青春恋愛ミッション

 すみれの思い描いた事業への構想は、始まりが順調で春の桜の似合う華やかな色という印象が、社内に広まっていました。
 デスクメールには、各地から新事業への問い合わせとアドバイスが寄せられていました。

 ”すみれ課長就任おめでとうございます。早速ですが、新事業案の、私の社への見積もりいただけますでしょうか”
 “ソーラーパネルへの投資に対する補助事業は、私どもも期待しております。早速パンフレットを以下宛まで送付願います”

 午前中だけで2000通を超えるEメールが寄せられていました。
 1通1通メールを読み通して、全てに返信し終わるまでには、すみれの肩や腰は限界を感じるほどに凝っているのでした。
 毎日の残業は数時間を超え、自宅に帰るのは深夜になっているのでした。
 メールの読み間違いやタイプミスは後になり大変なことになるのがわかっていたので、慎重さと迅速さの毎日に追われていました。

 そんな中、すみれのこころは、なぜか少し想像的な思考がよぎり始めていました。
 大学入試問題や仕事では、身勝手な想像など受け入れらるものではありませんが、すみれが自宅に帰った時だけは、彼女の想像の思うままに過ごせる束の間の幸せの時でした。

 スーツ姿で自宅の部屋のベットに転がり込んだ後で、そのまま夢想に入っていく彼女は、ある夢を見るようになりました。
 それは「こうた」への思いが夢に変わっていたからでした。

 「こうた先輩、私はもうだめかもしれない」
 「こんな辛いこと今までになかったもの」
 「半分死んでいるわ」

 こうたを夢の中でみるようになると、彼女はまるで麻酔にかかったかのような快楽に陥っているのでした。
 その夢は誰も作り出すことのできない、彼女だけのオリジナルの絵本というべきものでした。

 すみれの中のこうたは、すみれの思い通りの優しい先輩なのでした。

 時折、「大丈夫かい」と仕事場で肩をさする優しいその眼差しは、彼女を心の疲労から解き放ち、自由な想像を掻き立てる、寓話のような夢世界に彼女を誘(いざ)なっているのでした。

 「すみれの年代は今が勝負の時」
 「青春期に誰にでも必ずある」
 「誰でも通る試練の時」
 「ここで負ければ先は見えないもの」

 奇想天外な寓話のような夢世界は、彼女の思う通りのパラダイスなのでした。
 現世や過去の修羅場だった記憶も、全てが愉悦で真っ白な雲と太陽と青空が広がる、透き通った鏡の世界へ入ったようでした。
 現代の全てが映し出される鏡の世界では、浄化された初体験が彼女を待っていました。

 街の雑音や、部屋の中のがらくたやいらなくなった書類もそこでは、まっさらな静寂が彼女を迎え入れているのでした。

 ただ残されているのは、こうたの姿と声だけした。
 その鏡の夢の中で、全てが清書されたストーリーには、決められた筋書きはないのでした。

 それはすみれの描く正真正銘の、こころの物語なのでした。

 「私、先輩がいないと生きていられない」
 「いないと死んでしまうの」
 「先輩の眼差しと感触って、心地いいわ」
 「だからいつまでも、このままでいたい」

 このすみれだけの、心の潔白の世界は、現世界から苦しみを安らぎにかえる快悦と自由で時間と束縛のない、恋への入り口のようでした。

 「あ、し、た、あ、い、た、い…」

 そして、夢の中のこうたの呼び覚ます声で、朝に目覚める「すみれ」なのでした。

 鏡の夢の中で、幻のこうたと触れ合っていたすみれは、現世界でもこうたとの恋愛が再燃し始めていました。

 普段の何気ない仕草に、魅力と色気を感じたり、肩が触れ合ったり、書類を手渡すときの感触が徐々に、無意識の行動を駆り立てていました。

 すみれは、残業後、部屋に残っていた部下の宮下に声をかけました。

 「私、こうた先輩の肩を揉んであげようかしら」
 「相当肩が凝っているじゃない?」

 「じゃ、私、席を離れます、課長あとはよろしく!」

 宮下が席をたったその後、すみれのいる課の部屋は、窓の外の杉の木のこの葉が風で揺すられる、「さーっ」という音以外、何も聞こえない静寂に包まれていました。

 「あっ、先輩、この前、借りたハンカチ返します」
 「洗濯してありますから」

 「おっ、そうだった。ありがとう!」
 「あ、あの...」
 「先輩!肩お揉みしましょうか…」
 「それは、うれしいな!」

 そっと、すみれは、こうたの肩に手を添えるのでした。
 すみれは、嵐の時を思い出して、少し色気付いていました。
 馨(かぐわ)しい芳香が彼女を包み始めて、ムードが高まっていました。

 何度も、こうたの肩や背中に触れ合ううちに、すみれは欲求を高めるかのように、自らの頬を大きい背中にうずめていました。

 「先輩、大好き!」
「いつまでもこうしていたいのに...」

 嵐の時とは違い、すんなり「すみれ」を受け入れている「こうた」でした。

 「わかってるよ...」

 そのまま、すみれは両腕を伸ばし、こうたを抱き抱えるのでした。
 そして、しばらくの間、抱擁が続くのでした。
 その間、言葉と理由はありませんでした。
 お互いの心には扉などなく、いつも通い会うガラスの絆で結ばれているようでした。

 「もっと、このままでいたいな」
 「もう大丈夫」
 「これは二人だけの時間よ」

 鏡の世界での彼女だけの御伽噺(おとぎばなし)は、彼女を現実の快楽に導いているかのようでした。
 彼女だけの夢の世界は、物語を重ねるごとに、彼との距離を近くしていました。

 「これはいつもの夢なのかしら」

 あまりの心地よさに、いつもの夢と区別のつかない快楽を感じていました。

 夢とも区別のつかない体験は、幾分も彼女を大人に成長させるのでした。
 少なくとも嵐の時のすみれとこうたはアダルトな関係でした。

 彼を抱きしめるのに、理由が要らないくらい彼が間近に存在しているのでした。
 それは、心の距離が夢の物語によって徐々に近くなっていき、抱擁するのに、特別な理由は要らなくなりました。

 鏡の心の世界は、ガラス越しの世界の半透明な水晶のような潔白な彼女の心を表す、寓話のようです。
 クリスタルでできているだけに、彼女の夢と恋は脆くて、壊れやすく、こうたからすみれの心は容易に読み取ることができていました。

 しかし、その心の存在は、扱い方ではいつでも現れる幻想ではありませんでした。
 ホログラムのように現れるすみれとこうたの恋の風景は、現実と仮想の世界を行き来するすみれの夢を具象化する出来事のようです。

 それは誰にもわからない、二人だけの心の中だけの愛と恋愛の幻影だったのかもしれません。

 クリスタルの中で夢の魔法にかかった「すみれ」は、魔女の如く、こうたを惹き寄せ、自らの愛の虜にしたのでした。

 それは嵐ではなく、夢によってできる偶然の恋人なのでした。