世界で一番、透明な私へ。 〜二色の花が咲く場所〜



 あの公園でスケッチをしてから、二週間が過ぎた。
学校の文化祭が近づき、校内は少しずつ賑やかになっていた。
 廊下には手作りのポスターがあちこちにしと貼られ、教室からは笑い声や準備の物音が絶え間なく聞こえてくる。空気全体が、期待と少しの緊張でざわめき、どこか甘酸っぱい青春の匂いが漂っていた。
 私のクラスでは、【本と絵の展覧会】を開くことになった。いつもなら隅っこで何もしないで終わっていただろうけど、今回は違う。
 
先生に君の絵も出してくれないかと言われたとき、私は一瞬、胸の奥がざわついた。不安が、鋭い棘のように一瞬胸をよぎってしまった。今までのことが指先が冷たくなり、喉が少し詰まる。過去が、ふと頭を過る。

 でも、光梨なら『絶対出そうよ! お姉ちゃんの絵、みんなに見てほしいもん』と目を輝かせて背中を押してくれる気がしてた。勇気を出して何枚か出すことにした。光梨の存在が、こんなにも私の背中を押してくれるなんて今までの私なら有り得なかった——その実感が、静かな喜びとなって広がっていく。
 
 放課後、私は美術準備室で額に入れる絵を選んでいた。
窓から差し込む夕方の柔らかな光が、床に長い影を作っている。オレンジ色の光が埃の粒子を優しく照らし、部屋全体を温かく染め上げていた。
 木の床板がきしむ音が、静かに響く。
選んだのは『二色の花が咲く場所』。それと、もう一枚。公園で描いたケヤキの木の絵。そして、小さな水彩の雨上がりの空の絵。
どの絵も、私のこれまでの気持ちが詰まっている。悲しかったこと、傷ついたこと、それでも前を向こうとした気持ち——全部、色になってここにいる。描きながら何度も胸が痛んで涙を堪え、でも筆を動かし続けた日々がキャンバスに刻まれている気がする。確実に変わっている、そう思う。
 
 一方で図書室のいつもの窓際の席で、瀬戸は一人で本を開いていた。

 視線は字を追っているが、内容は一文字も頭に入ってこない。ページをめくる指が、時折止まる。以前ならいたはずの彼女はもういない。
 
彼は本当はずっと、明梨のことが好きだった。
淡い水色の画集を選ぶ彼女の指先に誰も気づかないような繊細な色使い、栞に込められた丁寧なタッチ……それらを見つけるたび、自分の胸の中にだけ静かな火が灯るような、そんな特別な優越感を持っていた。彼女の存在が、自分を少しだけ優位に感じさせてくれていた。
けれど、それを好きだと認めるのが怖かった。
 
周りの男子に冷やかされるのが、自分の青い感情を暴かれるのが、何より格好悪くてたまらなかった。だから、前から彼女が自分の方を向いてくれたときほど、喉の奥まで出かかった熱い言葉を、あえて冷たい氷のような言葉にすり替えて吐き捨てた。

「そんな暗い絵、誰が見るんだよ」

 あの時、明梨の瞳がわずかに揺れて、すっと光が消えた瞬間を、彼は今も鮮明に思い出せる。
 あの瞳の揺らぎが、胸に深く突き刺さり、今も疼いているし言わなきゃいけなかったのは、そんな言葉じゃなかった。

「君の描く青は、夜明け前みたいに綺麗だね」と、たった一言。
 本当の気持ちを差し出していれば、今その隣にいたのは自分だったかもしれない。後悔が、波のように何度も押し寄せてくる。
窓の外、校庭の隅で明梨がクラスの男子と笑っているのが見える。
もし、素直に伝えることができていたら……そこにいたのは自分だったのかもしれないと思った。

 とある休みの日、父さんに塾へ送ってもらおうと車に乗りながら外を見ていると公園が見えた。いつもなら気にならないのにじっと見ていると同い年くらいの男女がベンチに座り、何かを持って話をしていた。時折、笑ったりしている。
 ……あ、明梨さん。
 そこには明梨と知らない男。とても楽しそうだった。彼女はあんなふうに笑う子だっただろうか。いつも下を向いて、遠慮がちだったのに。だけど見えるあの子は見たことない女の子だ。
 二人の間に流れる穏やかな空気は、今の瀬戸には作れない……作れなかったものだ。自然で温かく、互いの色を尊重し合っている。
胸が、焼けるようにチクチクする。
 それは嫉妬というよりも、自業自得という名の鋭い破片が心に刺さっている感覚だった。息が苦しくなり、拳を軽く握りしめる。

 ……バカだな、俺は。
 
自分を守るために嘘をつき、その嘘のせいで一番守りたかった距離を壊してしまった。
伝えなかった言葉は、行き場を失って自分の中に澱のように溜まっていく。
 重たく、苦い。
今さら「あの時はごめん」と言いに行ったところで、彼女の今の笑顔を濁らせるだけだということも、彼には分かっていた。

