あと30日で、他人に戻るふたり

「え?どこ行くんですか?」

さっき、たしか時計は二十三時を超えていた。

玄関で靴を履く彼の背中は、どこか急いでいる。

「呼び出し」

「仕事ですか?」

「うん」

「ほんとにあるんだ…。大変」

「いつものことだし」


彼はドアの鍵を外して、部屋から一歩踏み出したところでこちらを振り返った。

「…じゃあ」

なんと返せばいいか分からなくて、一瞬迷って、絞り出す。

「……いってらっしゃい」

「行ってきます。……おやすみ」


私は、“おやすみ”が言えなかった。

休まない人に、その言葉を向けていいのか分からなくて。


バタン、とドアか閉まる音がやけに大きく感じる。

足音が遠ざかっていき、すぐにそれも聞こえなくなった。


薄明かりの洗面所の明かりが、さっきまで優しいと思っていたのに。
今はもう、頼りなく光っているだけに思えた。


静かな部屋に、ひとりきり。


私はリビングに戻って、広い室内を見渡す。
たくさんあったダンボールも、もうほとんどない。

整ってきた部屋に残った私にできることは────

……何もしないこと、かもしれない。


それ以上はなにも考えないようにして、寝室へ入る。

静かな部屋に、まだ少しだけ音が残っている気がした。