正しくない恋のはじまり

視線を上げる。
いつの間にか、近い。でも、触れない距離。
逃げるほどでもないのに、なんとなく落ち着かない。

「ただ、」
次に聞こえたその声は、周りに聞こえないくらいの小さな声だった。

「その組み方だと、持たなくなりますよ」

静かに落ちてくる声。

「崩れると、全部止まります」

一瞬、何を言われたのかまったく分からなかった。

ストレスケースの話、前提の話、数字の話。

分かっているのに。その話をしていたはずなのに。
───違うところに、引っかかる。

持たなくなる、崩れる、止まる。
それが、資料のことだけを指しているようには聞こえなかった。

「……はい」

返事をするまでに、だいぶ時間がかかってしまった。不自然なほどに。
自分の声が、思っていたよりも小さい。


どこまでが仕事の話で、どこからがそうじゃないのか、分からなくなる。
青砥さんは、それ以上なにも言わなかった。

ただ、こちらを一度だけ見て、それから視線を外す。

追及しない。
補足もしない。
置くだけ、置いていく。

言われた言葉だけが、妙に頭に残る。
さっきまで整えていたはずの数字よりも、ずっとはっきりと。


───この人は、どこまで見ているんだろう。