「気持ちは、形にして外に出さなきゃ、存在しないのと同じなんだ」

 誰にも届かなかった想いの重さを、彼は初めて知った。胸の奥が締め付けられ、視界が少しぼやける。

「明梨さんが、幸せになればいい……」
綺麗事のような願いを口の中で呟いてみるが、飲み込むたびに喉の奥がひりひりと苦くなった。
「なんか言ったか?」
「ううん。何でもないよ」
 後悔と喪失感が、静かに彼を蝕んでいった。



   ***

 
 文化祭当日。

 私の絵が飾られたコーナーには、意外と多くの人が立ち止まっていた。
クラスメートが「明梨ちゃんの絵、すごいね」と声をかけてくれる。
初めて、自分の名前で絵を褒めてもらえることが、こんなに嬉しいなんて思わなかった。
「ありがとう、頑張って描いたから嬉しい」
 胸の奥が熱くなり、目頭が少し熱くなる。
 心臓が優しく高鳴り、頰が自然と緩む。
あの頃の透明だった自分が、遠い記憶のように感じられ空気になって後ろに隠れていた自分が、今、こうして光の中に立っている——その実感が、静かな達成感となって体を満たした。
 午後になると、蒼太くんが隣町から来てくれた。
制服のネクタイを少し緩め、緊張した顔で近づいてくる。
 耳の先がわずかに赤い。

「あかりさん……こんにちは。絵、飾られてるね。
やっぱり……いいな。みんな、じっくり見てくれてる」
 私は小さく微笑んだ。胸の奥に、柔らかな温かさが広がる。

「うん……ありがとう。蒼太くん来てくれて嬉しい」
 蒼太くんは隣に立って、私の絵をじっと見つめた。
彼も最初は遠くから明梨の存在に惹かれていた。
 
発表会で『二色の花』を見た瞬間、心臓が大きく鳴った。
 この子、すごい……自分の色をちゃんと持ってるんだと思ったけど、声をかけるのにすごく勇気がいった。

 今も、こうして隣にいられるのが夢みたいで、でもまだぎこちない。言葉を選ぶ指先が、少し震えている。
「このケヤキの絵……前より影が生きてるね。
公園で一緒に描いたとき、俺が言ったこと……覚えててくれたんだ」
「うん。影も光の一部だよって言ってくれたから、もっと大胆に描けるようになったよ。この前見た
蒼太くんのこの川の絵も、すごく良かったよ。水の反射がきれい。光の捉え方が優しくて、すごく素敵」
 蒼太くんは耳まで赤くなって、視線を少し逸らした。照れくさそうに笑う。

「……あかりさんと話すようになってから、俺の絵も変わってきた気がする。
前は『暗いって言われたらどうしよう』ってビクビクしてたけど……今は、自分の色を信じていいんだって、ちょっとだけ思えるようになった。
あかりさんのおかげ……だよ」
 その言葉が、胸の奥に優しく響いた。温かい波が、ゆっくりと広がっていく。
私はもう、明梨としていられる。
自分の色を、ちゃんと持って、誰かと共有できる。それが、こんなに温かいことだなんて、思ってもみなかった。互いの色が響き合う喜びが、静かに胸を満たした。
 
 文化祭の最終日に母さんがひかりと一緒に私の絵を見に来てくれた。
母さんは『二色の花が咲く場所』をじっと見て、長い間黙っていた。
 視線がキャンバスをゆっくりと巡る。
やがて、小さな声で言った。声が少し掠れている。
「……明梨、この絵、すごくきれいね。
黄金色の花と青い花が、ちゃんと並んで咲いていて
お母さん、ずっと光梨のことばかり見てて、明梨の頑張りに気づいてあげられなかったかもしれないね」
 私は驚いて母さんの顔を見た。
母さんの目には、ほんの少し、涙のようなものが光っていた。それは、後悔と愛情が混ざった、複雑で優しい色だった。

「明梨も、光梨も……それぞれに頑張ってるんだね。お母さん、これからはもっと、ちゃんと二人を見ようと思うわ」
 光梨が私の手をそっと握った。
「良かったね、お姉ちゃん」
 
その手の温もりが、とても優しかった。妹の小さな手のひらが、私の指に絡みつくように温かい。胸の奥が、じんわりと熱くなる。家族の絆が、こんなにも心地よく感じられた瞬間だった。

 
 文化祭が終わった数日後の夜。
私はリビングのソファに座り、膝の上でスケッチブックをぎゅっと握りしめていた。
心臓が早鐘のように鳴っている。指先が冷たくて、喉がからからに乾く。掌に汗がにじむ。お
母さんにアトリエのことを伝えるようって思っている。
 言葉を出すのが、こんなに怖いなんて思わなかった。
 お母さんがキッチンからお茶を持ってきて、向かいに座った。

