正しくない恋のはじまり

中に入ればどうなるのか、もう見えてしまう。

想像してしまって、心臓の音がうるさくなった。
呼吸を整える。整えたところで、何も変わらないのに。


まだ緊張を抱えたまま、ノックをした。

「失礼します」

「どうぞ」

前よりも柔らかい声。
それなのに、背中が冷える。

中に入ると、部長はデスクに座ったまま、こちらを見ていた。

「座って」

静かな指示に、従う。部長と向かい合うように座ると、すぐに切り出された。


「最近、どうだ?」

それはまるで、世間話みたいな声。
でも、その一言で、全部分かる。

「……どう、というのは」

答える時間を稼ぐために、意味のない聞き返しをしてしまった。

「青砥のことだよ」

当たり前のように、部長の口からその名前を出された。

「どうだ。何か見えてきたか」

やっぱり、“それ”だ。

「……いえ、まだ」

答えながら、自分でも分かる。何も言えていないのと同じ。

「───そうか」

短く返されて、視線だけが私にまとわりつく。
否定も、肯定もない。それが一番きつい。


椅子がわずかに動く音がして、部長が立ち上がるのが見えた。

急いで顔をうつむかせる。
これは、この場面だけは、目を合わせてはいけないと。本能が訴えてきた。

一歩、一歩。確実に私に近づく足音。
机の横を回る。こちらへ来る。


……やめて。
そう思った時には、もう遅かった。


すぐ横で、足が止まる。

座っている私を近い距離で見下ろす位置。
視界の端に、スーツの布地が映り込んできた。

同時にほんのわずかに、香りが落ちてくる。
整った、大人の匂い。