正しくない恋のはじまり

部長室の前で、軽くノックをした。

「失礼します」

中に入ると、部長はデスクに向かって書類に目を落としていた。
こちらを見ないまま、「入れ」とだけ言う。

その声に、ほんのわずかな違和感が混じっている気がした。

扉を閉める音が、やけに大きく響く。

「座りなさい」

短い指示に従って、向かいの椅子に腰を下ろした。
少し遅れて、やっと部長が顔を上げた。
一瞬だけ目が合う。それだけで、視線を外したくなる。

瞬きのうちに部長はもう書類にまた目を戻していた。


「昨日の会議、見ていたな」

「…はい」

返事がわずかに遅れたけれど、問いかけにすぐに短く答える。

部長はそれを気にする様子もなく、手元の資料をめくった。
紙の擦れる音だけが、妙に耳に残る。

「青砥のことだ」


その名前が出た瞬間、どきりとする。
予想していたはずなのに、逃げ場がなくなる。

「外部として入れているが、少し想定と違う動きをしている」

淡々とした口調だけど、別のものが混ざっている。

ただ事実を置いているだけの言い方なのに、その中に見え隠れする、“なにか”。

「……どのあたりが、ですか?」

慎重に問い返す。自分の声が、少しだけ遠い。

また頭がズキン、と痛んだ。顔をゆがめないようにするのが精一杯だった。

「やつは、余計なところを見る」

短く、切り捨てるように言った。

「与えた範囲だけ見ていればいいものを」

彼はトントンと机の上の資料を、指先で軽く叩く。一定のリズム。
じわじわと私の逃げ場を削るみたいに。

部長の声色がずっと低いまま続けられる。

「整理だけでいい案件だ。そうだろう」

「…はい」

「だが、あいつは中身まで触る」