正しくない恋のはじまり

「……青砥さん」

呼んだ瞬間、遅れたみたいに心臓が鳴る。

やめようと思った。
ここでやめれば、まだ戻れる。

なのに、それは止められない衝動みたいなものだった。

「あなた───」

言葉が、止まらなかった。

「何者なんですか」


いっとき、空気が止まる。

彼は、すぐには答えなかった。
視線が、わずかに細まる。
その変化だけで、距離が一歩縮まった気がした。

「何者か、ですか…」

小さく繰り返す私の言葉。
問いというより、なにか味わうみたいに。

そして、ほんの少しだけ笑った。


「ただの外部ですよ」

あっさりした答え。
でも、それが答えになっていないことくらい、私にだって分かる。

思わず、息を飲む。

「そうは見えません!」

気づいたら、言い返していた。

彼は一瞬だけ黙って、それからゆっくりと視線を落とす。
足元、私の手元、そしてまた目へ。
測るみたいに。

「じゃあ」

ほんの少し、声が低くなる。

「藤井さんには、僕のこと、どう見えてるんですか?」

立場が逆転し、一気に逃げ場がなくなる。
答えられないのは分かっているのに。視線を逸らせない。

さっきより、近い気がする。
何も触れていないのに、距離だけが曖昧になる。

「……分かりません」

やっと出たのは、それだけだった。

彼は、ほんの一瞬だけ目を細める。
それが笑ったのかどうか、分からない。

「そうですか」

それ以上は、踏み込まない。
でも、思っていた返事は来なかった。

「分からないままでいいと思いますよ、まだ」


静かに落ちたその一言だけ、なぜか耳に残った。
距離が戻り、さっきまでの空気が、ふっとほどける。

「では、今度こそ。失礼します」

この会話はなかったみたいに、彼はそのまま通り過ぎる。


残されたのは、沈黙と。
うまく呼吸ができないままの、自分だけだった。