み入れる遥希のパーソナルな空間を見る余裕すらない。
芽依子はそのまま、ベッドの上へと、優しく、けれど拒めない強さで投げ出された。
「ちょっと、はる兄っ……!」
「夜中ずっと鳴ってて、寝れてへんねん」
覆い被さってきた遥希の体は、昔と違う成人男性の重みがあった。
逃げ場を塞ぐようにマットレスに沈み込む腕。抵抗しようと伸ばした指先は、あっさりと彼の体温に絡め取られ、封じられていく。
カーテンの隙間からこぼれる朝日に照らされた遥希の表情には、いつもの余裕と、それを裏切るほどの深い渇望が同居していた。
「怖いか?」
「……はる兄は怖くない」
それは、一点の曇りもない芽依子の本心。
元カレの影に怯えていたはずの心は、今、目の前の男に完全に支配されることで、奇妙なほど凪いでいた。
腰に回された腕がさらに強く引き絞られ、密着した腹部から遥希の熱い呼気が伝わる。
「ほら、ちゃんと捕まえた」
耳元で甘く囁かれた瞬間、背筋を走る、ぞくりとした震え。
指先で、震えをなぞるように触れられる。
「俺が上書きしたる」
それは恐怖ではなく、彼という巨大な愛に「囲われてしまった」のだと。
(今度は……あたしがちゃんと選ぶ)
――もう、逃げる気なんて、なかった。
受付にいた消防隊員が、青ざめた顔で今にも倒れそうな芽依子に駆け寄る。
「っあのっ・・・・・・はるっ・・・・・・」
「大丈夫ですかっ?」
「いけだ……はる、き……」
車両点検中だった他の隊員も何事かとやってきた。
すると鬼の形相だった江崎が、急に顔を変えて、息を整えつつ近寄る。
「すみませんっ・・・・・・痴話げんかでして・・・・・・ほら、芽依子、来い」
まだ息がもつれる芽依子は、かわりに首を横にふる。
「芽依子、消防署の人たちを困らすんじゃない。行くぞ」
「……いやっ」
江崎の腕が伸びてくる。
逃げられない――そう思った瞬間。
「……触んな」
怒気を含んだ低い声が、空気を裂いた。
「息できる?痛いとこある?触られた?」
「ううんっ・・・・・・」
遥希がタオルをかけて、優しく声をかける。
芽依子の足に気づき、後ろの隊員に救急セットを取りに行くよう伝えた。
「めい、よう頑張ったな、もう大丈夫やで」
「はる兄っ……」
「おまえっ!また邪魔しやがって」
「めいを怖がらせた時点で、お前の負けや」
「うるさいっ!!この女が俺の言うこと聞かねぇからだろっ!」
芽依子への侮辱に、遥希の指先がわずかに力を帯びる。
「自分は悪くない」と逆ギレするが、誰にも信じてもらえない。
逆上した江崎の拳が、遥希に向けられる。
けれど遥希は、一歩も下がらなかった。
「やめとけ」
低い声と同時に、振り上げられた手首を迷いなく掴む。
乱暴にねじ伏せたわけじゃなく、動きだけを封じる。
ただ、そのまま力を込めれば簡単に折れる、そんな殺気を込めたまま。
「ここ、どこかわかって言うてる?」
遥希の声は、怒りも侮蔑も全て押し殺し、ぞっとするほど冷静だった。
「消防署の前で、女性を追いかけ回して、隊員に暴力振るうつもりか」
周囲の隊員たちが、一斉に江崎を見る。
その視線に、江崎の顔色が変わった。
「これ以上つきまとうなら、警察に相談する。今日のことも、全部記録に残す」
「くそがっ……殴らねぇのかよ」
「殴らへんよ」
遥希はようやく手を離し、江崎を見下ろした。
「お前に落ちるほど、俺は安ない」
そして、芽依子を背中に隠すように立つ。
「二度目はない。めいに近づくな」
その背中に隠れながら、芽依子は初めて思った。
(――この人に、全部預けたら……戻れなくなる)
それでもいい、と。
思ってしまった時点で――もう遅かった。
***
朝日が差し込んだ明るいリビング。
時刻は十時を回っていた。
ソファの上で軽く伸びをして、カフェオレをおかわりしに行く。
『二度目はない。めいに近づくな』
遥希からの警告と警察という言葉、他の隊員たちも見ていたのが効いたのだろう。
江崎は『こんな女、こっちから願い下げだわっ』という捨て台詞とともに退散した。
足の傷を手当てしてくれた直後、出動指令が鳴り、遥希たちは慌ただしく出動していった。
救急車に乗り込む遥希に、芽依子は声をかける。
『家で、はる兄を……待ってるね』
マスクで見えなかったのに、『待ってろ』と言われたのがわかった。
(はる兄……まだかな)
もう何杯目かわからないカフェオレを啜る。
すると、玄関の鍵が回る、金属の乾いた音が静かな朝の空気に響いた。
夜通しソファの端で震えていた芽依子は、弾かれたように玄関へと駆け出す。
「おかえりっ……ちょ、はる兄っ――!」
遥希の顔が見たくて上げた瞬間、視界が激しく揺れた。
挨拶を飲み込む暇もなく、芽依子の体は強引に、けれど吸い寄せられるように遥希の逞しい腕の中に収まっていた。
片腕で抱き上げ、片方も、芽依子の背中を壊さんばかりの強さで絡めてきた。
限界まで引き寄せられ、薄いシャツ越しに伝わる遥希の動悸。
お互いの心臓の音が重なり合い、体内に直接響いてくるようだった。
「…………めい、ただいま」
「……はる兄」
肩に乗せられた遥希の額は、署からの道を走ってきたのかしっとりと汗ばんでいた。
(守られてる、って――こんなにも、熱くて、苦しいものなんだ)
けれど、その苦しさは心地よくて。
芽依子は無意識に、遥希の首筋に顔を埋めた。
「あかん――めっちゃ眠たい……」
低く掠れた声が耳元を震わせる。
遥希は芽依子を抱き抱えたまま、リビングを通り過ぎて自室へと迷いなく向かう。
初めて足を踏み入れる遥希のパーソナルな空間を見る余裕すらない。
芽依子はそのまま、ベッドの上へと、優しく、けれど拒めない強さで投げ出された。
「ちょっと、はる兄っ……!」
「夜中ずっと鳴ってて、寝れてへんねん」
覆い被さってきた遥希の体は、昔と違う成人男性の重みがあった。
逃げ場を塞ぐようにマットレスに沈み込む腕。抵抗しようと伸ばした指先は、あっさりと彼の体温に絡め取られ、封じられていく。
カーテンの隙間からこぼれる朝日に照らされた遥希の表情には、いつもの余裕と、それを裏切るほどの深い渇望が同居していた。
「怖いか?」
「……はる兄は怖くない」
それは、一点の曇りもない芽依子の本心。
元カレの影に怯えていたはずの心は、今、目の前の男に完全に支配されることで、奇妙なほど凪いでいた。
腰に回された腕がさらに強く引き絞られ、密着した腹部から遥希の熱い呼気が伝わる。
「ほら、ちゃんと捕まえた」
耳元で甘く囁かれた瞬間、背筋を走る、ぞくりとした震え。
指先で、震えをなぞるように触れられる。
「俺が上書きしたる」
それは恐怖ではなく、彼という巨大な愛に「囲われてしまった」のだと。
(今度は……あたしがちゃんと選ぶ)
――もう、逃げる気なんて、なかった。



