正しくない恋のはじまり

「急ぎです」

一方の青砥さんも即答で返す。まったく引く気はないようだ。
むしろ、相手と同じ仕草をわざとらしくするように、私と部長の顔を視線でさまよわせた。

「どうしても“取り込み中”ならば、また来ますが」


私は、なにも声を出せなかった。

まだ始まってもいないのに、なんともいえない空気が室内を駆け巡る。

「……急ぎなら、いいだろう」

先に引いたのは、意外にも部長だった。
その顔は、いつも通りに見えてもどこか青砥さんに対しての不信感が見え隠れていた。


「藤井さん」

青砥さんに名前を呼ばれる。

それだけで、あんなに動かなかった身体が動いた。

立ち上がると、自然に部長との距離が離れる。

…助かった。
そう思った瞬間。

「また、話そう」


背後から、静かに落ちる声。
足が、一瞬止まりかける。

その“一瞬”の間に、とん、という静かな手のひらの感触が背中に置かれた。
見上げると、青砥さんは前を向いたまま。

でも、この背中のわずかな感覚が教えてくれた。

“振り返らないで”そう言われているような気がして、なんとか部長室から出られることができた。


部屋を出て、扉が閉まる。
ふわっと、いつものフロアの空気が戻ってきた。

ただひとつ。私の呼吸だけが、うまく戻らなかった。