お母さんにアトリエに行きたいと伝えた夜から、一週間が経った。
あれから次の土曜日の午後、私は蒼太くんと一緒にバスに揺られていた。 目的地は、隣町にある小さな絵画アトリエ【lumiére(ルミエール)】。
窓の外を流れる見慣れない街並みを見るたび、胸の奥が激しくざわついてくる。見知らぬ建物や通りが、次々と視界を過ぎていく。心臓の鼓動が、バスが揺れるリズムと重なって、どんどん速くなっていく気がした。
今日はアトリエ初回レッスンの日だ。
蒼太くんとはバス停のある最寄の駅に集合した。駅前のハンバーガー屋さんでお昼を食べてからバスに乗った。
バスの中では私は服の裾を指で触っていた。 指先が冷たくて、震えているのが自分でもわかる。新しい場所でやっていけるだろうか。
不安が波のように何度も押し寄せて、息が浅く、早くなる。喉がからからに乾いてきて唾を飲み込むのも難しい。服をぎゅっと握りしめすぎて、手の甲が白くなっている。掌にじっとりと汗がにじむし、過去の記憶が次々とフラッシュバックする。
あの頃の私は、自分の色を信じられなかった。光梨がいないと誰かに認めてなんてもらえないと思っていた。引き立て役になることで透明になることで自分を守ろうとしていた。
そんな自分が自分の意思でアトリエという新しい場所に行こうとしている。少し前なら行こうとも思わなかったな……それだけですごいって思う。
隣に座る蒼太くんが、気づいたように優しく声をかけてくれた。
「緊張してる? 大丈夫だよ。先生はすごく優しい人だし、最初は見学だけでもいいって言ってくれたから。 明梨さんの絵、絶対気に入ると思うよ。君の色は、特別なんだから」
その言葉が、少しだけ胸の重さを軽くしてくれた。温かい波が、ほんの少しだけ不安を押し返す。 でも、同時に、別の感情が胸の奥で疼く。 蒼太くんの声は優しいな。 一緒にいるだけで、こんなに安心する。
これは……ただの友達として感じるもの?それとも……もっと特別な気持ち?
私は慌てて首を振ると視線を窓の外に移した。頰が少し熱くなるのを感じ、耳の奥まで熱が上がる。心臓の音が、さっきとは違うリズムで鳴り始めていた。
蒼太くんへの気持ちは、日を追うごとに少しずつ形を変えていた。友達として嬉しい、でもそれ以上の何か。言葉にできない、ふわふわとした甘い疼きが、胸の奥で静かに広がっていく。
まだ恋と呼ぶには怖くて、でも無視できないこの気持ちが私をさらに緊張させ、期待させていた。
バスを降りて、静かな住宅街を少し歩く。すると、古民家で雰囲気のいい小さな建物が見えてきた。 白い壁に【lumiére】と書かれた小さな看板が、控えめに揺れている。
柔らかな午後の光が、看板に優しく反射していた。 ドアの前に立った瞬間、足が止まった。 心臓が痛いほど鳴り、息が苦しい。
蒼太くんが私の横で、優しく声をかけた。
「大丈夫。一緒に入るし。僕がついてるよ」
私は小さく頷き、震える手でドアを開けた。金属の冷たい感触が、指先に鮮明に伝わる。
室内は思ったより広くて、天井が高い。大きな窓から柔らかな自然光が差し込み何枚ものキャンバスやイーゼルが並んでいる。
壁には生徒たちの作品が飾られていて、さまざまな色とタッチが混ざり合っていた。空気は少しひんやりしている。
独特の匂いが、静かな集中の気配とともに満ちている。どこか神聖な、聖域のような雰囲気だった。
先生は四十代くらいの女性で、穏やかな笑顔と、静かな声の人だった。名前は佐藤先生という。眼鏡の奥の瞳が優しく細められる。
「ようこそ、明梨さん。蒼太くんから話は聞いているよ。 今日は見学メインで大丈夫。無理に描かなくていいから、自分のペースでね。まずはリラックスして、周りを見てみて」
先生の言葉は優しかったけど、私はまだ体が固くなっていた。肩に力が入り、背筋がこわばる。 他の生徒たちは高校生や大人も混ざっていて、みんな集中して描いている。
筆の音、紙を擦る音、時折の小さなため息——それらが、私の耳に大きく響く。
蒼太くんが私の隣のイーゼルを準備しながら、小声で言った。
「最初は誰でも緊張するよ。僕も初めて来たときは、手が震えて線がまっすぐ引けなかった。 でも、先生は好きなものを描いていいって、いつも言ってくれるんだ。明梨さんなら、大丈夫だよ」
私は小さく頷き、持ってきたスケッチブックをそっと開いた。指先がまだ冷たい。 先生が近くに来て、私のこれまでの絵を何枚か見てくれた。丁寧に一枚ずつ眺め、時折小さく頷く。
「この絵……とてもいいね。 ただの青じゃなくて、感情が乗っている。影の部分に紫を少し混ぜているところが、特に印象的だよ。 明梨さんは、すでに自分の色を持っているんだね。それを、もっと自由に広げていこう。君の作る青は、深みがある」
「人によって違うんですか……?」
「うん。違うよ。そうだね。私と明梨さんは違う人間でしょ? 明梨さんと蒼太も違う人間。感じ方も思うことも違う。ここのみんなだってそうなんだよ。まぁ、何が言いたいかというと、今ある感じ方を覚えていて。それが明梨さんにとっては原点になるから」
