あれからアトリエに通いたいとお母さんに伝えて通い始めてから、三回目のレッスンだ。
土曜日の午後、私は蒼太くんと一緒にバスに揺られていた。 窓の外を流れる景色は、もうすっかり見慣れたものになっていたのに、胸の奥は毎回のようにざわついている。見慣れた街並みが、今日は少しだけ遠く感じられた。
今日のテーマは【記憶と色】。先生が“自分の経験した感情を、色でどう表現するか”と説明した瞬間から、私は無意識にスケッチブックの端を強く握りしめていた。
不安が波のように何度も押し寄せて、息が少し浅くなる。喉がからからに乾き、唾を飲み込むのも億劫だ。指先が冷たくて、膝の上でスケッチブックをぎゅっと握りしめていることに気づいた。掌にじっとりと汗がにじみ、紙の端が少し湿っている。 勇気を出しているつもりなのに、心のどこかでまだ逃げたい、逃げないとという弱い声が、くすぶるように聞こえる。胸の奥がチクチクと痛み、息が詰まる。
隣に座る蒼太くんはもう描き始めていてそれを見て私も鉛筆を取った。描いていけばどんどん乗ってくるのがわかる。今までなら辛い過去しか思い浮かばなかったけど、今は初めて絵を描いたとき褒めてもらえたことや光梨といろんな場所に遊びに行ったこと、楽しかったことや嬉しかったこと……それに蒼太くんと出会えたこと。
そんなことを考えながら筆を動かした。私は、あの日蒼太くんと出会った日に私の絵が素敵だって言ってくれたことを思い浮かべて描く。あの日の私は光梨との仲が戻って来たばかりで、でも自信がなかった。光梨には悪いけど、私の絵なんてダメだって心の中では思っていた。だけど、蒼太くんは認めてくれた。そこに名前がなくても、絵を素敵だと認めてくれた。それがとても、とっても嬉しかった。公園でばったり会った日も、たくさん褒めてくれてとても優しくて私の世界を広げてくれた。私は私でいいんだと思えた。
だから、私はあの公園で見た光景を思い出して描いていく。それを色付ける。公園の緑に空の青、目の前にあったシーソー、それに光がさす……今まで空を中心に描いてきたけど、今は違う。大好きな空に自然の緑を足す。
――青に緑がかかった木々の色。蒼だ。
私が抱く今の蒼太くんへの気持ちは、日を追うごとに少しずつ形を変えていた。
友達として嬉しい、でもそれ以上の何か。言葉にできない、ふわふわとした甘い何かが、胸の奥で静かにある。しかし確実に広がっていく。まだ“恋”と呼ぶには怖い。でも無視できないこの気持ちが、私をさらに緊張させた。
同時に期待で胸をざわつかせていた。
一方、蒼太くんは隣で、明梨の横顔をそっと見つめながら、自分の胸の鼓動を抑えていた。
蒼太は内心で大きく息を吐いた。あの 発表会の日、俺は友人の付き添いでピアノの発表会に来ていた。別にピアノには興味がなかった。俺は絵を描くのが好きだ。同じ芸術でも違う。そんなふうに思いながら会場の外を歩いていると、一つの絵が目に止まった。初めて明梨の絵を見た瞬間から、 あの『二色の花が咲く場所』を見たとき、心臓が大きく鳴った。
ただ綺麗な絵じゃなかった。あの絵には、寂しさと希望が混ざり合った、深い感情が宿っていた。
影の中に光が確かにあった。
蒼太自身も、昔から目立たない子だった。 小学生の頃、クラスで友達が少なく、休み時間はいつも一人で絵を描いていた。よくクラスメイトに暗い絵ばかり描くなと言われて傷ついたこともある。周りの子たちがサッカーやゲームで盛り上がっている中、自分だけが違う世界にいるような孤独を感じていた。
美術部に入ったのも、絵は描けるし誰かと深く話さなくてもいいかなと思ったからだった。
でも、心のどこかでずっと怖かったのだ。
明るい色ばかりを求められる世の中で、自分の絵を肯定してくれる人がいるなんて、思ってもみなかった。
明梨の絵を見て、初めて「静かな色にも価値がある」と感じた。 彼女の描く青は、ただ暗いだけじゃなかった。
寂しさの中に希望があって、影の中に光があった。 それを見て、蒼太は自分の絵も、もっと素直に描いていいのかもしれないと思い始めた。
明梨さんと話すようになってから、俺の絵も変わってきた気がする。 前は『暗いって言われたらどうしよう』ってビクビクしてたけど……今は、自分の描きたい絵を描いていいんだとちょっとだけ思えるようになった。 明梨さんのおかげだ。
先生が今日のテーマをもう一度説明した。
