世界で一番、透明な私へ。 〜二色の花が咲く場所〜



 発表会から五日後の土曜日。空は気持ちのいい青に晴れ上がっていた。
 私は近所の大きな公園のベンチに座って、スケッチブックを開いていた。
初夏の風が、木々の葉を優しく、けれど少しだけ勢いよく揺らしている。
 葉と葉が触れ合うさわさわという音が、まるで小さな秘密のささやきのように聞こえてくる。遠くの遊具のほうからは、子供たちの楽しそうな笑い声と、母親たちの穏やかな話し声が混じって柔らかく漂ってくる。
陽射しは強すぎず、ちょうどいい温かさで私の頰や腕を優しく包んでいた。
 草の香りと、土の匂い、そしてどこか遠くから漂う花の甘い香りが、鼻をくすぐる。ベンチの木の温もりも、座っているとじんわりと伝わってくる。
 今日は一人でスケッチに来た。
家にいると、お母さんが「今日は何を描くの? ひかりの発表会の絵の続き?」なんて聞いてきそうで、少し息苦しくなる気がした。光梨は今日もモデルのお仕事で朝早くに出かけている。
 スケッチブックの新しい何も描いていないページを指でそっと触れると、ざらっとした紙の感触が心地いい。このページに、これからどんな色を乗せていけるんだろう。そんなことを思うだけで、胸の奥が少しだけ軽くなった。
 でも、同時に、ほんの少しの不安もよぎる。

 だけど私は鉛筆を握り、目の前の大きなケヤキの木を描き始めた。
太い幹は、年輪を重ねて少し曲がりながらも、しっかり大地に根を張っている。枝は空に向かって伸び、葉は一枚一枚、重なり合って光と影を作り出している。

 以前ならただの大きな木と思って、何も感じることがなかったかもしれない。でも今は違う。この木にもちゃんと「色」があるように感じる。

 太陽の光を浴びてキラキラ輝く葉の部分と、静かに影を抱えている部分。その両方があってこそ、この木は生き生きとしている。

 私は淡い緑から始め、少しずつ濃い緑や青みを加えながら、影の部分に紫がかった灰色を重ねた。
 線を引いていると、ふと足音が近づいてきた。柔らかい土を踏む、軽やかな音が聞こえる。
「え……あかりさん?」
 聞き覚えのある、穏やかな声に私は名前を呼ばれてびっくりして顔を上げた。
 そこに立っていたのは、蒼太くんだった。
発表会の日に会ったときと同じ、優しい目。今日は私服で、薄いグレーのTシャツに膝丈のショートパンツ。肩に小さなスケッチバッグをかけていて、風に少し髪が揺れている。
「やっぱり明梨さんだ。偶然だね」
 蒼太くんは少し照れくさそうに笑った。頰がほんのり赤くなっているのがわかった。
私は慌ててスケッチブックを少し閉じ、座っているベンチをずらしてスペースを作る。心臓が、ドキドキと速く鳴っている。
 
「どうしてここに?」
「この公園、美術部の人たちがよくスケッチに来るんだ。それに明梨さんは発表会のときに『青い空が好き』って言ってたから、きっと広い公園で描いたりしてるかなって思って来ちゃった」
 正直、ちょっと驚いて、ちょっと緊張した。でも、嫌な気持ちでは全然なかった。むしろ、誰かに「来てみた」と言ってもらえることが、なんだか嬉しかった。

 美術部に入ってから、少しずつ新しい場所に慣れてきたはずなのに、まだ心のどこかでまた傷つくんじゃないかという不安が残っている。
 それでも、蒼太くんの穏やかな声が、その不安を少しだけ和らげてくれる。
「ううん……大丈夫。座る?」
 蒼太くんは「ありがとう」と言って、私の隣に腰を下ろした。
ベンチが少し沈む感触が伝わってくる。
 
