正しくない恋のはじまり

しばらく沈黙。
それでも、すぐには動けなかった。距離はずっと近いままだった。

呼吸が、合いそうで合わない。

「…もう大丈夫ですよ」

先に離れたのは、彼だった。
何事もなかったみたいに、一歩分の距離を戻す。

さっきまでの近さが、嘘みたいに消えた。


「……すみません」

なにに対しての謝罪か、自分でも分からないまま口にする。
彼は、煙草を軽く指で弾いた。

「いえ」

という短い返答のあと、ほんの少しだけ目を細める。

「聞こえたでしょう」

問いではなく、確認。

「……はい」

ここは正直に小さく答えると、彼は少しだけ視線を外して、煙を吐いた。

「まあ、そんなものですよ。いつものことです」

他人事みたいに、淡々と。
でも、

「気にしなくていい」

その一言だけ、温度が違った。

───ずるい。

そう思った瞬間、胸の奥が小さくざわつく。


青砥さんはポケットから携帯灰皿を出して、煙草の火を消してしまっていた。

その横顔に声をかける。

「…戻ります」

それだけ言って、私はドアに手をかけた。
今度こそ、振り返らない。


背中に視線を感じながら、その場を離れる。
さっきまで目の前にいた空気が、まだ身体に残っている気がした。

煙の匂いと、あの距離と。
……心臓の音が、うるさいまま。