その言葉が、胸の奥にじんわりと染み込んだ。 褒められているというより、ちゃんと見てもらえた気がした。
自分の内側にあるものを、正確に言葉にしてもらえたような——その温かさが、不安の霧を少しずつ溶かしていく。目頭が熱くなり、視界が少しぼやけるのを、慌てて堪えた。
レッスンが始まると、先生は今日のテーマを“光と影の関係”と説明した。 モデルはシンプルなリンゴと白い布の静物。先生が「光の当たる部分と影の部分を、色でどう表現するか意識して」と丁寧に解説してくれる。声が穏やかで、ひとつひとつの言葉が心に届く。
私は緊張しながら、鉛筆で下描きを始めた。 心臓の音が耳の中でうるさい。息が浅く、集中しにくい。
隣の蒼太くんが、時々そっと声をかけてくれる。
「大丈夫、ゆっくりでいいよ。明梨さんのいつも通りで焦らなくていい」
その言葉で、少しだけ息が楽になる。胸の締め付けが、ほんの少し緩む。 私は何度も深呼吸をして、淡い色から始め、少しずつ色を重ね始めた。薄く、透かすように。
先生が私のところに来て、優しくアドバイスをくれた。
「色を重ねるときは、もっと薄く、層を意識して。 一気に濃くせず、何度も透かして重ねると、透明感と深みが出るよ。 明梨さんの絵は、すでにその感覚を持っているから、自信を持って」
その一言で、肩の力が少し抜けた。体が軽くなり、手の動きが少しずつ滑らかになっていく。
私は何度も薄く水彩を重ね、影の部分に紫とグレーを混ぜながら描き進めた。時間とともに、手の震えが収まり、集中できるようになっていく。 周りの生徒たちの筆の音、先生の静かな声、窓から入る柔らかな光——すべてが、心地よいリズムになっていた。描いているうちに、時間が溶けるように過ぎていくのを感じた。
休憩時間になると、蒼太くんが私の隣に寄ってきて、小さな声で話しかけてきた。
「明梨さんの今の絵……さっきより影が生きてるね。 先生のアドバイス、すぐに取り入れてるのがすごいよ。 僕、いつもアドバイスもらっても、すぐには反映できないのに……」
私は少し照れながら答えた。頰が熱い。
「蒼太くんが隣にいてくれるから……頑張れるんだと思う。 一人だったら、また不安で筆が止まってたかもしれない」
蒼太くんは耳まで赤くなって、視線を少し逸らした。照れくさそうに、でも嬉しそうに笑う。
「……俺も、あかりさんが来てくれて嬉しいよ。 こうやって一緒にレッスン受けられるなんて、なんか不思議な感じがする。 あかりさんの絵を見てるだけで、俺ももっと頑張りたくなるんだ」
その言葉が、胸の奥を優しくくすぐった。なんだか少しだけ、特別な空気が流れているような気がした。心臓が、さっきとは違う温かいリズムで鳴る。 私は慌ててスケッチブックに視線を落とすと指先が、さっきより少しだけ温かくなっている気がした。
***
レッスンが終わった後、先生が私に声をかけてくれた。
「今日は来てくれてありがとうね。また来てね」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
「はい。こちらこそありがとうございました」
アトリエを出て、バス停に向かう道を、蒼太くんと並んで歩いていた。 夕方の柔らかな光が、私たちの影を長く地面に落としている。二つの影が、時折重なり合う。
蒼太くんが、ちょっと声が上ずりながら言った。
「明梨さん……今日、一緒に来てくれてありがとう。 俺、実は明梨さんが来るって聞いたときから、すごくドキドキしてて……。 まだうまく言えないけど、明梨さんの絵を見てると、俺ももっと頑張りたくなるんだ。 ……これからも、こうやって一緒に絵を描いていきたい」
私は足を少し止めて、蒼太くんの顔を見た。 彼の頰は夕陽に照らされて、ほんのり赤い。目が少し泳いでいて、照れくさそうに視線を逸らしている。 その仕草が、なんだかとても可愛らしくて、私の胸もドキッと鳴った。甘い疼きが、胸いっぱいに広がる。
「……私も、蒼太くんと一緒にいると、絵がもっと楽しくなる。 まだ緊張するけど……これからも、よろしくね」
私が言うと、蒼太くんは少し照れくさそうに笑った。 その瞬間、私たちの指先が、ほんの少しだけ触れ合った。 どちらからともなく、すぐに離れたけど、その温もりが、指先に長く残った。柔らかくて、優しい感触。
バス停で別れるとき、蒼太くんが小さな声で言った。
「また来週も……一緒に来てくれる?」
私は頷きながら、胸の奥が甘く疼くのを感じた。
「……うん。また、一緒に行こう」
バスが来て、蒼太くんが手を軽く振って見送ってくれた。 窓から見える彼の後ろ姿が、だんだん小さくなっていく。 私は自分の胸に手を当てて、静かに息を吐いた。心臓が、まだ少し速い。
ふわふわとした気持ちが、私の中に静かに芽生え始めていた。 まだ言葉にできないけど、確かにそこにある温かさを感じていた。