「自分の経験した感情を、色で表現してみましょう。 悲しみ、喜び、寂しさ、希望……。それを隠さずに、素直に色に乗せてみて。無理に綺麗にしなくていい。自分の心の層を、キャンバスに重ねてごらん」
俺はスケッチブックを開く。下書きのために持った鉛筆を持つ手が震える。心臓が痛いほど鳴っている。
深呼吸を何度も繰り返し、淡い水色から筆を動かし始めた。 雨上がりの空のような、寂しいのに希望を感じる青。 そこに、少しずつ紫と灰色を混ぜ、影の層を重ねていく。一層、また一層。薄く透かしながら、丁寧に。 描いているうちに、過去の記憶が自然と蘇ってきた。
それらを、色に変えていく作業は、予想以上に胸が痛かった。筆を持つ指が震え、時折息が詰まる。涙がにじみそうになる瞬間もあった。 でも、同時に、どこか解放されるような感覚もあった。心の奥に溜まっていた澱が、色となってキャンバスに溶け出していくような——そんな不思議な解放感。
「できた……」
そんな声が聞こえてきたのは同じ時だった。
***
「……できたっ」
筆を置いて声を発すると隣で描いている蒼太くんも声を出した。
「あら、仲良しね」
そう先生は言い、私と蒼太くんに近づいてきた。
「明梨さんの青……今日も綺麗だね。 なんか、前のより深みが増してる気がする。層が重なって、すごく生きてるって感じる」
私は少し照れながら、小さな声で答えた。頰が熱い。
「ありがとう……蒼太くんが隣にいてくれるから、頑張れたの。 一人だったら、途中で筆が止まってたかも……」
蒼太くんは耳まで赤くなって、視線を少し逸らした。
照れくさそうに、でも嬉しそうに微笑む。
「……俺も、あかりさんが隣にいてくれると、描くのが楽しくなるよ。 あかりさんの絵を見てると、俺も自分の色を信じていいんだって思えるんだ」
その言葉が、胸の奥を優しくくすぐった。甘い疼きが、静かに広がっていく。 特別な空気が流れているような気がした。心臓の音が、さっきとは違う温かいリズムを刻む。 私は慌ててキャンバスに視線を落とした。筆を持つ手が、ほんの少しだけ温かくなっている気がした。
休憩時間になると、先生が私のキャンバスの前に立って、じっくりと見てくれた。
眼鏡の奥の瞳が優しく細められる。
「明梨さん、この青の層……とてもいいね。 ただの青じゃなくて、いろんな感情が重なっている。 悲しみと希望が混ざり合って、すごく美しい。 君は、自分の心を素直に色にしているんだね。それが、この絵の強さだよ。よく頑張ったね」
先生の言葉が、胸の奥にじんわりと染み込んだ。 私は思わず目を伏せた。喉の奥が熱くなり、視界が少しぼやける。
自分の心を……素直に……。 こんなに褒めてもらえるなんて、思ってもみなかった。 あの頃の私なら、信じられなかったけど私の青が、ちゃんと届いている……
レッスンが終わった後、蒼太くんが私の隣に寄ってきて、小さな声で言った。
「今日の明梨さんの絵……すごく良かったよ。 俺、隣で見てて、胸が熱くなった。 俺、明梨さんの出す色が好きだな」
私は少し照れながら、でも素直に答えた。
「ありがとう……」
蒼太くんは少し間を置いて、照れくさそうに続けた。
その瞬間、私たちの視線が少しだけ絡まった。 どちらもすぐに逸らしたけど、指先がほんの少し触れ合ったような気がした。柔らかくて、甘い期待と、少しの怖さが混ざり合う。
バス停で別れるとき、蒼太くんが小さな声で言った。
「また来週も……一緒に来てくれる?」
私は頷きながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……うん。また、来週」
バスが動き出し、窓から見える蒼太くんの後ろ姿がだんだん小さくなっていく。 私は自分の胸に手を当てて、静かに息を吐いた。心臓が、まだ少し速い。
アトリエでのレッスンは、まだ始まったばかりだ。私の色は、これからもっと深く、もっと広く、広がっていく。 そして、その過程で、蒼太くんという存在が、私の心に新しい色を加え始めている。優しく、静かに、けれど確実に。
私はスケッチブックを開き、今日描いた絵の横に、小さなメモを書き加えた。
『重ねる色は、心の層。 怖くても、信じて描き続けよう。』
青い空の下で、私の物語は、静かに、けれど確かに、新しいページをめくり始めていた。 重ねた色の一層一層が、私の心を少しずつ強く、優しく彩っていく——そんな感じがした。



