正しくない恋のはじまり

「おはようございます、藤井さん」

何もなかったみたいな声。

昨日の続きなんて、存在しないみたいに。穏やかでやわらかい、優しい響きを持っている。
でもどこかにちらつく、針のような一本の鋭い気配。


喉が、うまく動かない。それでも、どうにか返す。

「…おはようございます」

一歩、距離を取る。
でもそれは、ほんの数センチでしかない。

「今日は役員報告会ですよね」

彼は手元の資料に視線を落としたあと、またこちらを見る。

「ずいぶん綺麗に整ってる」

心臓が、強く鳴る。

───見たの?
言葉にはしない。できるわけがない。


「…最新版は、昨夜上げています」

できるだけ平坦に。なにも含まない声で返す。
彼は、ほんの少しだけ口元を緩めた。

「でしょうね」

というその一言に、どうしてなのか、背中が冷える。

「藤井さんは、整えるのがお上手なようで」

静かな声。

表面は褒めているはずなのに、まったく安心できない。
ぐにゃりとゆがんだものが胸でうごめく。

「本当に無駄がない。きれいにまとまってる」

笑顔を浮かべたまま、彼はちらりと横目で私を見下ろした。

「…だから、気づきにくい。違いますか?」


息を、しなくちゃ。
彼のひと言ひと言に、惑わされないように。脳に酸素を回す。

なんのことなのか、具体的には言わない。
それでも、分かってしまう。

この人は、もう見ている。全部じゃなくても、“どこか”を。


「…失礼します」

それ以上、そこにいられなかった。

視線を外して、急ぐように会議室のドアに手をかける。
背中に、視線が刺さっているのは痛いほど感じ取れた。だからこそ、もうここにはいられない。

「藤井さん」

呼ばれて、止まる。
振り返らないまま、立ち尽くす。

「あとで、少し時間もらえますか?」

逃げ道を塞ぐみたいな、穏やかな声。
断れるはずがないと、分かっている言い方。

「……予定、確認します」

声が震えないようにそれだけ言って、ドアを開けた。


室内の空気が、一気に流れ込んでくる。

いつもの会議室。
いつもの役員たち。

それなのに─────
さっきまでいた場所の空気が、まだ、身体中をまとわりついている気がした。