正しくない恋のはじまり

彼は少しだけ視線を落とした。考えるように。言葉を選ぶように。

「普通かどうかは、あまり意味がないですね」

そう答えたのは、静かな声だった。
でも、さっきより少しだけ温度がある。

「ただ、珍しくはないです」

現実。それを、やわらかく突きつけてきた。

どうしても言葉が出てこない。なんと返せばいいのか、分からない。
ただ、さっきよりは呼吸ができる。


彼は、そこで少しだけ距離を詰めた。
触れない程度に。
でも、はっきり分かる近さ。

「藤井さん」

名前を呼ばれる。

「全部を綺麗なままで見てると」

少しだけ、声が落ちる。

「…しんどくなりますよ」

責めてるんじゃない。守ってるような。
でも、完全には守らない。


「……青砥さん。私、どうすればいいんですか」

思わず、助けを求めるように聞いてしまった。こんな聞き方をするつもりじゃなかったのに。
彼の顔を見たら口から出てしまった。

彼は少しだけ目を細めた。

「慣れる必要はないです」

そこだけは、即答だった。

「ただ、切り分けた方がいい。僕はそうしてます」

急に仕事の声に戻る。でも、冷たくはない。

「仕事と、それ以外で。切り分けるんです」

その一言で、空気が少しだけ整理される。

「……できる気がしません」

正直な気持ちが、こぼれてしまう。
どうしてなのか、今日に限って。

“あの場面”を二人で見てしまったからなのか。