正しくない恋のはじまり

青砥さんはもう、隣にはいなかった。

自分のデスクで鞄にパソコンをしまっている。何もなかったように。
だから余計に、彼のことが分からなくなる。


「……藤井さんは、不用意ですね、たまに」

ぽつりと、付け足された。
視線は、こちらに向かないまま。

私がちゃんとまだ言葉を待っているのを、知っている。

「誤解されますよ」


もう絶対に。仕事の話では、ない。


「僕は帰ります」

まだ動けない私のことを、青砥さんはまったく見ていなかった。

「このまま進めれば、明日の会議は問題ありません」

近かったはずの距離と空気が、また遠くに戻る。
全部、なにもかも元通りになってしまった。

「……はい」

遅れて返事をするしかなかった。

青砥さんはそこからただの一度もこちらを見ないまま、言葉通りに先に事務所を出ていった。


ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
一人になった会議室は、さっきよりも当たり前に静かだ。

やっとの思いで息を大きく吐いた。

「……なんなの…」

小さく、こぼれる。

視線を落とすと、まだ画面は開いたままになっていた。
カーソルがチカチカと点滅している。

仕事の続きが、そこにあるのに。
頭に浮かぶのは、さっきの言葉ばかりだった。


───『無理してますよね』
───『他人にあまり言わない方がいいですよ』


キーボードの指が、また止まる。


胸の奥が、落ち着かない。
怖い、のに、どうしてなのだろう。


少しだけ。もう少しだけ。あと少しでいい、と。


また話したいと思ってしまう。
その自分に、気づいてしまった。