正しくない恋のはじまり

「……ありがとうございます」

取り繕うように小さく返すと、三浦さんはふっと視線を上げた。

「ただ───」


一歩、近づいてきた。

ほんのわずかな距離。
その瞬間、香りがふわりと揺れた。

……あれ。

一瞬、頭の奥で何かが引っかかる。この香り、どこかで…。
でも、その前に言葉が落ちてくる。

「青砥佑正。あの人には、あまり近づかない方がいいわよ」

「……え?」

思わぬ名前を挙げられ、つい顔を上げる。
三浦さんは、変わらない微笑みのまま続けた。

「仕事はできるけど、あの人」

少しだけ間を置く。

「───ああいうタイプ、扱いが難しいから」


言い切ると、すぐに一歩引いてすっと距離を戻した。
それだけなのに、空気が少し軽くなる。

意味が理解できず、私は言葉を探した。

「え、あの、それって……」

何を聞けばいいのか分からない。
三浦さんは「分からないの?」と眉を寄せて小さく首を傾げた。

「気をつけて、ってこと。どう見たって危険でしょ」

それだけ言って、背を向ける。


言うだけ言い残して一瞥したあと、彼女は迷いのない足取りでそのまま会議室を出ていった。


残された空気が、妙に静かに感じる。
一拍遅れて心臓が音を立て始めた。


───今の、どういう意味?
青砥さんのこと?
それとも、別のなにか?


考えようとして、ふと、さっきの違和感が戻ってくる。
近づいたときの香り。
整えられた指先。細いブレスレット。

頭の奥に、別の光景がかすかに浮かぶ。

暗い非常階段。閉じかけたドア。
部長の腕の中に重なっていた誰かの、影。


「……まさか」

小さくつぶやいてから、すぐに首を振った。


そんなわけない。
ただ、似ていただけだ。
そう思い込むように、私は資料を強く持ち直した。