正しくない恋のはじまり


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午後の空気は、どこか鈍かった。
会議が終わってから時間は進んでいるはずなのに、思考だけが追いついていない。


パソコンの画面には、さっき確認したはずの資料が開いたままになっている。

開発収支のシミュレーション表。今期と来期の数値が並んでいた。

差分は、ほんのわずか。
それでも、その“わずか”をどう見せるかで、意味は変わる。

さっきまでは、ちゃんと整って見えていたはずなのに。
今は、どこか歪んで見える。

同じ行を、何度も目でなぞる。数字は変わっていない。
変わったのは、見え方だけだ。


「藤井さん」

集中できていない頭で仕事している時に名前を呼ばれて、はっとして顔を上げる。

一瞬だけ、呼吸が止まった。

「お時間いいですか?」

青砥さんだった。

いつからそこにいたのか分からない。
周囲の空気は何も変わっていないのに、そこだけが静かに浮いている。

「……はい」

断る理由もなく、短く返す。自分の声が、わずかに遅れて聞こえた気がした。

彼はデスクの横に立ったまま、画面を覗き込む。
距離が、近い。
煙の匂いは、もうしない。
それでも、さっきの空気が、まだどこかに残っている。


ふと気になって周りを気にしてしまったけれど。
誰もこちらを気にしていない。
そう思いたかっただけかもしれない。