「どうしたの? 明梨、なんか緊張してるみたいだけど……」
 私は深呼吸を何度も繰り返した。
言葉を出すのが、こんなに怖いなんて思わなかった。
 自分のやりたいことを伝える——それが、こんなに勇気がいることだなんて、初めて実感した。
もし反対されたらと思ったら言葉が出てこない。
 「ひかりの発表会もあるのに、そんなところに行って大丈夫?」って言われたら、どうしよう。
「お母さんは忙しいから無理よ」って言われたら……。
 
私の絵なんて、まだ本格的な場所で通用しないのに、無理だって思われたら……どうしようどうしようと不安が胸の中で大きく渦を巻き、息が苦しくなる。喉がからからになっていて、声が出るか不安だった。
 私はようやく、震える声で言葉を絞り出した。

「……お母さん。私、アトリエの絵画スクールに……行きたいんだけど……いいかな?」
 母さんはお茶のカップを置いて、私の顔をじっと見た。
その視線は驚きと、少しの戸惑い、そしてこれまで見せたことのないような、静かな真剣さが混じっていた。
「アトリエ……? 本格的な絵画教室ってこと?」
「うん……。週末に少人数のクラスがあって、プロの先生が教えてくれるんだって。
美術部だけじゃなくて、もっと色や構図をちゃんと勉強したい……と思って」
 私は目を伏せたまま、必死に言葉を続けた。
声が小さく掠れてしまう。心臓が痛いほど鳴っていて、耳の奥で自分の鼓動がうるさい。

 
 お母さんの反応を待つ数秒が、永遠のように長く感じられた。
今、反対されたら……どうしよう。
やっぱり無理だったんだって、諦めてしまうかもしれない……
 少しの間、お母さんは黙って私の顔を見つめていた。
その表情には、複雑な感情が浮かんでいた。
 
長年、光梨の才能を自慢し、光梨の成功を自分の成功のように喜んできた自分。
明梨の存在を「頑張ってるね」と軽く流してきた自分。
 
その後悔が、母さんの胸にじわじわと広がっていた。胸の奥が熱くなり、息が少し乱れる。
 やがて、母さんはゆっくりと息を吐き、静かに言った。声が柔らかく、少し掠れている。
「……明梨が、自分からそんなことを言うなんて、珍しいわね。
お母さん、ずっと光梨のことばかり見てて、明梨のことはあまり真剣に考えてあげられなかったかもしれない……。
ごめんね」
 母さんの声は、意外に柔らかく、少し掠れていた。
彼女はカップを両手で包み込み、視線を少し落として続けた。

「光梨は明るくて、みんなの注目を集める子だったから……お母さん、無意識にそちらにばかり目を向けていたわ。
明梨は静かで、いつも一人で頑張ってるように見えて……この子は大丈夫だろうって、勝手に安心してしまっていたのかもしれない。
でも、文化祭であなたの絵を見て……本当に、胸が熱くなったの。
あの青い花の絵は、ただ綺麗なだけじゃなくて、明梨の気持ちが詰まっているように感じたわ。
お母さん、もっと早く気づいてあげればよかった……」
 母さんの目には、ほんの少し、涙のようなものが光っていた。
それは、長い間自分でも気づかないふりをしていた後悔の色だった。声の端々に、愛情と罪悪感が混ざっている。
「行きたいなら、行ってみなさい。
ただ、ちゃんと続けられるか、自分で責任を持ってね。
光梨も仕事があるけどマネージャーさんが送迎してくれることになったし、お母さんも全部は送り迎えできないかもしれないけど……頑張ってみる?」
 私は驚いて顔を上げた。
母さんの言葉が、胸の奥にじんわりと温かく染み込んだ。
 思わず目頭が熱くなり、涙がこみ上げそうになるのを、慌てて飲み込んだ。胸の固い塊が、ゆっくりと溶けていく感覚。
「……本当に、いいの?」
「ええ。明梨が自分の道を見つけようとしてるなら、お母さんも応援するわ。」
 その瞬間、私の胸の奥に溜まっていた固い塊が、少しずつ溶けていくのを感じた。
緊張で震えていた指が、ようやく力を抜いた。母さんが反対するかもしれないと不安になっていたが、優しい言葉に変わった瞬間、涙が伝った。温かいものが、胸いっぱいに広がる。

「……ありがとう。お母さん。
頑張ってみる」
 その夜、ベッドの中で私は何度も天井を見つめていた。
アトリエに行くことが、こんなに緊張するなんて思わなかった。
でも、同時に、胸の奥に小さな期待も芽生えていた。
 
自分の色を、もっと広い場所で試してみたいという気持ちが、静かに、けれど確実に大きくなっていく。新しい一歩への不安と希望が、優しく交錯する。