正しくない恋のはじまり

「藤井さーん、お忙しいところすみません」

視線を上げると、営業の若い男性が一人、少しだけ困った顔で立っていた。

「この資料のここの数字、昨日のと変わってません?」

差し出された紙を受け取る。
該当箇所を確認して、ほんの一瞬だけ考えた。

「ああ、これ、昨夜修正入ってるやつです。最新はこっち」

迷いなく答えて、データを開いて彼に見せる。

「取得予定地の単価、再計算したので。こっちの方が正しいです。差し替えてもらってもいいですか?」

「あ、すみません、助かります」

軽く頭を下げて去っていく背中を見送りながら、私は息をついた。


よし、ちゃんとできてる。
問題はないはずだ。

そう思いたいのに、頭の奥でかすかに引っかかる。
『全部、仕事で片付けるんですね』
…何回、出てくれば気が済むの。


カーソルが、同じ行の上で止まっていることに気づく。

数字は合っている。資料も問題ない。
それなのに、どこか一か所だけ、見落としている気がした。
理由なんて、分からない。
ただ、落ち着かない。


無意識に、もう一度スケジュールを開く。
“午後五時、外部コンサル打ち合わせ”その文字列を、なぞる。

名前は、変わらない。
青砥佑正。


画面を閉じる。
勢いよく閉じたせいで、デスクの上のペンが小さく揺れた。


「…大丈夫」

誰に言ったのかも分からないまま、小さくつぶやく。

仕事だから。
そうやって、私はずっとやってきたんだから。