正しくない恋のはじまり




キーボードの音だけが、静かに響いている。

……もういい。
今日は、ここまでだ。諦めよう。
青砥がいる限り、誘うのは無理な気がした。


ため息をついて鞄を持ち、お疲れ様でしたーって無気力につぶやいたら。

「橋本さん」

事務所を出ようとした俺に、やつが声をかけてきた。

ゆっくり振り向く。もはやホラー。もうミステリー。


青砥が、前髪の隙間からこちらを見ていた。

なんなんだよ、その見透かしたような目は。

……最初から分かってたみたいな。
俺が、何しようとしてたか。


淡々とした声で、

「本日の件ですが」

と目を細めた。


なんの話だ?
そう思った次の瞬間、言葉が落ちてきた。

「藤井さんの業務時間を考慮すると、これ以上の対応は明日に回した方が適切です。……不要なやり取りであれば、なおさら」

───ああ。

「本来であれば、すでに終業時刻を過ぎていますので。業務外のやり取りと誤解されるような動きは、控えていただいた方がいいかと」


完全に、言われた。分かってて、言ってる。

名前は出てない。
でも、逃げ場もない。

「……はい」

それしか、出てこなかった。


青砥は軽くうなずくと、もうこちらを見ることはなかった。
まるで、最初から存在していなかったみたいに。

当たり前のように、あかりちゃんの隣に戻る。


あの二人、なんなんだ。

……なんで、あんな普通に話してるんだよ。