正しくない恋のはじまり

夜の空気は、少しだけ冷えていた。


ビルを出た瞬間、昼とは違う匂いがする。
車の音と、人の話し声。

仕事とは関係のない音が、やけに遠くて、少しだけ軽い。

───あの数日が、ようやく終わったのだと分かる。


振り返れば、オフィスの明かりはまだ点いている。
あの中で、また明日も仕事が続く。

ただ、同じではない。

ほんの少しだけ、空気が変わった。


誰も何も言わないけれど、視線の置き方とか、距離の取り方とか。
見えないところが、確かに変わっている。

その中で、自分がどう見られているのかも、なんとなく分かるようになった。


それでも。

前を向いて、仕事をするしかないのだと、もう迷わず思える。


「……藤井さん?」

隣からの声で、意識が戻った。

青砥さんがポケットから煙草を取り出していた。
慣れた手つきでライターの火をつけかけて、私の顔を見て、一度手を止める。

怪訝そうな顔をしている彼に、少しだけ迷ってから、思い切って口を開いた。

「じつは私、煙草が苦手で」

言ってから、少しだけ後悔する。