正しくない恋のはじまり

「ひっくり返しているのは数字ではありません。残っている記録です」

青砥さんは、先ほどの部長の猛追を軽くかわすように、少しも間を空けずに返した。

それだけで、また空気がぴんと張る。今にも切れそうな、細くてちぎれそうなそれが、室内に。

部長のこめかみが、わずかに動いた。

「記録、記録ってな」

とうとう、押し殺していた感情が声に滲む。

「現場は記録だけで動いてるわけじゃない」

「存じています。だからこそ、例外処理には承認と記録が必要です」

「机上の理屈だ」

「理屈ではありません。最低限の統制です」

どんなに部長が押し続けても、青砥さんはびくともしない。低く、まっすぐに返すだけ。

部長が再び言葉に詰まった。


その一瞬の隙に、三浦さんが口を挟んだ。

「部長、少し落ち着きましょう。ね?」

柔らかい声。
けれど、今の三浦さんのそれは、空気を和らげるためじゃない。

これ以上部長に喋らせると不利になる。
そう読んでいる声だと分かる。

「論点を戻した方がいいです」

そう言ってから、三浦さんは私を見る。
彼女はここに来てから、ほとんど私しか見ていない。