正しくない恋のはじまり

彼女は一歩、距離を取った。
それだけで、さっきまでの圧がすっと引く。


距離はあるのに、楽にはならない。

むしろ───

「ここで止めるってことはさ、この先のこと、全部引き受けるってことだからね。その重さ、分かってる?」

三浦さんにこうして言葉にされると、逃げ場が完全になくなる。

「……はい」

やっと出た声は、思っていたよりも小さかった。
それでも、ちゃんと届いた気がした。


三浦さんはそれ以上何も言わない。

ただ一瞬だけ思い立ったように視線が揺れ、私ではなく───その隣へ。

ほんのわずか。
けれど、見逃せないくらいはっきりと。


「最後まで、ちゃんと見てあげてくださいね」

彼女にしては、静かな声だった。

仕事の話みたいに聞こえるのに、それだけじゃない意味が、確かに含まれている。

コツ、とヒールの音。

「───途中で手を離すくらいなら、最初から踏み込まない方がいいですよ」

やわらかいままの声で、そう続けていた。


彼女のそれが、誰に向けた言葉なのか。
分からないふりは、もうできなかった。


「部長、行きましょう」

そのまま、彼らは振り返らずにドアへ向かう。

部長も、何も言わない。

すれ違う時、一瞬だけ視線がかすめた気がしたけれど、確かめる余裕はなかった。


部長たちが出ていき、ドアが閉まる。

同時に、残された静けさが遅れて広がった。


さっきまであれだけ詰まっていた空気が、一気に抜けたはずなのに、胸の奥はむしろ重くなっていた。