正しくない恋のはじまり

「……シッ」

低く、短い声。
と同時に、手首を軽く引かれた。

距離が、一気に縮まった。壁際に押しやられる形で、息が詰まる。
すぐ近くに、彼がいる。

煙草の匂いが、ふっと近づいた。
さっきよりも、ずっと近く。

心臓が、うるさい。


「あの青砥ってやつ、誰が呼んだんだよ」

「部長じゃないの?ああいうの好きそうじゃん。“ちゃんとやってます”感出したかったんじゃない?」

「正直やりづらいよな。あんな細かいとこまで突っ込まれたらさ」

ドアの向こうで、会話が続いている。
私は息を潜めたまま、動けない。

…こんなこと、聞いていい話じゃない。

「……あの」

私が言いかけた、次の瞬間。
指先が、わずかに口元に触れる。遮るように。
触れた、というよりは、“止められた”。

『何も言うな』という合図。

視線を上げると、すぐそこに彼の目があった。
急いで小さくうなずいたものの、つかまれたままの手首が、どこか熱い。

近い。近すぎる。息が混ざりそう。
彼の長めの前髪が、少しだけ揺れる。
その奥の視線が、まっすぐこちらを捉えていた。

逸らせない。
逸らしたら、何かが崩れる気がする。


外の声は、まだ続いていた。

「まあでも、ああいうの入れとかないとバレるしな」

「……それもそうだけどさ」

会話が遠ざかっていく。少しずつ、足音も消える。