 少しの間、二人とも黙っていた。風が葉を揺らす音、遠くの噴水の水音、鳥のさえずり……そんな穏やかな音だけが、静かに響いていた。私は自分のスケッチブックのページを指で軽く押さえながら、隣の蒼太くんの気配を意識していた。瀬戸くんと図書室で話していたときとは、なんだか違う。もっと外の風が感じられて、もっと広い場所にいるような気がした。
 蒼太くんが先に、柔らかい声で口を開いた。
「発表会の絵、すごく良かったよ。あれから何回も思い出した。あの青の感じ、僕も真似してみたんだけど、全然同じにならなくて……どうやってあんなに透明感を出したの? 水彩を重ねるのが上手いなぁとは思っていたけど」
 私は少し考えてから、ゆっくり答えた。声が少し小さくなってしまうのを、自分でも感じた。
「何度も薄く重ねるの。最初はすごく薄い水色で、空の明るい部分を描いて……だんだん濃い色を足していく。紫やグレーも少し混ぜて。雨上がりの空って、ただ青いだけじゃなくて、いろんな気持ちが混ざってる気がするから……悲しかったこととか、でも前を向きたいって思った気持ちとか」
 蒼太くんは目を細めて、私のスケッチブックをのぞき込んだ。風がページの端を軽くめくる。
「へえ……今のケヤキの絵も、そういう感じだね。葉の影の部分に、青と緑を混ぜてる? ただの黒い影じゃなくて、光が透けてるみたいに見える。すごいな。この木、ただの風景じゃなくて、生きてるみたいに感じるよ」
「うん……そう。影も、ただ暗いだけじゃないよね。光があるから影ができるんだって、最近思うようになったの」
 私が言うと、蒼太くんは嬉しそうに何度もうなずいた。
「僕もそう思うよ。僕の絵、よく『もっと明るく描けばいいのに』って言われるんだけど、僕は影のある絵が好きなんだ。明るいところだけじゃ、なんか物足りない気がして。……あ、よかったら僕の絵も見てくれる?」
 彼は自分のスケッチバッグから、一冊の少し使い込んだスケッチブックを取り出して開いた。
 差し出されたページには、夕暮れの川辺が描かれていた。
 オレンジと紫が混ざった空、水面に映る光と影、遠くの橋のシルエット。明るい色も使っているのに、どこか静かで、寂しげな雰囲気がある。
私はページをじっと見て、素直に思ったことを伝えた。
「すごく綺麗……。この水の反射、すごく自然だしこのオレンジと紫のグラデーション、夕方の空の寂しさと温かさが両方感じられて……どうやって描いたの?」
「水彩を薄く伸ばして、乾く前に少し色を足してる。君の絵みたいに、何度も重ねるのがまだ上手くできなくて……。あかりさんの絵は、層が厚いのに透明に見えるところがすごいと思う。僕、もっと勉強したいな」
 私たちはそのまま、ベンチに座ったままお互いのスケッチブックを見せ合いながら話した。風が時々ページをめくり、陽射しが紙の上を移動する。
 蒼太くんが、少し興奮した声で続けた。
「ねえ、このケヤキの幹のところ、すごくいいよね。木の表面の質感が出てる。僕、木を描くとき、いつもつるつるに描いちゃうんだけど、あかりさんはどうやってあのザラザラした感じを出してるの?」
「細かい線をたくさん重ねて、少しずつ色を乗せてるの。最初は薄い茶色で全体を描いてから、暗い部分に緑や灰色を混ぜて……。木って、生きてるから、ただの茶色じゃなくて、いろんな色が混ざってる気がするよ」
 蒼太くんは目を輝かせてうなずいた。
「なるほど! 僕も今度試してみるよ……明梨さんって、絵を描くとき、何を考えてるの? 僕、描いてるときは『この色でこの気持ちを伝えたい』って思うんだけど……うまく言葉にできないことが多くて。発表会の絵を見て、君はもっと深いところを描いてる気がしたんだ」
 私は少し迷ってから、風に吹かれながらゆっくり答えた。
「……私は、前に描いていた絵を全部破ってしまったことがあって。そのとき、すごく悲しくて、自分が嫌になって……消えてしまいたいって思ったの。でも、そのあと妹のひかりが、夜中に一人でピアノを練習してる姿を見て、すごく頑張ってるのに、誰も本当の苦しみを知らないんだって気づいた。
それから、自分の悲しかったことや寂しかったことも、隠さずに色の中に込めたいって思うようになったの。青い花の絵も、そういう気持ちを全部入れて描いたんだ。……蒼太くんは? どんな気持ちで絵を描いてるの?」
