正しくない恋のはじまり

「何か、気づいたことはないのか?」

詰め寄られる形になり、気づけば無意識にぎゅっと手に力を込めていた。
ここでなにかを言わなければ、私はどうなるのだろう。

「……なにも」

思わず、口が動く。
勝手な自分に、やめて、と思ったときには遅かった。

「なんだ?」

すぐに拾われ、急いで無難な言葉を探す。

非常階段で目を覆って現実から逃がしてくれたあの手と、目の前にいる部長の手。
どちらが正しいのか、どちらがきれいなのか。

「……まだ、なにも見えません」

下を向いたまま、絞り出した。それなのに。
部長は待ってくれない。

「会話のどこかになかったのか、やつの違和感とか」

その言い方はあくまでやさしい。でも、渦まく“なにか”は確実に感じ取れる不気味さが混ざり込んでいた。

それが一番、怖い。


言ったら終わる。頭のどこかでそれだけは分かる。
何が終わるのか分からないというのに。

「……」

声が、出ない。

部長は私の顔をじっと見て、おそらくなにか言うのを逃さまいと待ち構えている。


重苦しい沈黙がどのくらい続いただろう。
不意にコンコン、とノックの音がした。

「失礼します」

こちらの返事を待たずして、ドアが開く。

「青砥です」

はっきりと名前が落ちて、やっと顔を上げられた。
突然の来訪で空気が切り替わったので、思わず振り返った。

青砥さんが立っている。
視線が合ったのは、たぶん一瞬だけ。
でも、確実に私の顔を見たのは感じ取れた。