正しくない恋のはじまり

「最初はみんなそう言います」

青砥さんは冷静に小さくそう言うと、私のさっき落としかけた資料に視線を落とした。

“みんな”というその言葉が、少しだけ引っかかる。
この人は、どこまで知ってるんだろう。

不意にまた、こちらを見る気配がした。

「藤井さんならできますよ」

断言。
根拠はないのに、不思議と否定できない。
心臓が、静かに揺れる。


「……なんで、そんなこと分かるんですか」

聞きながら、こんな時に部長から言われたことを思い出してしまった。

『雑談でもいいし、確認でもいい』

───無理だ。やっぱり、私には。
この人にそんなことは、どうしたって無理に決まっている。

彼はほんの少しだけ口元に笑みを浮かべた。

「分かりますよ。藤井さんのこと、見てますから」

それだけ言って、視線を逸らされた。
どきっとしたのを悟られたくなくて、シンクの縁をつかんでいた手に力を込める。踏ん張るように。


物理的な距離は遠くても、一気に私たちの距離が近くなったことだけは感じ取れた。

言葉が出ない。
呼吸だけが少しずつ整って、いつもみたいに息ができるようになっていた。

「大丈夫ですか?もう、戻れます?」

穏やかな声で尋ねられ、私は小さくうなずいた。
さっきよりも、確実に優しい。

コーヒーなんて飲む気にもなれない。


私は彼から資料を受け取り、給湯室を抜けて歩き出す。
隣に、彼がいる。
さっきまでとは違う距離で。

それが安心なのかどうかも、まだ分からない。


もう元の場所には戻れない。

そう思うのに。隣にいるのに。さっきまでより、ずっと近いのに。

───どうしてか、余計に分からなくなる。

この人は、味方なのか。
それとも。
それでも。


隣の気配だけは、なぜか離れなかった。