 蒼太くんは少し遠くを見て、静かに話した。
「僕も、目立たないほうだったよ。クラスで目立つ子じゃなくて、いつも後ろのほうで絵を描いてるみたいな。美術部に入ったのも、誰かと話さなくていいかなって思って。あかりさんの絵を見て、静かな色にもちゃんと価値があるって思えたよ。影や寂しさも、ちゃんと描いていいんだって……なんか、肩の力が抜けた感じがする」
 私は小さく微笑んだ。
 誰かに自分の気持ちを話すのは、初めてのことだった。でも、蒼太くんはただ聞いてくれるだけでなく、自分のことも素直に話してくれる。それが、とても心地よかった。
 会話が弾むにつれて、私の声も少しずつ大きくなっていった。
 蒼太くんが、少し明るい声で続けた。
「僕、最近は夕方の光が好きでよく描くんだけど、明梨さんはどんな色が一番好き?」
「雨上がりの空の青……。ちょっと寂しいけど、綺麗で、胸に染みる色。キンモクセイの黄色も好き。秋の光が当たったときの、優しいグラデーション」
 指を折りながら話すとたくさんあることに気づく。
「へえ、いいね。僕も雨上がりの空、好きだよ。雲が少し残ってる感じが、なんか希望みたいで。……あ、じゃあ今度一緒に雨上がりの公園に来てみない? そのときの空を二人で描いたら、きっと面白い発見がありそう」
「うん……それ、いいかも」
 そんな話をしていると、時間があっという間に過ぎていった。
風が気持ちよくて、陽射しが優しい。
一人で描いていたときより、世界が少し広く、色が少し鮮やかになったような気がした。
 一時間半くらい経った頃、蒼太くんがスケッチブックを閉じて言った。
「今日、来てよかった。また一緒にスケッチしない? 今度は川のほうとか、違う場所でもいいよ。
明梨さんが見ている世界、もっと知りたい。一人で描くのもいいけど、誰かと一緒に描くと新しい発見があるんだよね。……どうかな?」
 私は少し考えてから、小さく、でもはっきり頷いた。
「……うん。また、行きたい」
 蒼太くんは嬉しそうに笑った。その笑顔が、とても自然で、温かかった。
別れ際、彼は少し真剣な表情になって言った。
「あ、そうだ。今、俺の通ってるアトリエの絵画スクールがあるんだけど……よかったら、来てみない?
 週末に開いてる少人数のクラスで、プロの先生が教えてくれるんだ。美術部だけじゃなくて、もっと本格的に色や構図を勉強できるよ。僕もそこでいろんな人と出会って、刺激をもらってる。
あかりさんの絵、絶対先生も気に入ると思う。……どう? 興味ある?」
 私は少し驚いて、蒼太くんの顔を見た。
 アトリエ……プロの先生がいる本格的な絵画スクール。行ってみたい……もっと自分の色を磨きたいという気持ちが、じんわりと熱を帯びる。
「……本当に、私でもいいの?」
「もちろん。初心者向けのクラスもあるし、先生も優しい人だよ。僕が一緒に連れて行ってもいいし、まずは見学だけでも。どうかな?」
 私は少しの間、風に吹かれながら考えた。
 新しい場所への怖さと、でも「もっと上を目指したい」という気持ちがせめぎ合う。
 結局、私は小さく頷いた。
「……うん。興味ある。見学だけでも、行ってみてもいいかな」
 蒼太くんは嬉しそうに笑顔を広げた。
「よかった! じゃあ、また連絡するね。絶対楽しいと思うよ」
 私はベンチに座ったまま、彼の背中が見えなくなるまで見送った。
風がまだ頰を撫でている。
 
 スケッチブックのページを開くと、さっき描いたケヤキの木が、いつもより少し生き生きとして見えた。葉の影の部分に、ほんのり青が混ざっている。
青い空の下で、私は自分の色を、誰かと共有できた。

 正直まだ少し緊張するし、照れくさいけど……それは、悪い気持ちじゃなかった。むしろ、胸の奥に新しい淡い色が、静かに、優しく広がっていくような気がした。
 私は鉛筆を握り直し、次のページに新しい線を引いた。

 それは今日の青い空と、隣にいた誰かの気配、そしてこれから始まるかもしれない新しい世界を少しだけ感じさせる色だった。
 
 これから、どんな色を重ねていけるんだろう。そんな未来が、初めて少しだけ楽しみになった。