正しくない恋のはじまり

足音が、一歩だけ近づく。
逃げようと思えば、逃げられる距離。
でも、シンクにもたれたまま動けなかった。

「……どうして見ちゃったんだろう」

その言葉の裏で、別の声が重なる。

『見ていれば分かることもある』
───違う。
こんな見方、したくない。


ぽつりとこぼした、誰に言ったのか分からない言葉。
明るい給湯室の照明が、まぶしく思える。

彼は、すぐには返さなかった。
ほんの少しだけ間を置いて、

「そう思いますよね」

と、否定しなかった。でも、肯定もしない。
ただ、受け取る。
それだけなのに、少しだけ呼吸が戻ってきた。

「でも」

低く、続く。

「見てしまったものは、なかったことにはできないです」

優しいのに、刺してくる。矛盾した言葉。
胸の奥が、あの光景を無理やり引き出してくる。

「……あれが、普通なんですか」

気づけば、答えなんて求めてもいないのに聞いてしまった。